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クィレルは、にたにたと笑いながら階段を下りてくる。ずきり、と額の傷が疼いた。ターバンの向こうにあいつがいると、傷が、本能が、警鐘を鳴らしている。そんなこと、教えられるまでもないことなのに。



「セブルス。君はよくやってくれた。君が育ち過ぎたこうもりみたいに飛びまわってくれたおかげで、ウィーズリーもグレンジャーも私を疑いはしなかった」

「くっ、クィレル、貴様──!」

「だが、君にはここは過ぎた舞台だ。役目を終えたのならとっとと退場するのが、一流の役者というものだよ、セブルス」

「きさ──」



クィレルがパチン、と指を鳴らすと、スネイプはバシッと音を立てていなくなった。えっここでいなくなるの? いやほんとあいつ何しに来たんだ。とりあえず、今の段階ではスネイプは私の味方ってことでいいのか? 役に立たなかったけど。寧ろ私の気分を害するだけ害して、私を混乱させるだけ混乱させただけだったけど。



「馬鹿な男だ。君が禁じられた廊下を突破したと知った彼は、ダンブルドアでは間に合わないと悟り、単身で君を追いかけてきたのだ。何せ彼はこの一年、君を護ることに死力を尽くしていたからな」



……どうやら、私の為だったらしい。役に立たなかったけど。まあでも、スネイプに退場してもらった方が私にとっても好都合だ。ぶっちゃけスネイプがいたら私の気が散る。いつ心を覗かれるかヒヤヒヤしたままクィレルと対談したくないし、第一あいつは数年後ヴォルデモートの配下に戻らなきゃいけないんだから、今スネイプとヴォルデモートが変に会話して、わだかまりを生まれては今後困るんだよ、二重スパイさんよお。

さて、今此処に居るのは死に逝く運命にある人間が二人だけ。私もにやりとして、床に転がったまま、クィレルを見上げる。



「あんたのことは、全てお見通しだったんだけどね」

「そうだろう。君は類い稀なる才能を持った魔女だ。君ほどの娘が、気付いていないわけがない。だからこそ、利用した訳だが、ね」

「私たちは都合よく、あんたの手のひらの上で踊ってた──と。全く、馬鹿馬鹿しいよ。身体を張ってくれたロンに、申し訳が立たない」

「フン、本性を現したな、ポッター」

「その言葉、そっくりそのままお前に返すっての」



本性なんて言われるのは心外だ。人をこう、化け狐みたいに言うのは止めて欲しいところだ。



「さてポッター、そこで大人しくしてしろ。私は、この面白い鏡を調べなくてはならないからな。この鏡こそが、石を見つける鍵なのだから」



クィレルはそう言うと、鏡を調べ始めた。ばかめ、どんなに調べてもお前じゃ絶対に鏡から石を取り出すことはできないのに。そんなことより、聞くことだけ聞いておかないと真相に気付いてしまう。



「私、一つだけ、分かんないことがあったんだけど。どうして塔の上で私を襲ったんだ? 透明マントを盗む為だと思ったんだけど、違うの?」

「おや、分からないのかポッター。面白いことを言うものだ。クィディッチの試合で、私が君をどうしようとしたのか、知らない筈があるまい?」



……殺そうとしてたのか。まあ、そうだな、うん。よくよく考えれば、こいつは元々私を殺しにかかってきてたんだもんな。そう言う割に原作でも直接手を下そうとしたのはクィディッチの時だけだったから、すっかり失念していた。トロールの時はみんなを混乱させるためで、私を殺す為じゃなかったもんな。

ああ、なるほど──。



「お前、私に触れたんだな」

「……そうだ。いくら真夜中といえども、死の呪いほどの強力な呪文をホグワーツ内で使えば、城全体を把握しているダンブルドアに悟られる。だから君を気絶させ、直接手にかけるつもりだった。かといって、ただの失神呪文程度では君に防がれてしまうと思ってな。ダンブルドアに悟られない程度の呪いをかけさせてもらった。その結果が──これだ!!」



クィレルは鏡に向き合うのをやめ、私を振り向いた。その表情は、いつも見ていた彼とも、先ほどまで落ち付いていた表情とも違う。怒り、恐れ、嘆きを全て凝縮させたようなおぞましい形相をしていた。そして右手を見た。いや、本来右手があったであろう場所を見た。

クィレルの右腕は途中から消えて無くなっていた。ギロチンですっぱり切断されたかのように、二の腕の先が無いのだ。テストの日に見た包帯は、かくあるべき部分に詰め物をして、その上から包帯を巻いていたのだろう。



「お前に触れた途端、私の手は火ぶくれを起こし、手が砂のように崩れていったのだ!! 私の手が、私の手が!! ご主人様にお仕えする為の身体を、傷つけてしまったのだ! ああ、ご主人様、申し訳ございません!! この女の所為で、私は腕を失くしてしまった!! 私はその場から離れた。その間にも、私の手はどんどんと崩れていった! 結果私はお前を殺し損ねた。もう少しだったと言うのに!」



クィレルは、欠けた右腕を振りかざして喚いている。何気に危なかったのか、私は。つくづく、クィレルが魔法使いでよかった。そこでナイフなり拳銃を使おうという発想に至らなかったのだから。まあ、杖一本で殺せるもんね。

なんというか、ほんと、



「──馬鹿な男」



思わず、へっ、と笑いが漏れた。私は、こんな、こんな馬鹿な男に、後れを取ったのか。額の痛みを差し引きしても、私は一度、恐怖に負けている。こんな馬鹿な男の。こんな男の。

クィレルは、床に転がる私に近づいてきた。そしてそのまま、私の顔を蹴り飛ばした。ガツン、とブラッジャーが頭に当たったような衝撃が走り、私は引っくり返った。唇が切れて、口の中に血の味が広がった仰向けになって、痛みに意識が持って行かれそうになるのを、ぐっと堪える。こ、このやろう、躊躇い無く女の顔蹴飛ばしやがった……!



「いい眺めだな、ポッター。お前のような綺麗な顔を汚すのは、なんとも気分がいいものだ」

「っ、は、イイ趣味だよ、全く、ッ……」



ロリコンかよ、とは言わなかった。私は大人だ。空気くらい読める。くっそ、縄さえなければ一発ぶん殴ってるところだ、殴ったら消滅するかもしれないけど。クィレルは反抗できない私に満足したのか、また鏡のところへ戻って、鏡を調べ始めた。



「全く、理解できない。グリンゴッツへ忍び込み、トロールをホグワーツに入れたり、ユニコーンを殺したり。おまけに右手を失って、それでお前は一体何を得られる? 何が目的で奴につく?」

「お前には分かるまい。善悪について馬鹿げた考えを持つお前になど」

「へえ。偉大なるヴォルデモート卿は、どんな高尚な説法をお前に説いてくれたの? 荀子よろしく、性悪説でも語ってくれたワケ?」

「馬鹿め、世の中に善と悪があるのではない。ヴォルデモート卿は仰った。この世は力と、力を求めるには弱過ぎる者とが存在するだけだと」

「馬鹿馬鹿しい。私に破れた男が、どの口でそれを語るのか」

「黙れ!!」



激昂したクィレルは杖を振り上げた。私は呆気なく吹っ飛ばされ、壁に背中を打ちつけた。五臓六腑が引っくり返るのを感じ、息が止まった。ヒューヒューと喉が鳴るのが分かる。ついつい口が滑ってしまった。敵なんだから、あまり神経を逆なでしないようにしないと。

しかし、クィレルは奴を名前で呼ぶのか。一番の下僕であり、信頼を置かれていたベラトリックスでさえ、我が君、と呼んでいたのに。ハッ、と人知れず鼻で笑ってしまう。それだけで、この男の底が知れた気がする。この男は結局は目先の欲に溺れただけの、下僕というにはあまりにお粗末な役立たずだ。死喰い人のようにヴォルデモートに恐怖している訳でも、忠義している訳でもない。本当に──ただの、小悪党だ。こんな男に、私は負けない。額の傷はまだ疼いているが、意識は保てるレベルだ。なら平気だ。私はもう、この男に屈しはしない。



「この鏡はどういう仕掛けなんだ? どういう使い方をするんだ? ご主人様、助けて下さい!!」



クィレルが喚くのが聞こえる。その時──聞こえた。声が、聞こえた。低くしゃがれた、男の声。おぞましい、悪魔のような声を。



「ポッター、ここへ来い!!」

「!」

「早く!」



その瞬間、ぱちんと縄が弾けた。ばかめ、両手足が自由になればもう私のものだ。いつでもお前を殺せる。学習機能ないのかよ。ちょろくて助かるけどさ。自身の馬鹿さ加減が自らを殺すことにこいつは気付いてない。まあ、さっきから感情の起伏が激しいし、通常の思考ではないのかもしれないけれど。都合がいい、楽に殺せる。

この手で、殺せる。



「(殺す──か)」



この手で誰かの命を奪う──不思議と、恐怖も躊躇いもなかった。そこは人として躊躇うべき所だけれど、生憎こちとら一度死んでる身。常人とは一線を画してる。それに私は、もう死にたくないんだ。人殺しの躊躇いよりも、私は生き残る願望が強かった。まあ、人として当然だろう。それにクィレルなんか生かしてやる義理もないし、そもそもこの男は私を二度、いや三度も殺そうとしたのだ。私が一番してほしくないことをしてきたんだ、情けなんてかけてやるもんか。心優しい誰かなら、クィレルを救おうと思うのだろうか。馬鹿馬鹿しい、私はそんな情け深い女じゃない。

助けたい命もあるよ、勿論。セドリックのように、私を信じてくれる人たち、私の味方は助けたいと思う。原作通り、無残に死なせたくないと思う。だが、一度でも私の敵に回ったのなら──私は、容赦しない。そう決めた。殺意を、怒りを、敵意を向けられて、初めて分かった。漫画や小説でよくある、『敵が仲間になる』なんて奇跡は、現実には起こりえない。



「鏡を見ろ。何が映っているのか、言え」



だってこんなにも、私の中の本能が共存を拒絶している。殺そうとしてきた相手を、どんな理由があって許せると言うのか。ましてやこんな悪党、神が許しても私は許さない。大体、味方を助けるのに、自分を鍛えるのでいっぱいいっぱいなのだ。敵まで面倒見切れるか。私はハリーや他の誰かのようにお人よしではない。たった一度の情けが、取り返しのつかない物を奪うかもしれない。たった一つの情けが、全てを失わせてしまうかもしれない。

勿論、情けが私を救うことはあるだろうけれど、そんなものに救われなくとも、私は戦っていける。



「(だからね、だからクィレル──)」



お前は此処で、私に殺されて死ね。


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