美雲・ギンヌメールは愛をおぼえているのだろうか?

※男主
※ネームレス



ウィンダミアとの戦争が終わっても、世界から戦いが消えるわけではない。各地で起こる武装蜂起や新統合政府への不満は、いつ何時も人々の手に武器を駆り立てる。そうした中、星間複合企業体ケイオスが擁するワルキューレやデルタ小隊の出番は、まだまだ尽きることはなく。それでもワルキューレは歌い続ける。争いを鎮め、歌という輝きで人々を照らし導くために。伝説となったリン・ミンメイのように、彼女たちは歌い続ける道を進み続けたし、デルタ小隊は彼女たちを守るために戦い続けた。

そんな中、いつものようにラグナにて開催されることになったワルキューレの音楽ライブ。ウィンダミアとの終戦を記念したこのライブはいつもと違う趣向をと、渡された楽曲に美雲・ギンヌメールは珍しく頭を悩ませることになった。

───渡された楽譜に記されたのは『愛・おぼえていますか』。

そう、生ける伝説を打ち立てたリン・ミンメイが戦場で歌い上げ、戦争を終結させた曲だ。


「……」


無論、美雲だってこの曲は知っている。よくよく、知っている。この銀河に住む知的生命体なら、必ずは耳にするだろう伝説の歌。歌うことだって出来よう。ライブならば、伝説に倣って歌い上げてみせるだろう。

けれど、リハーサルスタジオで歌い上げてみて思うのだ、何かが足りないと。音も取れてる、歌詞だって間違ってない、この歌が好きだ、歌い上げたい思いで溢れてくる。けれど何故、こんなにも胸にわだかまりが残るのか。まだ時間はあるわと、笑ったのはカナメだった。めっずらしい〜と目を見開いたのはマキナだった。天変地異の前触れと、何故か楽しそうだったのはレイナだった。そして。

いいなあと、羨んだのはフレイアだった。


「……ッ」


初めて、胸の内に生じる焦りにも似た感情。焦燥感は美雲の背後に寄り添うように、いつなん時も付きまとう。それがどうしても、振り切れない。何度歌っても何度奏でても、それが振り払えない。きっと見つかるよと、仲間たちは励ました。自分は、何かを見落としているのだ。それは分かる。けれど、それが何かが分からない。口ぶりから、仲間たちは理解しているのだろうか。けれど、それを教えてくれることはしなかった。

美雲はメンバーとの練習から外れ、一人モニタに映し出される映像を見つめる。古い古い、ノイズの入るその映像で高らかに歌い上げるはリン・ミンメイ。戦艦の上、たった一人、武器もなく、テクノロジも今ほど発達していない時代の宇宙でただ一人、戦闘しか知らぬ民族を相手に愛を歌う。仲間が散り、眩い光線がいくつも駆け抜け、戦闘機がいくつも宙の闇に溶けるように弾けて消えていく中で、それでも彼女の歌声は心を貫いていくようで。

これが、必要なのだ。自分には足りないものだ。此処に何かがあるのだ。でもそれが分からない。けれど彼女の歌は、命を懸けたその歌はどんな歌よりも心を揺さぶる。こうなりたいとは思わない。ただ、こんな風にあれこれ悩んで歌いたくないのだ。納得したいのだ、自分に今、何が欠けているのかを。


『 あなたがいるから…Fo 』


結局、この日も何も得ることはできず、焦燥感だけが募る中、リン・ミンメイの歌は終わってしまった。

モニタの電源を落とし、ため息一つ零す。無機質な天井を見上げても答えは落ちてくることはなく、美雲は部屋を後にすべく椅子から立ち上がった。すると、サイドテーブルに覚えのない書類が積まれているのが見えて。


「これは……」


手にとって見れば、それは書類ではなく楽譜だった。裏面には歌詞がびっしり書き込まれている。素晴らしい歌だと、一目見て直感的に思った。それは少女が素敵な恋人と巡り合う、甘い甘い恋の歌。きっとフレイヤやマキナが歌えば、たちまち胸ときめく調べとなるに違いない。

しかし、楽譜には不採用の烙印が押されており、打ち捨てられるようにこの部屋に忘れ去られていた。勿体無いと思う。歌えばいいとのにと、素直に感じた。彼女たちならきっと、歌いたいと思うだろう。自分でさえ、心揺さぶられる歌だ。とはいえ、美雲が歌うには少し可愛らしすぎるバラードだったけれど。

ぺらり、と楽譜をめくる。名前はない。けれど、その流れるような筆跡には覚えがあった。ケイオスに新たに加わった、若い作曲家だ。名前は何だったか、思い出せない。若く、経験は浅く、気の弱そうなへらりとした笑顔を覚えている。けれど、彼の書く歌は荒削りながらも光る素質があった。現に彼は若くしてもういくつもワルキューレに楽曲を提供している。これもその内の一つなのだろう。勿体無い、と思った。いい歌なのに。何故不採用なのか。何の落ち度があるのか、美雲の生来の好奇心がむくむくと音を立てて芽を出すのが分かった。

美雲は迷いもなく、彼の籠もるスタジオへと赴いたのだった。


「忘れ物よ、うっかりさん」


ドアをノックしても気付かなかった彼でさえ、美雲のその一声には流石に顔を上げた。顔を見ても、名前がはっきり思い出せない。大きな眼鏡をかけて、くしゃくしゃの髪の毛で、いつもよれよれのシャツを着ている。その目にくっきりとしたくまが刻まれており、徹夜続きなのだと分かった。彼に限った話ではないが、ケイオスの作詞家作曲家はワーカーホリックのきらいがある。好きでやっててつい夢中になってしまうらしいのだけれど。身体資本な美雲にしてみればナンセンスな話だった。


「う、うわ! す、すみません、美雲さん!」


彼は転がり落ちるように立ち上がり、楽譜を引ったくるように回収する。ハの字に曲がった眉を見て、人の良さが出ていると思った。けれど、彼はかけている眼鏡を外して受け取った楽譜を見て、少し落胆したように笑んだ。


「ああ、これかぁ。ボツ食らったんで、捨てようとしててどこかに置き忘れてたみたいです。すみません、美雲さん。こんなのに手を煩わせて……」

「捨てる? 勿体無い。こんなに素晴らしい歌を、世に出さないつもり?」

「へへ……ありがとうございます。でも、無理なんです」

「何故?」

「上から、イメージに合わないと」


これ、美雲さん用の曲なんですと、彼は照れたようにへらりと笑った。美雲は一瞬、目を瞬かせて彼の持つ楽譜と彼の顔を見た。確かに、イメージには合わない。美雲はあまりバラードは歌わないし、恋する女の子のような可愛らしい歌の担当ではない。どちらかといえば、それはマキナやフレイアの担当だ。

なんだかんだと言いつつ、ワルキューレとて一企業が抱えるユニット。当然、利の絡む話が出れば、売れる歌、聞かれる歌を作るのは当然の体制だった。何より、戦場で歌うことを想定された歌が多いため、そもそもバラード自体ワルキューレの持ち歌に少ない。

彼はそんな美雲の考えを見抜いているようにゆるゆると瞳を細める。


「大きな戦争が終わったんです。ワルキューレは戦の女神ですけれど、戦ばかりがワルキューレの存在意義じゃないと思うんです。もっと自由に、もっと歌いたい歌を、もっと聞かせたい歌を、俺は民衆に届けたい」

「もっと、自由に……?」


―――縛られていたつもりは、ない。けれど、歌の為に生まれ、歌うために生かされ、そして歌い続けるために生きている美雲にとって、彼の言葉は不思議な響きを魅せてくれた。

歌が好きだ。歌は神秘だ。歌うことが、何よりも魅力に感じる。けれど、歌いたい歌が何かと、聞かせたい歌が何かと、考えたことはなかった。美雲は奏でる側で、彼は奏でる歌を作る側だからなのかもしれない。

美雲は自問自答する。届けたい歌とは、何だろうかと。


「そう思って色々インスピレーション爆発させてみたんですけど……やっぱ、イメージ大事にってプロデューサーが……フレイアさんやマキナさんになら、って話だったんですけど、それはだめなんです」

「何故? 歌われず捨てられてしまうくらいなら───」

「駄目なんです。これは、貴女を想って書いた歌だから」


ぴしゃりと、へらへらにこにこしていた彼の言葉とは思えない強い言葉に、部屋の空気の震えを感じ取る。けれどすぐに、顔を真っ赤にしてあたふたしだすのだから、変な人だと、思った。


「いやっ、違っ、そ、その、美雲さんに歌ってもらうことを想定した音程とかリズムとかブレスのこととか考えてたんで、そのフレイアさんやマキナさんに出す曲ならもっと違うアレンジ利かせたって意味で、そのそういう意味じゃ、ええと……!!」


茹ったような顔のまま、あわあわと言葉にならない言い訳を連ねる彼を見つめながら、美雲は何故そのように慌てるのかと不思議に思う。美雲のために書いた歌だと、彼は言った。それは、美雲にとって喜ばしくも誇らしく、ほんの少し照れくさいことだった。なのに何故、彼はこんなに恥ずかしがっているのだろう。美雲にはまだ、分からない。


「ええとええと、ほら、解釈違いって奴ですよ! あれ、なんか違うかな。ええと、なんていうか、ほら、かの有名な『愛・おぼえていますか』だって、色んな解釈あるじゃないですか! あれと同じですよ!」

「解釈?」


素直に、美雲は聞き返す。話を逸らせたことが嬉しかったのか、彼は犬のようにうんうんと頷く。


「そそそそうです! ほら、あんま有名な話じゃないんですけど、リン・ミンメイが歌った『愛・おぼえていますか』は悲恋ソング、つまり愛に破れた彼女の心情を綴った歌だったんですよ!」

「……そうだったの?」


今、猛練習している歌だ。歌詞も諳んじることなど、美雲にとっては余裕だった。確かに、メロディは少し物悲しい。けれどその歌詞は、愛する人との出会い、愛を得た少女の物語のように思える。違うの、と美雲は呟くように聞き返すと、彼はそうなんですよと、得意げな顔。


「元は50万年以上前に滅びたプロトカルチャーの遺跡から発掘された、彼らの社会における流行歌だったらしいんですけどね。この太古のメロディを、俺にも、貴女にも、そして当時戦争を続けていたゼントラーディとメルトランディの遺伝子が覚えてるんでしょう」

「遺伝子が、メロディを覚えている……?」

「ええ、だから戦争が終わり、歌は伝説になり、今も語り継がれてる」


ロマンですよねえ、なんて彼は夢見るように語る。


「けど実際は、リン・ミンメイが当時愛した軍の将校さんが他の女と結ばれて、そんんな彼が戦闘に出る際に送った歌らしいんですよ。ま、ミンメイが生ける伝説となってからは、そんな後ろ暗い裏話はかき消されちゃったみたいですけど。これも一種のプロパガンダって奴なんでしょう」

「そうだったのね」

「ええ、まあ、一種の説って奴ですけどね。もう何十年と前の話だし、噂は噂を呼びまくっておかしなことになるじゃないですか。ホラ、一時はFire Bomberの熱気バサラはミンメイの隠し子だなんて言われてたくらいですし。それくらい信憑性もなくて諸説ある話なんですけど……俺はこの説が一番しっくりくるんです。だからタイトルは、『愛・おぼえていますか』なんだって」

「そうね……きっと彼女は、ずっとその人に問いかけていたのね」


己の愛を、覚えているのか―――と。

いつ命を散らさんとする軍人を見送りながら捧げた歌は、彼の胸に届いたのだろうか。美雲たちに流れ組まれた遺伝子が覚えているメロディは、彼女の愛さえも思い出させてくれたのだろうか。あなたがいるから一人ではないと、独りステージで歌う彼女はきっと孤独ではなかったのだろう。けれど、本当にそうなのだろうか。愛する人に振り向いてもらえなかった女というのは、孤独と呼ぶのではないのだろうか。美雲にはそれが分からなかった。何故なら美雲は、


「(私は、愛を知らない)」


生まれてまだ数年。誰かを愛したことがない美雲に、リン・ミンメイの気持ちなど分かるはずもなく。ああ、なるほど。この歌を歌い切れないわけだ。すとんと、物事が全て綺麗に収まる音がした。そうか、そういうことだったのだ。だから歌い切れなかった。だからこんなにも、胸がわだかまるのだ。

愛を知らない女に、愛の歌が歌えるはずがないのだ。


「美雲さん?」


彼が、不思議そうにこちらを見つめる。けれど、美雲は彼の目を見ていなかった。目の前には、美雲を心配する一人の男がいて、美雲はそれを俯瞰するように眺めていた。

男がいる。そして自分は、女だ。それは分かる。理解も出来る。けれど、違う個体が目の前にいて、違う個体へ恋や愛を抱く姿が想像できなかった。男が女を、女が男を愛するのが道理のはずだけれど、そうなる自分が想像できなかった。ハヤテやフレイアのように、或いはカナメへの想いを貫いたメッサーのように、誰かと手を取り合い、微笑んで、キスをして、それを愛だと―――恋だと、温められる日が、くるのだろうか。


「今から、セットリストの変更できないかしら」

「へ!? な、なんで―――」

「私に彼女の歌は歌えないわ」


歌えない。そう、歌えるはずもない。破れて尚、命さえ投げ出せるほどの愛を貫いた彼女の偉大な曲を、歌えるはずがない。そんなの、伝説に泥をかけるのに等しい。美雲は愛を知らない。けれど、歌に対する尊敬の念は人一倍ある。そうだ、歌うことが好きだ。歌が好きだ。だからこそ、それを汚すことは出来ない。

すると彼は、ばかみたいにきょとんとした顔で、こう言ったのだ。



「美雲さんは、ワルキューレを愛していないんですか?」



ワルキューレを、愛している。声に出さない音が、口の中でまごついた。愛しているのかと、彼はばかみたいに純粋な顔でそう聞いた。愛しているとは、ハヤテやフレイアのような関係だと、定義していた。いや、定義に間違いはないはずだ。主に男女が、想いを交わし合うのが愛だ。そうだ、その認識に相違はない。

―――ワルキューレを、愛していないのか。彼の言葉がリフレインする。


「ワルキューレは……」

「美雲さん、最初は一人でいること多かったじゃないですか。でも今は、ワルキューレのメンバーと食事されてたり、移動時間も一緒にいたりするじゃないですか。美雲さんにとって、ワルキューレの皆さんは大切じゃないのかなって思って」

「それは……ワルキューレのみんなは大事よ。けど、それとこれは―――」

「じゃあ同じですよ! それが愛でなくてなんだってんですかぁ!」


ハイ問題解決、とばかりに彼はニッコリ笑ってみせた。何だか納得がいかず、ニコニコ笑う彼から目を逸らして思案する。ワルキューレは大切なチームで、みんな大事な仲間だ。歌しか知らず、ともすれば歌への情熱さえ植え付けられたかもしれない、クローンの空っぽの存在だった美雲を、ワルキューレのメンバーが繋ぎとめたのだ。美雲・ギンヌメールという一人の女を友として仲間として、そしてワルキューレの一員として手を差し伸べてくれたのだ。だから大事な仲間だと、今ならハッキリと言える。あまり、大きな声では言えないけれど。

けれど、と思考を切り替える。これを愛と呼べるのだろうか。だってワルキューレのメンバーはみんな女性だ。そして複数名いるわけで。ハヤテはフレイアだけを愛している。ミラージュも大事な仲間だろうが愛しているわけではない。フレイアだってそうだ。ハヤテだけを愛している。仲良くしているチャックはそうではないはずだ。そうとも愛は、個々の個人が交わし合うものではないのだろうか?


「み、美雲さん? なんか難しいこと考えてませんか?」

「……あなたの言っていることが、よく分からないだけよ」

「俺、そんなに難しいこと言ってるかなあ……」


ぽりぽりと頬をかきながら唸る彼を後目に、美雲は静かに思考を張り巡らせる。愛について。ワルキューレについて。みんなへの想いについて。けれど、考えて考えて考え抜いても、やはり彼の言う“愛”なのかどうか、美雲には分からなかった。そんな美雲を見かねてか、彼はスタジオにあるピアノを指差した。


「何なら、試してみましょうか?」

「え?」

「聞いてますよ、美雲さんがスランプだって。その難しい顔をしてる原因が分からないんなら、試してみればいいんですよ。今から俺が弾く曲、歌いたいように歌ってみてください。美雲さんが思う、大事な人に向けて」

「大事な人……」

「きっと、見つかりますよ」


そうやって、彼はカナメやマキナやレイナやフレイアのように微笑んで。そうしてピアノに向き合って腕まくりする彼を、美雲は少し困惑した面持ちで眺める。そして彼が鍵盤に指を滑らせて流れてくるメロディは、何度も聞いた『愛・おぼえていますか』のイントロで。

美雲・ギンヌメールは他人を愛したことがなかった。何故なら彼女は、愛されて生まれたわけじゃなかったからだ。無償の愛を注ぐ親はなく、狭い鳥籠のような世界で育って、そして何に傷つくこともなく、何を喪うこともなく、人としての情緒が欠けたまま、彼女は大人としての肉体のまま外の世界へ放り出された。だから彼女は、愛するということを知らなかった。愛されたことのない彼女に、愛を返す術がないからだ。けれど、今もそうだろうか。美雲・ギンヌメールは、今尚愛を知らない女のだろうか。確かに、フレイアにおけるハヤテという存在はなく、メッサーにおけるカナメという存在はないけれど。美雲には一緒に居て笑い合い、高め合い、共に歌を奏で合う人がいるのではないか。

―――歌いたいように、歌ってみてください。

―――美雲さんが思う、大事な人に向けて。


―――届けたい歌とは、なんだろう。



「 今 あなたの声が聞こえる 」


気付いたら、歌詞が口から滑り出していた。歌詞に乗せて、瞼の裏に様々な思い出が駆け抜ける。此処においでと食事に誘うカナメの姿、戦いに屈しそうになった美雲を呼び覚ますフレイアの歌、楽しいことがあったらすぐ抱き着いてくるマキナの体温、悪戯に笑みながらも見守ってくれるレイナの視線、みんなみんな、美雲に注がれていた。


「 もう ひとりぼっちじゃない 」


美雲・ギンヌメールは愛を知らない女だった。けれどこんなにも、仲間たちから思いを注がれていた。これを愛と呼ぶのだろうかと、自問する。けれど、応えは明白だった。だってもう、独りじゃない。孤独を感じたことはないのに、彼女たちと出会った後の美雲は間違いなく独りではなかったのだ。ずっと、満たされたままだったのだ。何に満ちていたのかと、もう一度自問する。ああ、そうだ。優しさが、歌が、ぬくもりが、視線が、美雲を包み込むように注がれていたのだ。

人がそれを愛と呼ぶのなら、きっと今がその旅立ちの日だ。


「 I Love You,so 」


あんなにも理解できなかった愛を、今は自然と口に出すことが出来るのだから。

ふと、伴奏を奏でる指が止まっていることに気付いた。一体いつから止まっていたのか分からないほど、歌に、想いに、没頭していたのかもしれない。ピアノの前で茫然と立ち尽くす彼の方を振り返り、どうしたのかと近づいてみて、美雲は息を呑んだ。

彼が、涙を流している。


「え、あ……す、すみません。すごく、その……よかったので、」


感動しているらしく、彼は子どものようにぼろぼろ涙を流している。その涙を見て、胸の内にくすぶっていたものがすうっと消えていくのが分かった。確かに、リン・ミンメイが抱いた愛とは、違うかもしれない。けれど、今の美雲にはこの愛だけで充分すぎた。この愛を胸に抱いていれば、きっと彼女の伝説に泥をかけることのない歌を歌えるだろうと確信していた。

そうして美雲が満足げに微笑む一方で、とうとう鼻水まで流しておいおい泣き出す彼に、美雲は失笑を堪えながらハンカチを差し出した。他者とのコミュニケーション能力は高くない美雲でも、これくらいの気遣いはできるのだ。


「ばかね。自分から言い出しておいて」

「うう、すみません……ちゃんと洗って返しますぅ……」


それから彼が泣き止むまで、丸五分はかかった。眼鏡を外して涙を拭い取り、彼はようやくいつものへらへら顔に戻ったのだった。


「最高です、最高ですよ美雲さん! 今ので俺、新しい何かに目覚めそうです! ワルキューレの歴史変わりますよ、これ! 次のライブのトリですよね、この曲! ウワア、プロデューサーが聞いたら引っくり返りますよ、これ!」


彼の何に火がついたのか、へらへら笑顔のまま矢継ぎ早に何か言い出すが美雲には聞き取れなかった。何にせよ、泣き止んでくれたのは良かった。感動してくれるのは嫌ではないが、大の男においおい泣かれてしまうと、こちらもどうしていいか分からなくなるからだ。


「美雲さん」


彼は美雲の届けた楽譜に触れながら、嬉しそうにへらりと微笑む。


「いつか、美雲さんにこの曲を歌ってもらえるよう、俺、頑張ります」

「私に、この曲を?」

「ええ! 美雲さんの代名詞になるぐらいのモノにしてみせます!」


だからその時が来たらお願いしますと、彼は深々とお辞儀をしてみせたのだ。ちらりと楽譜の裏に走り書かれた菓子を見やる。甘酸っぱい砂糖菓子のような恋の歌、今の美雲のイメージには合わない。

けれど、何故かこの曲を歌う未来の自分が想像できたのだった。


「……楽しみにしているわ」


その時が来る頃には、美雲にもフレイアたちの気持ちが理解できるだろうから。










後日。これ、お借りしてた奴ですと、いつもよれよれのシャツを着てる彼がやったとも思えないくらい綺麗にアイロンがけされたハンカチと共に手作りと思しき可愛らしくアイシングされたクッキーが入った包みを渡された時、美雲の肋骨のあたりがきゅうと縮こまった。


「?」


その理由を、美雲はまだ説明できない。





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2018/03/16 激情のワルキューレ公開記念
美雲さん夢を見たいと言うニッチな妹へ捧ぐ


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