マリア様すらなれないね

※オメガバースにわか人間の書いたオメガバースネタ

※何でも許せる方向け















 ──第二の性、なんてものはデルウハにとって形式上、或いは書面上のものでしかなかった。例えるなら、そう、血液型のような。医療関係者にとってデータ上記録されるだけの区分。何故ならイペリットはびこるこの世界において、『人類』は絶滅寸前にまで減ってしまった。おまけに、軍という特殊な環境に身を置いていたのだ。デルウハ自身い差別意識はないが、指揮官はαが多い。Ωなんかが紛れていては規律が乱れるなんてレベルの話じゃないし、そもそも徴兵時の身体検査で弾かれる。故にデルウハは数十年の人生の中で、ただの一度も生きたΩを見たことがなかった。

 だから、なんて理由にはならない。けれど間違いなく、デルウハは油断していた。何なら忘れてすらいた。自身の第二の性を。自分の中に眠る、凶暴なまでのαのサガを。

「──は?」

 ここは、日本の長野という場所にある非人道的研究機関。UNAの事実上の瓦解に伴い、デルウハは自身の安寧と食事の為にはるばるモンテローザから渡日した。そこでハントレスという人体実験の末に不死の怪力兵士となった少女たち六人を束ねながら、デルウハは明日の命を食い繋いでいた。時にはその少女たちにボコボコにされたり、時には胡散臭い神父に首を切られたりと散々な目には遭ったが、それでもこの生活がそれなりに軌道に乗り始めた頃だった。

 研究所は広い。二百人以上の研究員が暮らしている。流石のデルウハも、全ての研究員の顔を把握しているわけではない。よく話すのは所長やイペリットの出すガス中和の調査員、それからハントレス研究員、それから食材班。だから、サイバーセキュリティ担当というその女に出会ったのは、偶然も偶然だった。

「あんた──何、を」

「えーと……あなたは確か、ハントレスたちの司令官になったっていう……」

 相変わらずハントレスたちの手綱を握るのは骨が折れる、と所長に愚痴を零しながら廊下を歩いているだけだった。そうして前から歩いてきた職員と思われる女とすれ違った。ただそれだけ。

 だというのに──この衝動[・・]はなんだ?

「おや、天城君。君がサーバールームから出てくるなんて珍しい」

「失礼な。私だってお腹が空けば食事にも行きますし、気分転換に散歩もしますよ」

「これは失敬。……ところで、状況は変わりはないかね?」

「ええ、残念ながら。UNAまで瓦解した世界です、ここが最後の砦となる他ないかと」

 所長と女──天城と呼ばれた女は、何でもない様子で会話を続けている。ありえない。何故彼は涼しい顔で会話ができるのか。デルウハは今、その場に立ち尽くし、呼吸をし、『目の前の女を押し倒さない』という理性を働かせるだけで全神経の九十八パーセント総動員していた。味方殺しも厭わない強靭な精神力の賜物か、残り二パーセントの自我がその状況を冷静に分析した。

 実際にそれを経験するのは初めてだ。だが、人伝に聞いたことがある。衝動的なまでの性欲──第二の性──発情期──フェロモン──いやしかし、所長のこの様子──であれば、こいつは、この女は──。

「デルウハ殿?」

 気付けば、天城という女は目の前からいなくなっていた。凶暴な獣のような性衝動も途端に落ち着き、震える肺にようやく息を吸い込む。額にはびっしりと脂汗を浮かべるデルウハに、所長は不安げな瞳で覗き込む。デルウハはこの研究所の防衛の要である。あのどうしようもないハントレスたちを人間の身でまとめ上げたただ一人の男である。彼に何かあってはこの研究所は終わりだ──彼はきっとそのように考えているだろう。

 だから、『これ』は急を要するのだと、異変の原因をすぐさま口にした。

「あの女──Ωなのか?」

「ええ、確か。ですが、抑制剤も摂取していますし、ヒート期間は自室に閉じこもりますし、害はないはずで──まさか、デルウハ殿っ」

「まさかは俺のセリフだッ!! 何でこんな閉鎖空間にΩがいるんだ!!」

「だ、だって実害はなかったんです! そもそも、研究員にαは一人もいなくて……!!」

 思わず胸倉を掴み上げるデルウハに、所長は相変わらずヒーヒー言いながら言い訳を口にする。所長の言うことは尤もで、そもそもΩ自体が絶滅危惧種なのだ。人口の減った今、数少ないαとそれ以上に数の少ないΩが巡り合う可能性なんかゼロに等しい。確かにヒート期はそれなりに問題視されるも、周期は三か月に一度、一週間。業務上人と関わることのないという彼女の第二の性は、大して重要視されなかったのだろう。

 けれど、可能性はゼロではないことを、デルウハ自身が証明してしまった。運命なんて非科学的な言葉は信じない。ただただ可能性があって、運が悪かっただけの話。所長のこの様子から彼女がヒート期でないことは明白。であれば、この『衝動』を説明付ける原因は、たった一つ。

「(あれが──俺の『番』……)」

 その日、確かにαとΩは出会ってしまったのだ。



***



 デルウハは珍しく困っていた。悩みの種はもっぱらこの研究所内に唯一存在するΩにして、恐らく自分の『番』である女──天城凪沙についてだった。

 天城凪沙。この研究所で生まれ育った職員の一人。二十代。女。Ω。亡き両親の後を継ぎ、普段はセキュリティ担当としてサーバルームに一人閉じこもって仕事をしている。優秀な職員で、真面目で大人しい。Ωである引け目はあるものの、それを補って余りあるほどの優秀さ。ヒート期は決して人前に姿を現さず、そのフェロモンにかどわかされた者はいない──それが、デルウハの調べうる限りの天城凪沙の情報だった。何せ人前に出る業務じゃない上にΩである為か、ほとんどの職員が彼女を知らないのだ。『ああ、あのΩのね』その程度の認識である。そもそもデルウハがαであること自体ほとんど知られていないのだから、この日本において、いや、この閉鎖空間において第二の性などあってないようなものだった。

 まさかΩがいる上に、自分の『番』に巡り合うなんて計算外にも程がある。だが、一度巡り合ってしまってから、性が叫ぶのだ。あの女が欲しいと。細い首に牙を立て、泣いて喚いて縋りつくほどに犯したいと。その衝動が、デルウハにとってたまらなく苦痛だった。確かに、悪魔と呼ばれたデルウハにだって三大欲求はある。眠い時には眠くなるし、食事は何物にも代えがたいほどの至福だし、性欲だって人よりは少ないもののないわけではない。とはいえ、若い頃ならまだしも今は年齢もあり性欲は落ち着きつつあるし、そもそも、命のやり取りで神経をすり減らしているため、性欲処理が必要なほど穏やかな夜を迎えることがほとんどない。

 なかったのだ──が。

「あ゛ー……クソッ」

 それが今や、ほぼ毎日顔もおぼろげな女を想像し、一人処理する始末。そうでなければ彼女の発するフェロモンを辿ってサーバールームに突撃しかねなかったからだ。それはデルウハにとってはなんとしてでも避けねばならない惨劇だった。だから嫌でも毎日一人でこの性欲を発散させて、少しでも気を紛らわせていたのだった。

 決して、決して天城凪沙を慮っているわけではない。寧ろ始末しないだけ──あるはずのない──良心が働いていると思って欲しいものである。デルウハがこの衝動に悩まされている理由は一つ、理性でコントロールできない点にある。とにかくあの女のフェロモンを察すると、性行為以外考えられなくなる。まるでモルヒネをぶち込んだ時のように、意識が朦朧とするのだ。それはまずい。ただでさえ日々ハントレスたちの信頼を勝ち取るために思考を張り巡らせているのに、Ωのフェロモンが邪魔をする。αとしての性がデルウハを狂わせる。それが何よりも、我慢ならなかった。あの女はいつか、自分の仕事の妨げになると確信していたからだ。

 では秘密裏に始末をするか。それも考えたが、後任のいない仕事をたった一人で切り盛りしていると聞いてデルウハは思わず頭を抱えた。サイバーセキュリティだなんて、UNAすら解散したような世界で一体誰がこの研究所にサイバー攻撃をしてくるのかと詰め寄るも、意外にそういう不届き者も多いのだという。確かに、デルウハが日本に来たのも不確かではあるがこの秘密の研究所の情報を掴んでいたからだ。彼女の仕事は、そういった攻撃者から身を守るだけでなく、通信が遮断されたこの研究所と外の世界とコンタクトを取ることにあるという。閑話休題。とにかく、意外にもそれなりに面倒かつ重要な仕事を任されている彼女を殺すのは流石に不味いと所長に泣きつかれた。誰からも煙たがられていた吉永を処分するのとは訳が違うのだ、と。そんなことをするくらいなら、『番』になれと所長は言う。

「断る!」

「一考の余地もなく!?」

「あるはずないだろ! 『番』になったからって性欲は収まらん!」

「で、でも、番になることでΩはフェロモンを発しなくなると言いますし……」

「だが、ヒートはどうしようもないんだろ?」

「え、ええ。彼女もΩであることを疎み、此処で様々な実験を行いました。ですが、どんな強力な抑制剤もヒートだけは完全に抑えることはできなくて……」

 確かに、番になるという手は考えた。フェロモンは抑えられるというし、少なくとも合意が取れれば性欲処理の相手には困らなくなるという利点はある。だが、それ以上のデメリットが多い。百歩譲ってデルウハは『番』を許容しても、恋愛関係まで至るつもりはない。だがΩは番となることでαに執心するというし、その逆もまた然り。デルウハにそういった情はないが、向こうは違う可能性が高い。そもそもデルウハはこの性衝動に悩まされているのに、番になったところで抜本的解決とは言い難い。

 それに──他人に体を許す、という点においてもネックだった。どんな些細なことであれ、他者に対して無防備な姿を晒すのは性に合わない。行為中はデルウハの考えうる限り尤も無防備な状態だ。素手で人を殴り殺せるような少女たちを部下に従えている以上、そんな状態は可能な限り作りたくない。何故ならホラー映画でも、性行為中の男女は抵抗やむなく殺害されると相場が決まっているのだから。

「全く、どうしたもの、か──」

 その瞬間、どこからか甘い匂いが漂ってくる。それが何か分かっていながら、初動で息を止めれなかったデルウハの敗北は決まったも同然だった。

 ぐわん、と脳が揺れる。襲い来る吐き気、眩暈、発熱は、たちの悪い伝染病のようだった。これは、まずい。まずいと理解しているのに、身体は勝手にどこかへ向かう。まるで蜜に誘われる蝶のように、ぼんやりとした表情で歩き出すデルウハに、所長の表情が一変した。

「デ、デルウハ殿!! どこへ──」

 どこへ、など。決まりきった問いだった。腕を引っ張ってくる男を、デルウハは赤子の手を捻るかのように、容易く突きとばす。純日本人の彼に、デルウハほどの屈強な身体を押しとどめることなどできるはずもなく、棚に思いっきり頭をぶつけた所長はあっさりと意識を失った。

 邪魔者はもういない。デルウハの足は真っ直ぐ匂いの元を辿る。冴え渡る知性など、今やゴミ箱の中。今はただ、一秒でも早くあの女の元へ向かわなければ。一心にそれだけを思い、すれ違う職員を半ば突き飛ばすようにしてデルウハは廊下を突き進む。ハントレスたちに会わなかったのは、幸いだった。その部屋は、ずっと前から知っていた。ともすれば、彼女に出会った日から。けれど、ただの一度もその戸をノックしたことはなかった。そうなれば、もう終わりだと男は理解していたからだ。けれど、そんな理性とはもうおさらばだ。もうすぐ、もうすぐ、もうすぐ──。

「……あ?」

 彼女が普段仕事をしているという、そのサーバー室のドアには生意気にも鍵がかかっていた。ガチャガチャと、空くことのないそのドアノブを永遠に鳴らす姿はさぞ異様に見えただろう。ここが人通りの全くない場所でよかった。ああ、彼女はΩだから隔離されているだけかもしれないが。

「ど、なた、ですか……っ」

 部屋の中から、甘ったるい声が訊ねる。苦しげで、けれど自らの求めるαを誘う色香を纏った声。頭がおかしくなりそうだ。耳から、鼻から、あらゆる刺激がデルウハの脳を犯す。

「あ──!」

 足りない。そんなものでは、何一つ満たされない。そう考えた瞬間、手元から凄まじい音がして、ドアは呆気なく開かれた。中には毛布に包まり、目に涙を浮かべてこちらを見つめるΩの姿。絶望したようにも見えるし、期待していたようにも見える。どちらでも、今のデルウハには大して関係なかった。取れたドアノブをぽいと投げ捨て、部屋にずいっと入りこむ。いくつものサーバーが稼働するその部屋は極寒の雪山とは思えないほど空調が利いており、肌寒いほど。どうやら仕事部屋兼自室になっているようで、ベッドやらテーブルやら、私物と思しき物がいくつも見受けられる。ちょうどいい。鍵の意味をなさなくなったドアを閉めながら、デルウハはそんなことだけを冷静に考えた。

「お──お待ちください!!」

 一歩、二歩とΩに近づいたその時、Ωは熱に浮かされているとは思えないほどハッキリとした声を出す。だが、デルウハの足は止まらない。まろやかな頬から首をするりと撫でるだけで、小さな唇がαをこまねくように喘ぐ。だが、Ωはデルウハ以上に気丈であった。その目にはまだ、理性の光が灯っていた。

「あなたが──あなたが、私の番なのでしょう? なら、なら、うなじを──早く、お願い、します──!! 『運命』になら、な、なにを、されたって──!!」

 ぐい、と自らの髪を束ねてうなじを晒すΩ。一度も日に焼けたことのないような真っ白なその首筋は、メレンゲたっぷりのキルシュトルテのようだった。デルウハの太い指が、ゆっくりとその白を犯す。その都度びくびくと肩を震わすΩに、何を思ったのか記憶は定かじゃない。

 だが、『運命』というその一言が──まさに命運を分けた。


「あっぶねえ、危うく犯すところだった」


 そう言いながら、デルウハは女の首に両手をかけてぺきりとへし折った。



***



 気絶から目を覚ました男が真っ先にしたことは、この研究所唯一のサイバーセキュリティ担当員の仕事場兼自室へ向かうことだった。なんてことだ。他所からやってきた研究所ただ一人のαが、これまたたった一人しかいないΩの『運命の番』だったなんて、なんてロマン溢れる話だろう。相手が少女相手だろうと容赦なく殺害するような悪魔でなければ、だが。

 確かに、αとΩの関係を甘く見ていたことは認める。男が着任して三十年余り、この研究所にαだのΩだのという第二の性に頭を悩ます者はほとんどいなかった。だから、ヒートであろうと人通りのない自室に閉じこもる彼女の身の危険を、彼らは真の意味で理解しなかった。まさか何百メートル以上も離れた個室でヒートに耐えるΩのフェロモンを嗅ぎ取るなんて、一体誰が想像できただろう。食い止めようと身体を張るも時すでに遅く、男が目が覚めた時、デルウハは影も形もなかった。最悪の事態に身を震わせながら、男は走って、走って、走って。そうして辿り付いたサーバー室のドアは、どう見てもドアノブがなく、目の錯覚でなければドア自体がひしゃげているような。

「デ、デルウハ殿ー……? 天城君……?」

 彼もヒートの何たるかは理解している。非常事態とはいえ、流石に顔見知り二人の性行為までは見たくない。恐る恐るドアが壊れない程度にノックする。一瞬の間、だがすぐに「おお」と男のくぐもった声がする。だが女の声は聞こえない。遅かったか、と思いながら恐る恐るドアを開ける。だが、想像に反して部屋の中にいた男女は衣服の乱れはなかった。天城凪沙はベッドに横たえられており、デルウハはそのベッドに座り込んでいる。気になるとすれば、横になった凪沙は目を開いたまま、仰向けでぴくりとも動かない。

 ──まさか、と最悪を上回る予想に男は顔を引きつらせる。

「ま、まさか、彼女……!!」

「流石に死ねばヒートは収まるらしいな」

 デルウハは事もなげに語る。なんてことだと所長は頭を抱えて膝をつく。そりゃあ、暴力的なまでの性行為は彼女の本意ではなかったはず。それが未然に防がれたことは喜ばしい。問題は、もっとまずい問題が横たわったままということで。

「何も殺すことはなかったでしょうに!」

「ヒートだぞ! ヤれば百パーセント着床する! ただでさえハントレスどものお守りで手いっぱいだってのに、今度は父親になれってか!? 冗談じゃねえぞ!!」

「それでも、死ぬよりは──あなたたちは、『運命の番』だったのに!」

「そんな寒々しい現象は存在しない」

 信じられない。Ωのヒートのフェロモンに中てられて、運命の番を殺すαがいるだなんて。そうまでしてこの男は、他人に情を与えないのか。そうまでして、自らの隙を曝け出さないつもりか。

「で、こいつなんだが……どうにか腹上死ってことにはならんか?」

「なるわけないでしょう……あああ天城夫妻に顔向けができない……!」

 幼い娘を残して亡くなった夫妻を思い浮かべながら、男は悲しみに暮れていた。いや、いつか誰かがこうなるのではないかと思っていた。何の罪もない人間が、ただ悪魔にとって都合が悪い──その一言だけで屠られるのではないか、と。だが、まさか、それが彼女のような善良な人間だとは。ただΩ出会ったばかりに、こんな目に遭うなんて──。


「ケホッ」


 その時、死体が咳をした。何を言っているか分からないと思うが、男たち二人も何が起こったのか理解しなかった。何故なら、確実に死んでいた人間が、けほけほと咳をし始めたのだから、思考も停止するというものだ。

 そして、デルウハの手によって首をへし折られたはずの女は、軽くせき込みながらゆっくりと起き上がったのだ。

「あ、れ──デル、ウハさん、に、しょちょ……なに、して──」

 そう言いながら、眠るように言葉を途切れさせる凪沙。男たちのどでかい声が、研究所内に響き渡るのは言うまでもなかった。



***



 次に凪沙が目覚めたのは、彼女が死んでからちょうど一週間経過してからだった。自室に寝かしつけられた彼女が最初に見たものは、我が物顔で自分のPCを利用するデルウハの姿だったのだからさぞ驚いたことだろう。

「で、デルウハさん!? 何して──なんでここに──」

「起きたか。そろそろじゃないかと思ってな」

 そう言って、デルウハは凪沙に向き合うように座る。その距離感に、凪沙はびくりと肩が跳ねる。流石に互いが『運命』とかいう寒々しい関係──尤も、デルウハはあまり信じていないが──なのは、凪沙も承知しているらしい。

「あんたがヒートを迎えてから、一週間が経った。どこまで覚えてる?」

「ど、どこまでって……ヒートが来て……いつものように部屋に閉じこもってたら……デルウハさんが来て……あれ、それからどうしたっけ……えっ、一週間!? え!?」

 どうやらその先は覚えていないようだ。これもまたハントレスと同じとは恐れ入る、とデルウハは人知れず胸を撫で下ろした。

 ──まさか、殺した女がハントレス同様蘇るだなんて、一体誰が想像できただろう。素体班や研究班を掴まえて聞くところによると、彼女はその昔、Ω性をどうにかできないかとその体を研究者たちに差し出していたのだという。そうして散々弄り回されてなお、彼女の性は変わらなかった。その際、どういう偶然かハントレスたち同様の再生能力が備わってしまったらしい。ただ、ハントレスのような怪力や脚力はなく、死んでも再生に一週間以上かかるため戦闘員にコンバートされることなく、『運悪く死んでも生き返るしまあいいか!』ぐらいのノリでいたらしい。いいわけあるか。

「単刀直入に言う。あんたは死んだ──正確には、俺が殺した」

「こ、殺した……? でも、私はこうして生きてて……!」

「あんたにはどうやらハントレスと同様に再生能力があるらしい」

「私に!?」

「ああ。まさか、知らなかったのか? 心当たりはあるだろう?」

「それは──その、私はΩですし……どうにかできないかと頼んだことはありましたが……でも、だって、そんな、研究員たちは誰も……そんなこと、一言も……」

 で、おまけにその再生能力は所長どころか本人すら知らなかったのだから、本当にここの研究員の倫理観はどうかしてる──オスカーが生きていたら、『お前が言うな』と言うのだろうが──。まあ、研究員も『死ななければバレないし』というスタンスだったので、彼女自身が知らないのも当然と言えば当然か。

「でも、待ってください。殺したって、どうして……?」

「──いいか。一週間前、俺はあんたのヒートに中てられた」

 びくり、と再び女の肩が震える。αのデルウハのその一言に、どんな重みがあるかΩの彼女が知らないわけがない。だがその恐怖に畳みかけるようにデルウハはその細い肩をがしりと掴む。

「このままじゃ俺はあんたが孕むまで犯してしまう。だから、そんな無体を働く前に殺した。あんたに再生能力があると、事前に所長から聞いてたからな」

「そ、そんなことが……」

「そりゃあ、俺だってこんな真似はしたくなかったさ。だが、ヒート時の妊娠率は百パーセントだ、あんたに望まない妊娠を強いるわけにはいかない。この施設に避妊具だの避妊薬だの用意する余裕もないし、だから──こんな手を……」

 こんなことしたくなかった、それを念押しするように告げてその肩からそっと手を放す。どちらが彼女にとって非道と感じるかは、正直賭けでしかない。所長の言うように、『運命の番』なのだから殺されるぐらいなら、妊娠を望むような夢見る女かもしれない。

 ただ、一つ勝算があるとしたら、それはΩの彼女が『その性を疎んで肉体改造を受け入れた』という点。それ即ち、彼女がそれまでにΩであることを受け入れられなかった。或いは、自分の肉体を改造されても良しとする常軌を逸した価値観を持っているか──。

「……ありがとうございます、デルウハさん」

 自分の下腹部をさすりながら、女は緩やかに微笑んだ。その笑みに、デルウハは賭けの勝利を確信した。

「お気遣い感謝します。苦渋の決断を強いてしまい、申し訳ありません。けれど、あなたのおかげで私の身体がまだ清いままである──Ωとしての性に破れたわけじゃない。それが私にとって、どれほど救いだったか……!」

 柔らかな笑みを浮かべながら、凪沙はそう語る。静かに流す涙を、デルウハは何を思うでもなくじっと見つめていた。

「Ωに生まれ、ヒートが来るたび、気が気じゃなかったんです。いつ誰とも分からぬ人間に犯されてしまうのか、と。何より、それをΩのせいであるとなじられてしまうのが、本当に怖くて、私……っ!」

 自らの身体を抱き締め、震えながら泣いている女はさぞ加護欲を掻き立てられるのだろう。俯く凪沙の髪がするりと垂れ下がり、白いうなじがむき出しになるのが見えて、デルウハはさっと目線だけを逸らす。

「自分に再生能力があったなんて初耳でしたが……でも、そのおかげで救われたのなら、この身体を研究材料として差し出した甲斐があります」

「殺した俺が言うのもなんだが、まあ、不幸中の幸いだったな……」

「そうですね……まさかこんな形でヒートを回避できようとは」

 此処の職員は多かれ少なかれ一般的な倫理観を持っているとは言い難い。どうやら彼女はデルウハ同様、蘇りさえすれば殺人をノーカウントにするタイプらしい。そもそも、蘇るのに殺害されることに抵抗を感じる所長や神父、ハントレスたちの考えの方が非効率的だとデルウハは思うのだが、まあそんなことは口が裂けても言わないわけで。

「あー……そこでだな、一つ相談がある」

「はい、なんでしょう」

「あんたはこの先も定期的にヒートが訪れる。だが、俺は色々と、あー……なんだ、忙しい身でな」

「──ああ、ヒートの都度私を殺そうというのですね、デルウハさんは」

「おかしな提案だと思ってる。だがな」

「いいんです。みなまで言わないでください、デルウハさん」

 寧ろ女は、しずしずと頭を下げる。

「こちらからお願いしたいくらいです。殺人を依頼するなんて正気の沙汰とは思えませんが、どうかヒートの都度、私のことを殺してくださいませんか?」

「……俺は構わんが、あんたはそれでいいのか」

「Ωとして嬲られるぐらいなら、死んだ方がましです」

 凪沙は迷いなくきっぱりと言い放った。どいつもこいつも頭が吹っ飛んでいる人間ばかりだが、彼女の言い分は実に合理的だった。抗いがたい第二の性に屈するぐらいなら、死ぬ/殺す──彼女とデルウハは、実によく似ていた。

「寧ろ、再生に一週間もかかるなんて僥倖です。あれだけ辛いヒートを、死んででいるだけで回避できるなんて!」

「はは、死んでる方がましなんて、中々豪胆な性格ですな」

 晴れやかな表情で語る凪沙のセリフを、ぜひともハントレスたちに聞かせてやりたい。けれど、ハッとしたように女は俯く。

「あ──でも、一週間も死んでいたら、私、仕事が……」

「ヒートは三か月に一度なんだろ? 俺が引き継ぐ」

「で、でも!」

「寧ろあんた一人で切り盛りしてるって時点で破綻してる。冗長性も何もない、属人化が過ぎる。事情は察するが、少しは他人と仕事をすべきだ」

「そ、それは……そうです、けど」

「なあに、殺した責任ぐらいは取るさ」

 ハントレスたちにはおおよそ見せないような爽やかな笑みを浮かべるデルウハに、凪沙はほっとしたように胸を撫で下ろす。デルウハとしても、外とコンタクトが取れる可能性のあるシステムを押さえられるのは大きい。いざとなった時のバックドアは探せるかもしれない。

 そんなことを考えていると、すっと手のひらが差し出された。デルウハは迷いなくその手を取った。正直、ヒートの都度あんな風に思考を乱されるなんて、冗談じゃないと思っている。しかも始末したと思ったら生き返るなんて、どこまで面倒かける気だと、いい加減素体研究室に殴り込みに行きたいほどだ。それでも、トータルでプラスマイナスややプラスで落ち着いた。それでデルウハはこの件については良しとした。セキュリティシステムを抑えた。再生能力かつ忘却能力を持つ、ハントレスとは違って非力な女を味方につけたのも大きい。非常時の壁には使えるかもしれない。

 そして何より、彼女のヒート時に性欲の処理ができるようになった。


「(──例え孕んでも、お前は忘れてくれるんだろ?)」


 何度犯したところで、お望み通り身体も記憶も清いままなのだから。

 ああ、助かった。子どものお守りなど、ハントレスだけで十分だ。


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