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「あ、いらっしゃい荒船〜。どうぞどうぞ〜」

「……おう」

 それから、自分でも驚くほどのスピードで事が進んだ。泊まりなら着替えいるよねと、一度二人は別れて互いの家路につく。親には本部に泊まると告げ、荒船は着替え等の必要なものををまとめ、何らかの追及がされる前に家を飛び出す。徐々に暗くなっていく最中、凪沙の家に向かう荒船は何度も足を止めた。いいのか?本当にいいのか?これってそういうことだよな?いいのか、ついさっきまで天城はそういう目で見てないだろ、と。しかし、互いにそれを完全に否定できる材料を持ち合わせないから、こんな強硬策に出たのだ。どのみち、既に一歩は踏み出したのだ。もう後戻りはできないと、荒船は腹を決めて彼女の家の玄関のチャイムを鳴らす。程なくしてにこにこ出迎える凪沙はいつも通りで、自分だけが緊張し、かき乱されているのかと思えてしまうほど。

 鉄の扉に吸い込まれるように入れば、小さな靴が並ぶ玄関を目の当たりにしたのと同時に、甘やかな香りに抱き締められるような感覚がした。他所の家には、良し悪しはさておきその場特有の「におい」があるものだが、それが一人暮らしをしている凪沙の家から発せられているのだと考えるだけで下っ腹が熱くなる。くそ、と誰にも聞こえぬよう悪態を吐きながら、靴を脱ぎ、トレードマークともいえるキャップを取って敷居を跨ぐ。ふと、変にニヤついた顔でこちらを見上げる凪沙の視線に気付く。

「んだよ」

「んー? 顔がよく見えるなって」

「別に、珍しくもなんともないだろ」

 換装体にも設定しているので、ボーダー内ではほとんどキャップ姿でいる荒船だが、凪沙と肩を並べている時は比較的キャップオフが多かった。理由は簡単、この女といる時は八割八分映画館に居る時だからだ。

 だが凪沙は、分かってないなあ、とばかりにかぶりを振る。

「映画見てる時に荒船の顔は見ないでしょ」

「……そりゃ、まあ。そうか」

「ほらあ。だから、つい」

 ひひ、と照れを隠すように笑う凪沙に、ただただ胸中がぐしゃぐしゃとかき回されていく。なんだよこいつ。こんなに可愛かったか。そんな荒船の荒れようなんか知ったこっちゃないとばかりに、さあどうぞと凪沙は部屋の奥へと誘う。

 部屋はシンプルで、すっきりと片付いていた。或いは、荒船が着替えを取りに行っている間に片付けたのか。ともかく、こざっぱりとした1DKの八畳ほどの部屋に、ベッドやパソコンラック、聳えるような本棚が二つ並んでいる。本棚の反対の壁は一面スクリーンが広がり、天井の隅にはスピーカーが取り付けられている。ローテーブルにはプロジェクターがどんと鎮座し、ひじ掛け付きの座椅子が備え付けられている。本人からも聞いていたが、想像以上に立派なホームシアターに思わず緊張も忘れ、まじまじと部屋を見回してしまう。

「すげえな」

「いいでしょ。つっても、プロジェクターとスピーカーは兄貴のお下がりだけどね」

「天吊りスピーカーなんて初めて見たぜ。此処、壁厚いのか?」

「薄くはない、ぐらいかな。夜中に爆音怒りのデスロードでもしない限り、苦情は来ないよ」

「いいな。俺もプロジェクター買うか」

 まさに映画好きの為の城だ。純粋に、羨ましいと思いながら本棚に近付けば、そこには荒船隊の隊室に負けずとも劣らぬ量のDVDやBlu-rayが詰め込まれていた。

「さあ見るよ荒船! 今日は一睡だって出来るとは思わないことだね!」

「おま、徹夜させる気かよ!」

「明日土曜でそっち非番でしょ? もしかして、先約あった?」

 どうやらシフトは把握済みらしい。確かに荒船隊は明日非番だし、何なら予定も入っていない。だが、意外にも予定があったのかお前、とばかりに訊ねてくる凪沙に荒船は眉根を顰める。

「いや、ねえけど」

「やっぱり!」

 やっぱりってお前。人のこと暇人みたいに言いやがって。そう続けようとした荒船は、凪沙の先手により口を閉ざす羽目になる。

「荒船、いい映画見た後は家でその作品の他のシリーズとか、私がオススメした映画見るでしょ? だから私と映画見た次の日は絶対予定入れないじゃん。知らないと思った?」

 笑いながら本棚からいくつかのディスクを抜き出す凪沙からすっと目を逸らして大仰にため息をついてから木目が疎らな天井を仰いだ。知り尽されている。自分のことも、考える先も。勝てる気がしねえと、思い知った夜はまだまだ長い。

 それから二人で肩を並べ、積み重なった四枚のピザとコーラを手に映画鑑賞に耽る。

「あー、この俳優見覚えある。何だっけ」

「あれあれ。なんだっけ、『速すぎて見えなかった?』の人」

「それだそれ。モサすぎて分からなかった、俳優ってスゲぇな」

「この作品、モサ男と美少女ヒロインの対比が素晴らしいからね。あーほら、此処! このマガジンを空中で取り換えるとこ! ほんっとにサイコーなの! 巻き戻すからあと三十回は見て!!」

「スローアクションの使い所ほんと分かってるよな」

 時に二人でアメコミヒーローに憧れるアメコミヒーローの映画に熱を上げながら。

「安定と安心のザ・ロック」

「このゲーム作った奴は一回パワーバランスを考えた方がいいだろ」

「でもほら。キメ顔になるから」

「それ言うほどデメリットになるか?」

「パーティのヘイト溜まるでしょ。因みにこの映画、玲ちゃんイチオシ」

「那須も案外アクションとかアドベンチャー好きだよな」

 時にゲームの世界に迷い込む屈強な男たちの映画に笑みを浮かべながら。

「あ゛〜〜〜ッ!! 無理ほんと無理なんだってこれだけは!!」

「トラウマは克服してなんぼだぜ、天城」

「イ゛!! ヤ゛!! ほんとヤダこれ私これで虫駄目になったの! あ゛ぁ゛あ゛ほんと無理スカラベが頭蓋骨ボコボコするとこホント無理なの!! 無理無理ほんと蘇る蘇るから色んなものが!!」

「お前、死者の書読めねえだろ」

「蘇るのは死者じゃなくてトラウマだよスカポンタン〜〜〜ッッ!! ねえほんと苦情来るぐらい騒ぐよ私!! 私キンチョーしたりテンパったりするとほんと騒ぎ出すからね!? セリフ聞かせないぐらい喋り倒す悪癖あるからね!? それでもいいの!?」

「別にいいけど。おー、楽しみ。俺も久々に見たかったんだよ」

「わ゛た゛し゛は゛見゛た゛く゛な゛い゛!゛!゛」

 時には雄叫びを上げながら数十年前のエジプトアドベンチャーホラーを見たり。

 そうして腹も膨れて映画も三本消化し切る頃には日付が変わろうとしていた。さー次何にしよう、と立ち上がって本棚の方へ向かう凪沙に、ん?と首を傾げる荒船。家に一歩と入るまではあれほど思い悩んでいたというのに、いざ映画を見出してしまえばいつも通り。場所が映画館やバーガーショップから凪沙の自宅に変わっただけで、二人の間に流れる会話はどこまでもいつも通りだった。ひょっとして──考えもつかなかったが──凪沙の言うように、荒船と凪沙の間には恋愛や情欲といった感情は存在していないのか。彼女を前に男として欲することなど何一つないというのだろうか。

 けれど、プロジェクターのぼんやりとした光がスクリーンを照らす中、へらへら笑いながらパッケージを片手に戻ってくる凪沙を見ると、いややっぱり可愛いな、と思ってしまって。これはいよいよ、自分だけが意識しているという、大変不味い展開なのでは、と焦りで手のひらがじんわりと汗ばんだ。当の本人はへらへらと何が楽しいのか、プロジェクターに次の映画のディスクをセットしている。躊躇いなく荒船に背を向けるその姿は無防備そのもので、肩は薄く、腕は細い。その腕を引っ張ってベッドに押し倒すことだって、容易な体格差。荒船ならそんなことをしないと、絶対的な自信故の行動だろうが、それにしたって男を舐めすぎている──いや、もしくは、換装体になれば負けないという絶対的な自負故か。数少ないA級ソロ《攻撃手》は伊達ではない。弧月を手にしたこの女を真っ向から止められるのは、ボーダー内でも五本の指で足りるかどうかという実力者。そして、荒船はその五本指の中には入っていない。けれど今の彼女は生身。トリオン体でもなければ、その手にはトリガーもない。凪沙の身長は高すぎも低すぎもせず、筋力だっていいとこスポーツが得意な女子高校生の域を超えてはいない。いくら無類の強さを誇る彼女とて、生身では男の力には敵うまい。

 やはり、一度は教えてやるべきか。男女の、絶対的に抗えない力の差を──。

「……なんてな」

「え? なんか言った?」

「いや。次は何見んだよ」

「次は兄貴イチオシ。ちょっとマイナーだけど、アメコミヒーロー作品。私も初めて見る!」

「お前本当にヒーロー物好きだな」

「九割九分ハピエンなのがいいよね! やっぱ見終わった後の爽快感あってこそでしょ!」

 ワクワクした面持ちでDVDを取り出す凪沙に、鎌首をもたげた親切心という名の暴虐をイーグレットで撃ち抜いた。下らない話だ。そもそも凪沙は、そんな間違いは百も承知の上で荒船を家に上げたのだ。そんなリスクを犯してまで、はっきりさせたいと笑った彼女の言葉に泥をかけるような真似はしない。だったら荒船だって冷静に、理論立てて、彼女との関係を証明するだけだ。そこに欲と言う名の愛があるのか否か──嗚呼、けれど今は、彼女の言う通りにするのも悪くない。人をダメにするクッションに身を任せ、荒船は大きなスクリーンに表示される映像を心待ちにしたのだった。

 と、落ち着いていられたのは映画が始まって数分間だけだった。

 そう、そもそも開始からおかしいと思っていた。聞いたこともないレーベル会社のロゴが大きく映ったかと思えば、めちゃくちゃな展開が開幕一分で繰り広げられ。字幕の内容を理解する間もなく、スタイルのいい金髪の美女と男が組んず解れつのとまではいかずとも、濃厚なキスシーンをしながら着るものをどんどん脱いでいくではないか。しかも、いい塩梅のアングルで隠すでもなく、寧ろカメラに見せつけているような動き。流石の荒船とて、それが何か気付かぬ訳もなく。

「オイ」

「はい」

「何だこれは」

「アメコミヒーロー作品──の、パロAV」

「お前正気かッ!?」

 まかり間違って兄がオススメしたものを上映してしまったのかと思いきや、故意ではないか。冗談じゃない、何だって──今のところは、という枕詞を使ってしまうが──気の合う異性の友人とAV鑑賞と洒落込まねばならないのか。確かに暗がりの中でちらりと見えたパッケージは有名アメコミ作品のジャケットによく似た何かで、モザイクだらけのそれは一般的にお子様の目の届く場所に置いてはいけないシロモノだった。そうこうしているうちにスクリーン内の男女はもう下を脱ぎ始めた。このままじゃ本当に冗談じゃ済まなくなる。慌ててプロジェクターのリモコンに手をかける荒船だが、その上から凪沙の両手が荒船の手をバンッと押さえつけた。鈍い痛みに何しやがると声を荒げそうになった男の言葉は、こんなバカみたいなシチュエーションの中でさえ馬鹿正直なぐらい真っ直ぐな目をした女にあっさり飲まれてしまう。

「私、確認したいって言った」

 けれど、荒船の手を押さえつける両の指は驚くほどに冷たい。

「こんなこと、冗談じゃしない。できないよ」

 真摯な黒真珠のような瞳が、荒船の目を力強く射貫く。

「荒船とだから、するんだよ」

 スクリーンの向こうでは金髪美女のたわわに揺れる胸にしゃぶりつく男の汚い水音と女の嬌声が響く。そんな中で、告白さえも飛び越えたような熱烈な台詞に、せめて音量は落とせと、力なく答える他ない程度には、天城凪沙に対して強く出れないあたり、これが惚れた弱味なのかもしれないと、荒船は決して幸福とも不幸とも取れないこの状況を苦々しく噛み締めるのだった。


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