ばかな女とうっかり男

※現パロ
※品がない
※何でも許せる方向け

※何でも 許せる 方 向け





















 やらかした。思わず、喉奥から呻き声が零れ出る。

 漫画やドラマじゃあるまいし、なんて笑い飛ばしていた頃が懐かしい。そりゃあよく耳にする話ではあっただろう。だが、実際そんなことありえるのか、なんてフィクションも此処まで脚色してしまうと現実味の欠片もないと、そう、思っていた。しかし真実は『火のないところにはなんとやら』、即ちフィクションの中には多かれ少なかれノンフィクションも紛れていたということで。そんな単純で、そして大事なことを過ちの後に気付いてしまうというのは、古今東西万国共通の愚かさと皮肉の一つでも言うべきか。

 いいや、いいや。言っている場合じゃない。視界良好。体調オールグリーン。しかし、昨晩の記憶がほとんどない。不自然なほど広いソファと映画のスクリーンのように大きな壁掛けテレビ、そしてベッドサイドに無造作に投げ捨てられているのは私が身に着けていた衣類たち。到底一人暮らしの自宅には配置できないようなキングサイズのベッドの上で、素っ裸のまま私はムーディなランプの灯る天井を見上げて呻いた。記憶はない。しかし、この状況、そしてゴミ箱に叩き込まれたティッシュの山と蛍光色のナニか、そして何より、布団をかぶったままもぞりと動く自分とは異なる気配。ああ、やってしまったと、再度呻いたのだった。

 ああ、せめてこれが行きずりの他人であればどれだけよかったか。いやまあ、2年付き合って今のところ関係も良好である恋人がいる身としてはこの時点で十分不味いのだが、それを差し引いても首が回らなくなるほどの負債が募り積もっていた。なんたって私の横で死んだように静かな寝息を立てる男を、私はよくよく見知っているからだ。普段人を食ったようなニヒルな笑みは睡眠時は成りを潜め、呼吸は浅く静かで不気味。色白の肌にピンクのランプの光が馬鹿馬鹿しいほど艶めいて、普段キッチリ整えられているオールバックがぱらりぱらりと乱れていることが、昨晩の行為の激しさを物語っているだなんて、官能小説でも言わないようなことを思ってしまう程度には、私は混乱極まっていた。何故、どうして。その言葉だけがぐるぐる脳裏を手を叩いて輪になってスキップしていく。

「お、尾形──さん……」

 尾形百之助。うちの会社の営業7課所属の営業だ。7課は鶴見本部長のお気に入りが集まると専らの噂で、鶴見組は出世コース、なんて揶揄られるほどには営業成績トップクラスの精鋭揃いであった。営業1課所属の私は尾形さんと関わる機会はほとんどなかったが、彼は話題に困らない程度にはあれこれと噂の絶えない人であった。曰く、親会社の花沢副会長のご子息だそうだが、花沢勇作専務とは腹違いと聞く。苗字からその関係は察するところではあるが、クールというか塩というか、本人はあまり気にしてなさそうだった。寧ろ、仕事のできる7課にいい男がいると、人事や総務の女の子から人気があるため、そういう方面の話のが耳に入ってきた。個人的な意見としては、こんな無愛想な人のどこがいいのか、というところではある。同じ1課の杉元くんも、彼の人気ぶりに首を傾げていたが、全くの同意見である。仕事も真面目だが、イマイチ何考えてんのかよく分からず、先方もよくこんな男が来てにこやかに応対できるものだと思ったが、彼は恐ろしいほど仕事が早いことでも有名だった。ほとんど私語をせず淡々と仕事を進めるクールな男、というのに弱い女子というのは多いのかもしれない。だが、尾形さんの有名なのは、出自でも仕事の早さでも顔の良さでもなく、このモテように反比例するかのように、極度の女嫌いである、というところだった。

 同じ営業部といえ、1課と7課が交流するタイミングなんて数えるほどもなく、せいぜい4半期締め後の飲み会ぐらいが交流の場。とはいえ総務や人事の綺麗で可愛くて仕事に恋にと両立させる華やかな女性たちが尾形さんの恋人の座を狙わない道理はなく。私なんかが近寄らずとも、常日頃から彼の周囲には虎視眈々と策略を練る女性で溢れ返っていた。そして帰りたがる尾形さんを鶴見本部長が引き留め二次会三次会へと連れ回し、その間彼女たちは少しずつ尾形さんに近付いていき、いざ終電近くになれば我こそはという女性が伝家の宝刀『尾形さあん、終電無くなっちゃったあ』を切り出すのである、が。

『そうか。タクシーならまだあんだろ』

 一刀両断。彼のすごいところは自分の腕に絡みつく女性をそのままにタクシーを呼びつけ、女性に万札握らせてからタクシーに放り込み、自分は悠々と別のタクシーに乗って帰っていくところだった。その手際の良さと、躊躇いなく女性の誘いを無碍にするその姿勢が面白く、私を始めとした営業1課ではその一連の流れを『出荷』と呼んだりしていた。

〔人事の新人ちゃん、昨日出荷されたらしいよ〕

〔マ? あの顔のレベルでもだめなんだ尾形さん〕

〔すげー。今年度だけでも、出荷数二ケタいったでしょ〕

〔なんで尾形のヤロウってモテるんですかね?〕

 なんてグループチャットで話題にするぐらいには、有名な話だった。もうどんな美女も、どんな性格美人も、どんなスタイル抜群でも、尾形さんはあのメジェドのような表情をぴくりとも動かさず、黙々とタクシーを呼びつけるのだから、出荷済みの女の子たちは負け惜しみにあいつはホモだと喚き散らしたりしていたが、尾形さんの塩対応は男女平等すぎるほどだったので、単に人嫌いなのだろうというのが、私たちの見解だった。現に地元が同じだという杉元くん曰く、尾形さんは昔からああらしいので、よくあの愛想のなさで営業部行けたなと、午後のコーヒー片手に感心したのだった。

 片や私はどこにでもいる営業ウーマン。入社してしばらく経ち、部下も何人か抱えていた。杉元くんもそのうちの一人。誰にも打ち明けていないのだが、2年前から3課の後輩と付き合っていること以外は、どこにでもいるそこらのサラリーマンと大差ない女だ。社内恋愛には気が進まなかったのだが、相手の熱意に負けて付き合い出した。社内恋愛が嫌というか、会社に一片の私情を持ち込むのが好きじゃなかったのだ。だから付き合ってることは誰にも言うなと彼に言い聞かせ、彼もまた私と同じく公私混同はしたくないと言い、何だかんだ誰にもバレずに2年が経過した。別段不仲でもなく、寧ろ仲は良好。これまで大きな喧嘩もなく、週末はどちらかの家で映画見たりのんびりしたり、たまに元気があればドライブするとか、そんなごくごく普通の恋人同士だった。昨日──そう、覚えているのは昨日の夜。締め日を超えた月初の花金。久々に洒落たデートにバーにでも、なんて約束していたが、終業間際に彼の方へ至急対応案件が滑り込み、デートは急遽キャンセルになった。しかし、そのくらいで腹立てるほど器の小さい女ではない。寧ろ顧客名を聞いて、あのクソ面倒なフロントがいるところかと同情さえしたほどだ。また今度埋め合わせするからと平謝りする彼に、私は心の底から気にしないでと返したのだ。ただ、この日のために下ろしたワンピースや気合いの入ったメイクを無駄にするのはどうも惜しい気がして、たまには一人で飲みに出てみるわと言い、あまり遅くならないようにね、なんて優しい言葉を貰ったのだ。そう、そこまではハッキリしている。記憶の糸を手繰り寄せ、その先を思い出そうと頭を抱えた。

 そう、そうだ。衝動買いしたネイビーブルーのワンピースにサッシュベルト巻いて、普段しないようなお洒落に同僚や杉元くんからデートかとからかわれながら、残念独身貴族よと軽くいなして会社を後にした。恋人の存在をひた隠しにしているので、普段会社から離れた場所で飲むなり食うなり遊ぶなりしているのだが、せっかく一人なのだし、会社近辺でもふらついてみようと。そう、それで会社から一駅ぐらい歩いたところの小道に、ぽつんとしたバーを発見したのだ。店先に飾られたCasablancaのポスターと、扉越しに聞こえる“As Time Goes By”が気に止まり、迷わず扉を押し開けた。中に客はおらず、私の母親と同じぐらいの年の女性バーテンダーがニッコリ微笑んで出迎えた。ジントニックを注文し、『これが友情の始まりだな』とグラスを掲げると、案の定映画好きらしい彼女は目を輝かせた。私も映画が好きだった。ただ、古い映画はさほど知らず、他に客もいないことをいいことに彼女のおすすめに耳を傾けながら軽食をつまみ、カクテルを飲み続けた。

 ──そうだ、それから1時間ぐらい喋りながら飲んでた時、店に尾形さんが来たのだ。あの何考えてんのか分からない顔をぶら下げたまま、一人で、だ。尾形さんでも一人で飲むことあるんだなあ、と物珍しいもの見たさに一瞬目線を誘われるが、すぐに自分のグラスに目を落とす。尾形さんと私、同じ会社の営業部としては確かに顔見知りかもしれないが、面と向かって話す間柄ではない。尾形さんも空気を呼んで、カウンターに座す私から一番遠くの席に陣取った。それからバーテンダーとの会話は途切れ途切れになりつつも、好みの映画の話で盛り上がった。それから更に1時間もすれば、かなりの酔いが回って来て。そろそろお勘定かな、なんて思いながらお手洗いに行って戻ってきたら私が座ってた席に、グラスが一つ置かれていた。ソーサー型グラスの底に沈んだ四角い白いそれは、恐らく角砂糖だ。シャンパン・カクテルだろうか。しかし、そんなものを頼んだ覚えはないとバーテンダーを見やると、彼女は少し困ったような顔で尾形さんの方をちらりと見やった。

『“あちらのお客様からです”』

 きょとん、と私は彼女と尾形さんの顔を交互に見てしまった。尾形さんは私と目が合うと、ニヤリと口角を吊り上げてオールドファッショングラスを傾けた。そんな尾形さんに、酔いのまわり切った私が年甲斐もなくブハッと吹き出してしまったことを、誰も責めることはできないのではないだろうか。

『あはっ、あっはははは! ふ、古ぅーッ!! ひーっ、お腹痛い! あははははは! もー、なに、尾形さんったら、お茶目なんだから! あはははは!!』

『お前、飲むと声デカくなるんだな』

『酔っ払いだし多めに見て下さいよお! ひー、おかしい、死にそう!』

 今日日、50年前の洋画でさえ使い古されたその言い回しを21世紀になって耳にするとは思わず、私は他の客がいないことをいいことに、カウンターをバシバシ叩きながら笑い転げたのである。そんな私と尾形さんに、バーテンダーはほっと胸を撫で下ろしたのを、そうだ、覚えてる。よく、覚えてる。

『ああ、よかった。あなたたち知り合いなの?』

『会社の同僚だ』

『ならいいの。意外と多いのよ、こうやって見ず知らずの人にナンパ目的で奢る男。あんまりマナーが良くないから私もやりたくないのだけど、この人が『飲むか飲まないかはあの女の判断だろ』って言うから』

『なら大丈夫ですよ。尾形さん、きみの瞳にかんぱーい!』

『お前がボギーかよ』

 笑いすぎて陽気になった私は、シャンパン・カクテルを飲み干した。当然奢りでしょうね、と、私が笑えば、一杯だけだ、と、セコイこと言う尾形さん。それから、そう、酔いもいいとこでお暇するはずだったのに、思いの外バーテンダーと尾形さんの3人で会話が弾んでしまったのだ。カウンターの端と端に座ったまま、距離を一向に詰めることなく会話を続けてくれる尾形さんに、もっと言えば女性のバーテンダーが見張ってくれているという点で気を許しすぎてしまったのが私の最大のポカだ。結局、限界値ギリギリだったアルコール量は、余裕で突破した。普段、というか人生において“酔い潰れる”ということをしたことのなかった私は、自分の限界というものをあまり理解してなかった。

 率直に言う、記憶が飛んでる。

 そっから先の記憶が、一切ないのだ。ただ一つ確かなのは、結果として私は尾形さんと一夜明かすことになったということだ。ゴミ箱の中身をチラ見するに、何もなかったなんてとてもじゃないけど言えない。のに、何も覚えてない。その事実が、私の顔から血の気を喪わせていく。どうしよう、どうしよう、どうしよう、恋人に何て言おう、それより尾形さんどうしよう、ていうか逃げ出した方がいいのだろうか、そんなアレコレが脳裏を駆け巡る。ああ、これがせめて尾形さんじゃない別の誰かなら。杉元くんでも、ええいもう鶴見本部長でもいい。尾形さん以外の誰かであれば、私はこの場を少しは楽観視できたのかもしれない。いや、男がいる場で酔い潰れるまで飲んだくれた私が悪いの一言で片付いてしまうのだが、ほんの少しは、ほんの1ミリぐらいは、『酔い潰れた女を持ち帰る男の恥』と、なじれたかもしれない。だけど。

 尾形さんに限って、それはない。あの出荷の鬼が、私のような女を持ち帰るなど。

 すなわちそれは、私が尾形さんを誘ったということに他ならず。

「(ヤバイヤバイヤバイヤバイヤバイ……ッ!!)」

 記憶はない。だが断言できる。私だ。私が尾形さんを誘った。いや、誘っただけならまだいい。このホテルにまで連れ込んだのだ。そうに違いない。いや、もっと酷いパターンがあるとしたら、酔っぱらった私が泣き叫んで『抱いてくれなきゃ帰さない!!』と園児よろしく床を転げ回っていたら。ヤバイヤバイヤバイヤバイヤバイ、敵の多い営業部、ましてや女、尾形さんを狙う女性社員に見られてたら、この会社に私の居場所はなくなる。そもそも、知り合いに見られてたら社会人生活終わる。

 私はそんな性欲盛んだっただろうか、ベッドの上で頭を抱えながら青ざめる。まあ私もアラサー、一般的に言えば妊娠も適齢期、性欲も盛んになる年頃である。しかし、私には恋人がいる。夜の生活も、さほど不満はなかったはずだ。回数も多いとは言わないが、決して少ない方ではない。週末に会えばその流れで、といった、ごくごく普通の生活だったはずだ。それが、どうして、こんな……。

「……おい」

「ッ、ヒ!」

 半ばパニックのまま、私は横から飛んできた低い声に文字通りベッドから転げ落ちた。尾形さんは読めない視線を、床で茫然とする私に落とすだけ。その拍子に明るみになった自分の裸体に顔がカッと発火し、力の限りでベッドシーツを引っ手繰って体に巻き付けた。

「お、おが、わ、私っ……」

「吸うぞ」

「え」

 尾形さんは、じいっと私を見つめる。吸うぞ、という一言から、即座に煙草を差しているのだと弾き出した自分の演算能力を、褒めてやりたい。尾形さんはさっさと返事しろとばかりに吐き捨てるように続ける。

「どうせ慣れてンだろ」

「は、はあ……どうぞ……」

 お、思わず返答してしまった。だが、尾形さんは慣れた手つきで床に散らばった自分の背広から赤マルとジッポを引っ張り出し、その煙草の先に火をつけた。フーッと吐き出される紫煙に、脳みそがぐらりと揺れた。自分のしでかしたことが、如何に愚かしく、最低だったのか、それを知らしめるかのように、尾形さんは煙を燻らせる。

「悪かったな」

「え、あ、いや、その、私こそ、」

 なんて申し訳のないことを、とまずは尾形さんに頭を下げた。記憶はなくとも失態は失態、社会人として初手は謝罪で決め打ちだろう。最悪だ、尾形さんに先手で謝らせてしまった。凹む私を眺めながら、尾形さんは涼しい顔で煙草を口に付け、すっとこちらに視線を向けて、言った。



「3課のベヴェル吸ってる奴」



 心臓が、止まったかと思った。

「──なんで」

 その驚きを、その絶望を、何に例えればいいのだろう。心臓は凍り付き、思考回路は麻痺し、呼吸は上ずった。どうして、何故それをと、口が開いては、声にならずにまた閉じて。尾形さんは少しだけニヤリと意地悪く笑んでから、また煙を吐き出した。

「喫煙室でよく見かけた。女みたいな銘柄だ、よく覚えてる」

「なん、え……?」

「お前の男は趣味が悪い」

 そう言いながら、尾形さんはガラス製の灰皿に煙草を押し付ける。ジュッと音を立てて消える炎と一層立ち込める強いタールの臭いは、彼が吸っているメンソールの煙草とは全く違うもの。そう、尾形さんの言う3課のベヴェル・ライトという銘柄の煙草を吸っているのは、私の恋人なのだ。

「おがた、さ、知って──」

「まあな」

 何でもないように、尾形さんは言う。知ってて、手を出したのか。それならそれで、だいぶ不味い。極度の女嫌いである尾形さんが、私のような女と寝た。会社の誰にも言っていない恋人がいると知って尚、だ。それは即ち、私に身体以上のマージンを見込んでいる、ということではないだろうか。いや、それ以外にあるのか。恋人がいる女と寝る、その先にある面倒ごとを、この人嫌いが面白半分で引き起こすとは思い難い。では目的は何だ。これを弱味に私を強請るとか?私が彼よりも上の立場ならまだしも、ただの同僚だ。実家が金持ちでも芸能界へのコネクションがあるわけでもない。だったら何だ。復讐か?尾形さんとはほとんど話したこともないのに?私の部下の杉元くんへの遠回しの嫌がらせ?しかし、杉元くんは良き部下ではあるがそれ以上の関係ではない。第一私には恋人がいる、他の男とサシで飲んだり個人的な付き合いがある、ということは一切ない。

 だったらなんで。どうして。まさか私のことが好き、とか?

「つかぬことをお伺いしますが、尾形さん。私のことが好きとかそういう──?」

「……いや、」

「ですよね変なこと聞きましたすみません忘れて下さいッ!!」

 普通に否定された。情けないやら恥ずかしいやらで土下座してしまった。だったらもうなんだっていうんだ。ああ、やっぱり私、抱いてくれと泣いて喚いたのだろうか。ていうかもうそれしかなくない?もうやだ死にたい。

「おい、女がんな格好でいるな。風邪引くぞ」

 うう……自分が人間のクズであることを噛み締めている中での尾形さんの優しさが目に染みる……私は尾形さんに目も合わせられないまま床に散らばった皺くちゃのワンピースや下着をかき集める。

「ひとまず風呂でも入ったらどうだ」

「は、はい……お言葉に甘えて……」

 衣類を手に、私は自分でも驚くほど素早くシャワールームへ飛び込んだ。お風呂は普通だった。大きなテレビがあったり、ローションボトルがあったり、妙に広いバスタブであること以外は普通だ。シャワールームが透けてるとか言うおかしな部屋じゃなくてよかったと思いながらマッハでシャワー浴びて尾形さんとバトンタッチ。どすっぴんのまま身支度を整えていると、尾形さんは静かな顔で黙々とスーツを身に着け、いつものように前髪を抑えて髪を整える仕草をしているのが見えた。そこで、ぱっと目が合ってしまった。

「あ、え」

「……忘れとけ。その方がお互いの為だろ」

 そう言うなり、尾形さんはさっさと部屋から出ていってしまった。その一言で、まるで夢から醒めたかのような心地に陥った。とすっ、と、胸の内に矢が刺さったかのようだった。この場合、恋ではなく、痛みの比喩なんだけど。

 なんて大人なんだろう。ただ感心した。正直、何があったか聞きたい半分、聞きたくない半分だった。そんな私に、忘れとけと、お互いのためにと、彼は一夜の夢にしてくれた。どっちが悪かったのか、何が悪手だったのか、そんな全てをうやむやにしてくれた。私が楽になるために。どうしようどうしようと、自分のことばかり考えていた私を、目覚めさせてくれる一言だったと言っていい。

 けれど、尾形さんの優しさで全てなかったことなんてできない。

「……そう、だよね」

 人気のないラブホテルの一室で、ぽつりと零れた自分の声が嫌に響く。夢にしてくれた。あやふやに、幻のように、それこそ部屋に漂うマルボロの残り香のように、煙に巻いてくれた。その優しさが嬉しかった。けれど同時に、その優しさに目を覚ましてしまった。全ては夢じゃないのだと。夢にしてはいけないのだと。夢にしてはいけないだけの人が、この世界に一人いるのだと、思い出させてくれたのだった。

「──けじめ、つけないと」

 決意を胸に、私はすっぴんのまま部屋を後にした。



***



 それから2日後、月曜の出勤日。エレベーター前で、杉元くんに会った。

「あ、おはよう杉元くん」

「おはようございます天城さ──え!? なにそれ!? どうしたんですか!」

「ちょっとね。しばらくは外回り付き合えないかも。ゴメン」

「そ、それはいいんですけど、いや、よくない! それ、ヤバいだろ!!」

 顔を青くした杉元くんが、私以上に慌てふためくのがおかしくて、クスリと笑みが込み上げた。けれどその拍子にズキリと頬骨が痛み、私は顔を顰めた。ほらあ、と杉元くんの方が泣きそうな顔になってしまう。優しい子だ。

「だってそれ、明らかに誰かに殴られたでしょ!!」

 エレベーター待ちの人たちが、大きな声で騒ぐ杉元くんの声に気を引かれて私の顔を見て、慌てて目を逸らすのが分かった。それもそのはず、私の左目から頬骨にかけて白いガーゼで覆われていたが、その端々から覗く大きく青々とした痣を完全には隠してくれなかったのだ。

 ……流石に、この顔をぶら下げたまま外回りには行けない、よなあ。

「とにかく、今日はG・K社と顔合わせでしょ。埋め合わせに誰か回しとく。資料は昨日の内に作ってあるから、目ぇ通しといてね。ホラホラ、早いとこ引継ぎしないと間に合わないから、この話はまた今度ってことで」

「……ホントに大丈夫なんすか、それ」

 ぎらり、と杉元くんの目に殺気が灯るのを見た。筋の通った相手にはこれほど親身になれる彼も、ひとたび理屈の通じない相手と来れば、上司だろうと取引先だろうとお構いなしに殴りかかるのだから、にわかに信じがたい。まあ、この顔を見れば誰だって殴られたことを察するだろう。ましてや、女の力ではこうも顔は歪まない──即ち、私を殴ったのは男であると、誰もが気付く。

 その原因を私が担ってるとは、ほんの少しでも考えないところが、杉元くんの人の良さだ。

「大丈夫。これっきり[・・・・・]にしたから」

「……天城さんが、そう言うなら」

 不服で仕方がありません、とばかりの杉元くんは渋々引き下がってくれた。助かった。G・K社との商談は私が抱える案件の中でもかなりプライオリティが高い。あまり無為にはしたくない。行こう、と杉元くんを引き連れて、私はエレベーターに乗り込んだ。

 それから杉元くんを見送って、午後。今日は一日外回りだったのを全部キャンセルし、杉元くんや青山くんたちにほぼ任せっきりになってしまった。来月の忘年会は全部私持ちだな、と手痛い出費に苦笑しつつ、一人給湯室でコーヒーカップ片手にため息をついた。ただいまお昼時。営業の昼なんて、社内にいる方が珍しい。おかげで彼にも顔を合わせずに済んだ。ありがたい。さっさとコーヒー飲み干して、来月の飲み会分も働くかと紙コップをゴミ箱に叩き込んで振り返った時、思わず心臓が止まりかけた。

 尾形さんが、給湯室のドアにもたれ掛かっている。

「人がせっかく秘密にしてやろうとしたのに、馬鹿正直に話したわけか」

 ム、と私は顔を顰める。馬鹿正直とは酷い言いようだ。結果として頬骨を砕かれることになったが、私はこの行為に後悔はない。結局のところ悪いのは私で、彼は被害者に他ならないのだから。

「被害者、ね。女の顔をぶん殴るような奴を、何故そこまで庇う?」

 尾形さんは、映画の話で酒を酌み交わしながら盛り上がったあの日と同じぐらい饒舌だった。理解出来ないとばかりに、給湯室に一歩二歩と入ってくる。目の前に立たれ、高い位置から見下ろされる猫のような伽藍の目を、私はじっと見上げていた。瞳の中の私の顔は、見るも無残に歪んでいる。

「それが女の言う、“愛”ってのか?」

「……“義理”、ですよ」

 あの日──尾形さんと夜を共にした次の朝、土曜日。私はすっぴんのまま彼氏の家に赴いた。休日の朝だというのに起きていた彼は、昨日と同じ格好でやってきた私に驚きつつも家に出迎えてくれた。胸が張り裂けそうだった。けれどその痛みは愛ゆえにではなく、優しい彼を傷つけてしまうことへの罪悪感から生まれるものだった。愛に恋にと、燃え上るクチではなかった私は、結局のところそこで冷静になってしまったのだ。だから、言えてしまったのだろう。全て秘密にしていればそれで済んだのに、私は罪の懺悔をせざるを得なかった。全て私の我儘だ。そんなことは分かっている。だから尾形さんの名は伏せて違う男と寝たと謝る私に振り上げられた拳を、避けることはしなかった。

 人に、ましてや男に本気で殴られたのはこれが初めてだった。冗談抜きで、目の前がショートしたかのように真っ白になった。身体は大きくバランスを崩し、背後の本棚にぶつかって引っくり返った。ふざけんな、裏切り者、ビッチ、クソ女、あらん限りの暴言を浴びせられた。黙って享受して、もう一度謝った。もう顔も見たくない、そう言われた時、私は彼に合鍵を返した。もう二度と此処へは来ないよと約束し、私は殴られた頬をそのままに部屋を去った。

 彼には本当に申し訳ないことをした。けど、私の気持ちはスッキリと晴れ渡っていた。そのまま病院に駆け込み、頬のレントゲンを撮ったらひびが入ってて笑った。診断書書きますよと医師は再三言ったが、私は構わないと断った。だってそんなもの、必要ない。痛み分けなんて都合のいいことを言うつもりはない。結局私は彼を傷つけて、彼はその傷を背負ってこの先生きていくのだ。彼のことは好きだった。上手く付き合っていけたと思ってる。でも、この罪を抱えて何も知らないまま生きていくことだけは出来なかった。彼を想う気持ち以上に、彼を裏切ったことを背負ったままで歩いてはいけない、全ては弱い自分が招いたこと。例え彼が許してくれたとしても、私は同じように別れを告げただろう。身勝手のは分かってる。それを風評されても仕方ないと思う。顔も見たくないというのなら転職も考えよう。だから彼には、こんな女のことは忘れて欲しかった──嗚呼、全く。

 昨日の今日で区切ってしまえる程度の、2年だったなんて。

「何にせよ、全ては私の弱さが招いたこと。せめてもの義理を、通しただけです」

「義理、ね」

 尾形さんは、どこか馬鹿にしたように私の言葉を繰り返す。どうにも、私の対応というか、結末に気に食わないらしい。私と寝たのは、やっぱ面白半分だったのだろうか。何にせよ、尾形さんはあまり趣味が宜しくなさそうである。

 そんな私の考えが顔に出たのか、尾形さんは少しばかり顔を背けた。下から見上げると、猫髭のような傷がよく見えた。

「……俺の所為にすればよかっただろ」

「尾形さんの?」

「少なくとも、殴られずには済んだ」

 その言葉に、拍子抜けした。表情からはイマイチ分からないが、どうやら尾形さんは私のこの醜い顔を気に病んでいるようだった。ぱちぱち瞬きしながら彼を見上げれば、ますます彼はムッとしたように眉を顰める。それが申し訳なくて、私は毅然と言い放つ。

「どのような経緯であれ、結果は何一つ変わりませんよ」

 記憶があろうとなかろうと、結局、尾形さんと寝ることを選んだのは自分だ。そこに尾形さんが何か思うことなんてありはしない。あの日女一人でバーに行かなければ、あのシャンパン・カクテルに手を付けなければ、ばかみたいに飲まなければ、自分の限界量を知っていれば、尾形さんは女は興味ないと決めつけなければ、そんな可能性を考えるだけでも、落ち度は私にしかないと言い切れる。

 それに、女が男を殴るなんて、という考えもない。暴力に訴えるほど、彼は憤った。それほどのことを私がした。それだけの因果関係だ。どうして尾形さんがそこまで気にするのか不思議でならない。まあ、自分のせいで同僚の顔の骨が歪んだとあれば、気にならないほど尾形さんも人を棄ててないということなのか。だったら杞憂であると、私はにっこりと笑い飛ばした。

「女の勲章です。どうぞ、お気になさらず」

 そう言って、私は尾形さんの脇をすり抜けようとした。ちょっとかっこつけすぎただろうか、なんて思ったその時、横から伸びてきた腕が私の行方を遮った。バンッ、と扉が殴られたような音を立て、私は尾形さんに行く手を阻まれ、数歩後退った。

「例えば、あの男の残業が計画的なものだとしたら?」

「、え?」

「例えば、お前の性格なら一人でも飲みに行くだろうと想定していたら? 例えば、他人の銘柄なんざ気にも留めねえのにあいつのだけ覚えていたとしたら? 例えば、お前が映画好きなのを分かってシャンパン・カクテルを注文していたとしたら? 例えば、お前を酔わせるために好きでもないバーに居座り続けていたとしたら? 例えば、お前を寝取りたい一心で、抱き潰していたとしたら?

それでもお前の傷は、勲章と言えるのかよ」

 情報量が多すぎて、理解が一瞬追いつかなかった。尾形さんは光のない目を、凝然としてこちらに向けてくるだけ。笑いもせず、怒っている様子もなく、普段から考えの読めない尾形さんだが、この表情は本当に意味が分からずぽかんとした。だから、私はその腕の下をひょいっとくぐったのだった。

「っ、オイ」

「見縊ってもらっては困ります」

 ちらりと、尾形さんを振り返る。



あらゆる可能性込み[・・・・・・・・・]での、義理ですから」



 言い逃げ御免、と私はそれだけ言い切ってから脱兎のごとく給湯室を後にする。とはいえ同じ営業部、同じフロアで仕事することに変わりはないのだが。それでも私は1課で尾形さんは7課、ついでに彼──いや、元彼は3課。デスクが離れている上に課ごとにパーテーションで区切られている、助かった。あれ以上尾形さんと絡む予定はない。人事に総務に秘書と、彼を狙う女性は多いのだ。逆恨みは勘弁と、私は何事もなく仕事に取り掛かるのだった。

 後日、7課に異動することになった私は、杉元くんに加え尾形さんまで手懐けたと、裏で「猛獣使い」の異名で知れ渡ることになるのだが、この時ばかりは夢にも思わなかったのだ。





―・―・―・―・―・―・―・―・―・―・―・―
(20/06/21追記)続いた



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