いつか見た消失を、今感じた




幼い時分より、共に過ごした少女がいた。早くに家族を亡くした彼女は、カッシュ家に引き取られ、本当に家族のように自分たちは育っていった。そうやって当たり前のように共に居た彼女を、護りたいと強く願って想いを告げた。彼女は、それを笑顔で受け取ってくれたのだった。やがて弟が家を出て、姓を同じくしても、自分たちは幸せだった。いつか帰ってくる素直になれない弟を、家族4人で出迎えようと、そう笑いあっていたのだ。

その幸せは―――些細な野望により、脆くも崩れ去った。

けれど、ここで何もかもを諦めるわけにはいかなかった。立ち上がらなければ、ならなかったのだ。家族を、地球を、愛した人を護るために、戦わなければならなかったのだ。例え命を落とそうとも―――自分の命と引き換えに護れる物の大きさを考えてみれば、それはあまりに安い代償だったのだ。だからこそ、今この時だけは弟を恨みたくなった。嗚呼どうして、安全なコロニーに居る筈の彼女が地球に居て、あろうことかネオホンコンに居て、シュバルツ・ブルーダーに手を伸ばしてしまったのか、その手をどうして、握り返してしまったのか。その手を、その身体を浚って、こんな人気のないところまで来てしまったのか。



「キョウジ……」



愛しい人。1年ぶりに見るその姿は、記憶にある頃よりもだいぶやつれているように見えた。彼女の心情を考えれば、それも当然と言えることだろう。家族は引き裂かれ、夫は国家反逆罪を犯した大罪人―――その妻ともあれば、さぞ風当たりが強かっただろうに、心細かっただろうに。たった一人で、コロニーに残された彼女のことを考えると、ドモンの取った行動を責めることは出来ないのではないだろうか。

嗚呼、それでも。この身は、この心は、犯罪者として名を馳せているであろうに、彼女は手を伸ばしてくれた。名前を、呼んでくれた。自惚れていても、いいのだろうか―――彼女はまだ、愛を覚えているのだと。



「ナギサ……私は、」

「キョウジ……ねえ、あなたは、一体……」

「私は……」



その潤んだ瞳に、嘘偽りが並べられようか。自分には、到底できないことだった。嗚呼、彼女は信じてくれていた。待ってくれていたのだ。誰もがキョウジ・カッシュを犯罪者と信じて疑わない中で、彼女はただ一人、待ってくれていたのか。その瞳が、その声が、自分を求めて止まないことを、シュバルツは理解した。だからこそ、彼女は真実を知る権利がある。キョウジ・カッシュは―――もういないのだと。この身は、キョウジではないことを。闇に隠された真実が、何であるのかを。

この身はもう、手遅れであることを。



「そん、な―――」



この身がアンドロイドであることも、ミカムラ博士とウルベ少佐によってアルティメットガンダムを奪われたことも、彼女は悲しげな憂いを浮かべながらも黙って聞いていたが、自分の本体であるキョウジは人格を失った生体部品と成り果ててしまい、もはや長くないと知ると、彼女は初めてその顔に動揺を走らせた。



「そんな、じゃあ、あなたはもう―――助から、ないの?」

「……あぁ。もう、手遅れなんだ」

「あなたは、死ぬの?」

「正確には、もはや生きてはいないのだ。この身もキョウジの記憶を持つだけの、アンドロイドに過ぎない。デビルガンダムが消えれば、私も必然的に消える定めに成る……すまないナギサ、君は私を信じて待ってくれていたと言うのに……」



ぽたり、とナギサの瞳から涙が頬を伝い、ナギサの膝に落ちた。記憶の中にある、愛した笑顔は目の前には無く、悲痛と絶望に染まる顔だけが、そこにある。嗚呼、そんな顔をさせることのないように、彼女を護るために、彼女を幸せにするために生きてきたのに。夫として、男として、彼女を愛した一人の人間として、その生を全うできない歯がゆさを、初めて感じた。覚悟していたことだったのに、彼女を前にすると、その覚悟が揺らいでしまいそうになる。こんな顔の彼女を置いて、逝けなどと―――なんと、酷なことだろうか。

ナギサは涙を流しながら、シュバルツの手を取る。なんて冷たい手だろうか。陽だまりの様な温かさは遥か遠く、アンドロイドの自分より冷たい手だ。その震える手を、そっと握り返す。



「私も、一緒に連れて行って」

「……ナギサ」

「私は、ねえ、キョウジ。聞き分けのいい女だと、思うわ。今の話を聞いて、今更あなたが、助からない運命を、嘆いて、悲観して、泣き喚くつもりは、ないのよ。分かるわ、分かっている、わ。他でもない、あなたが、そう言うんだ、もの。だから、だからこそ、なの」

「ナギサ、それは、」

「あなたの居ない世界に、置いていかないで」



涙を流して、冷たい手を握り締めて、彼女は真っ直ぐにシュバルツを見つめる。どれだけ信じても、待っていても、死んでしまえばそれも全てが徒労となる。どれだけ祈っても、どれだけ焦がれても、死んでしまえばもう、全てが無に帰す。愛する人の居ない世界に自分が旅立つのと同時に、愛する人の居ない世界に、彼女を置いていってしまう。その苦痛が分からないわけがない。その痛みは、その心の穴は、埋めようのないものだ。それが分かっているのだ。分かっていながら、尚。



「それは―――できない」

「どうして……いやよ、いやなの、私、嫌よ……」

「ナギサ、分かってくれ……私は、」

「酷な事を頼んでるのは、分かってるわ……分かってるわよ……」

「すまないナギサ、それだけは……」

「でも、仕方が無いじゃない……あなたが居なくなった世界で、一人生きて行けというの……? あなたが居ないと、生きていけないくらい愛してるのに!!」



その嘆きは、まるで呪詛のように自分の心に絡みついた。

愛している。その響きが、こんなにも物淋しいものだったなんて、知らなかった。愛している。そうとも、彼女を愛している。彼女が自分を命を賭して愛しているとの同じように、自分は命を賭して護りたいほど彼女を愛している。そんな人に、共に死んでほしいなど―――どうして言えよう。言える筈があろうか。酷な事を願うのは、同じことだった。それでも自分は、彼女に生きていて欲しかった。例え彼女を傷つけてしまっても、愛した人に生きていて欲しいと願うのは、おかしなことだろうか。



「一人にしないで……お願いよ……っ!! 死ぬことよりも、あなたがいなくなる方が、嫌よ……!! あなたが居なくなった痛みに、耐え続けるなんて、そんなの、出来ないわ……っ!」

「ナギサ……」



その小さな身体を抱きしめると、彼女は縋りつくように手を背に這わす。いかないで、とぼろぼろと涙を流すその悲痛な姿に、ある筈のない心がズキリと痛んだ。こんな目に合わなければ、彼女をこうまで涙に暮れさせることもなかったのに。

瞼を閉じると、今でも思い描ける。幸せだった我が家。研究に没頭する父。共に研究を続ける自分。それを優しく見守ってくれる母と、妻の姿。生意気な弟がいつ帰って来てもいい様に、いつでも家を明るくさせていたその在りし日を。弟が帰ってきたら、盛大な式を挙げようと二人で寄り添いながら語らった日々を。いつか子どもを授かった時、名前はどうしようかなんて、笑い合った。そんなありふれた、どこにでもあった筈の幸せを、噛み締める。幸せだった、確かに幸せだった。この女性と共に歩んでこれて、本当によかったと思う。自分は最後まで共に歩んではいけないけれど―――愛しき君よ、どうか生きて、生き抜いて欲しい。



「愛しているよ、ナギサ―――すまない」



涙に濡れた顔がはっと息を呑む。その腹部には、愛した男の拳がめり込んでいる。力いっぱい殴られた彼女は、一瞬だけ責めるようにシュバルツを見たが、すぐに意識を失った。力無く崩れ落ちた小さな身体を抱き上げる。小さい。小さくて、なんて愛しい命だろうか。その身体を強く、強くかき抱いた。すまない、すまない、と懺悔の言葉を連ねる。酷い男だろうか、自分は。愛した人を悲しませ、泣かせ、置いてゆく自分は。嗚呼それでも、例えそれがエゴだと嘲笑われても、彼女と共に死ぬ逝くことは出来ない。それだけは、出来ないのだ。

意識を失ったナギサを連れ、ドモンが宿泊拠点にしているジャンク船へ向かう。夜も更け、寝静まったその船は起きている人の気配はない。その船に、そっとナギサを横たえる。やるべきことは、全てやった。未練も、もう全て断ち切った。この女性を護るために、自分は死地に赴かねばならない。明日はドモンとの決戦だ。覚悟を、決めねばならない。眠るナギサをもう一目だけ見て、シュバルツは船を去った。その名の通り、闇に溶け込むように、静かに、静かに。


胸の痛みは、もう無くなっていた。

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