30.5

その日を境に、ジェームズは文字通りイカれた。



「シリウスリーマスピーター!! さあ起きて!! ミス・グレンジャーはもう大広間だ!!」



朝も早くから名前を叫ばれ、毛布を引っぺがされる俺たちの気持ちにもなって欲しい。だが、そんな人の心が理解できるような、我らがジェームズ・ポッターではない。不平不満を溜め込む俺たちに着替えを投げつけ、さあ早くとばかりに息巻いている。ストーカーは一人でやってほしい。あとターゲットも一人に絞ってほしい。



「何言ってるんだい!!」

「まだ何も言ってねえよ」

「よくよく考えなくても分かるだろう、僕一人じゃ彼女を捕まえられないんだよ! ならば僕に残された手段は一つ、人海戦術さ!」



何も言ってないのに勝手に会話を始めたかと思えば、これである。部屋中のカーテンを全部開ける馬鹿の所為で、朝日が目に染みる。おかげで、夜型のリーマスの機嫌ががくっと落ち込むのが肌で分かる。



「君には諦めるという選択肢すらないわけかい」

「ジェームズ相手じゃそれは無理だと思うよ、リーマス……」



ピーターだけが諦めたように着替えを始める。お前はもっとジェームズの無茶ぶりに抗議していいと思う。仕方ないので、俺とリーマスでこの馬鹿を諫める。



「プロングズ、いい加減に耳を覚ませ。あの女が自分にどんな呪いをかけてるか、昨日小一時間聞かせたばかりだろうが」

「人除けの呪文からカメレオンの呪い、位置探知の逆呪いに気配殺しのルーンだっけ? 例え彼女がフィルチが目と鼻にいたって、見つかりっこないって話だろう?」



ジェームズがあいつ──アシュリー・グレンジャーにイカれた。曰く、『負けっぱなしは性に合わない』からリベンジマッチをご所望らしい。なるほどシンプルな動機だ。一年生でも分かる。問題はそのリベンジマッチを、アシュリーが全然全くちっとも望んじゃいないことだ。



『グッモーニン、ミス・グレンジャー!!』



あの日から、ジェームズは忍びの地図を使ってまでアシュリーを追いかけ始めた。とはいえ、寮が違う上にあいつは朝五時から活動を開始するので、どうしても寮の前で捕捉するのは難しい。ここ数日はいつも寝ぼけ眼で地図を片手に大広間に転がり込むのだが、ジェームズの目にあいつが映ることはない。

というのも、あの女もジェームズの我儘に付き合う気はさらさらないらしく、あいつが知る限りの隠密・隠匿術を用いて逃げるようになったからだ。特にルーン魔術の守りは鉄壁だった。ジェームズはルーン語を履修していないのが幸いしたらしい、アシュリーが横を素通りしたって、今のジェームズは気付かない。

とはいえ流石に不気味に思ったのか、先日のルーン語の授業終わりにアシュリーに耳打ちされた。



『君の友達、アレ、どうしちゃったの』

『さーな。負けっぱなしは性に合わないとは言ってたけど』

『……なぁんだ、その程度か』



あいつはそう言って、さっさと部屋から出ていった。ジェームズに興味が湧いたのかと思いきや、全くそんなことはなく。親友の思いは誰にもどこにも届かぬものだと理解した。だから俺もリーマスも懇切丁寧にあいつに付きまとうだけ時間の無駄だと教えてやったのに、全く聞いちゃいない。結局俺たちは馬鹿に引きずられるようにして大広間に連れていかれる。



「おはようミス・グレンジャー! 今日は逃がさないよ!」



誰もが振り返るような声量で叫ぶジェームズ。だが、地図の指し示す場所にあいつの影はない。スリザリンのテーブルの隅に、何故かグリーンの林檎が一つだけ置いてあり、忍びの地図上ではアシュリーの名前はそこを示している。



「位置偽装──違う、双子の呪文で位置情報だけを別固体に移したのか……! やるねえ、そうこなくっちゃ!」



ジェームズはワクワクした面持ちでその林檎を手に取る。早く出て行けとばかりにスリザリン生に睨まれながら、グリフィンドールのテーブルへ向かう。とりあえず、今日も捕獲に失敗だ。朝飯食って授業に行かないと。俺たちだって暇じゃねえんだから──。



「ポッター!! いい加減にしなさい!!」



と、今日に限って優等生サマの虫の居所が悪いらしい。厄介な奴に捕まったと思う反面、悔しいが期待も生まれた。こいつなら、この馬鹿の愚行を引き留めてくれるんじゃないかって思ってしまう。それほどまでにジェームズにとってこの女──アシュリーとどっちがいけ好かないかどっこいどっこいだ──リリー・エヴァンズは影響力を持っていたから。

エヴァンズの姿を見るや否や、ジェームズはまるで舞台俳優のように胸を張って、小さく咳ばらいをした。そういうところがエヴァンズの気に障ると、いい加減気付けばいいものを。



「やあ、ああ。おはよう、エヴァンズ」

「ポッター、私はあなたに朝の挨拶はしていないわ。いい加減にしなさい、と言ったのよ」



イライラしたようにエヴァンズは切り返す。朝からこの切れ味、大したもんだ。それを真に受けず、きざったらしく前髪を触るジェームズも大概だが。



「どうして、あの人に構うの」

「エヴァンズ、君は誤解してる。別に僕は彼女をスニベ──ああ、いや、スネイプのように見ている訳じゃない。むしろ逆だよ! 僕は彼女を尊敬している! だからこうして──」

「同じことよ!! 彼女は迷惑してるのよ、だからああして逃げているんじゃない! いい加減、あの人を追いかけ回すのは止めなさい!!」



正義の鉄槌がジェームズに下される。いい気味である。俺たちの言葉があいつに届かないのはもうこの六年の付き合いで十分理解している。説教は監督生様に任せて、俺たちはゆっくりと朝食を取ることにする。トーストにバターを塗って胃に押し込める。相変わらず、ホグワーツに戻ってから食事がどうにも味気ない。たかだトーストなのに、なんでこんな思いになるのか。

ホグワーツトップクラスの天才たちの喧騒を耳に、どこか物足りなさを感じるトーストを齧る。



「迷惑してる? 彼女が君にそう言っていたのかい?」

「言わなくても分かるでしょう!! ああして身を隠しているのだから!」

「でも、彼女自身がそう言ったわけじゃないだろう」

「なっ──」

「そもそも、僕は彼女とはまだ一言も会話していないんだよ。ミス・グレンジャーが何を思って僕から逃げ回っているか、分からないんだよ。だから……」

「だからってあんな追いかけ方はないでしょうっ!!」

「何故? 僕は彼女に杖すら向けてない!」

「本気でそう考えているのなら、あなたが紳士の国に産まれたことを心底嘆かわしく思うわ! あんなの、トロールだって逃げ出すわよ!」



ご尤もだ。あんなの、まともなコミュニケーション方法ではない。とはいえ、アシュリーが『まともなコミュニケーション方法』では接触できないように逃げ回っているので、あんな力技を使う必要があるのだが。いや、そもそもアシュリーと話す必要自体、ジェームズにはないし、アシュリーはジェームズと話す義務もない。リベンジしたいなんて私情、リリー・エヴァンズに通じるはずもない。



「とにかく! あんなやり方じゃあの人を怖がらせるだけだわ!! もっと別のアプローチ方法を考えなさい!!」



そう叩きつけるように叫んで、エヴァンズは友人たちと一緒に去って行った。残されたジェームズはまた怒られたとばかりに肩を竦めて長椅子に腰を下ろす。



「別のアプローチ? 視認さえできない相手なのに、魔法無しでどうすればいいって言うんだ?」

「一応魔法を使わないよう気遣ってたんだな、お前」

「当たり前だろう!? スニベルス相手じゃあるまいし!」

「けど、スリザリンだぞ」

「だから? 彼女はマグル生まれだと言っていたじゃないか、純血主義じゃない」

「どうだかな。純血主義は混血でも主張できる」



純血主義は、何も純血だけが唱えてるものじゃない。だったらこんな腐った主義主張が主流になるもんか。俺はあいつが純血主義者じゃないことは知っている。いや、あいつから直接聞いたわけじゃねえけど、少なくとも親ダンブルドアだ。純血主義なはずがない。だが、そんなこと知らないジェームズがどうしてアシュリーを敵視しないのか、純粋に疑問だった。



「確かに、シリウスの言う通りだよ。そりゃあ、スリザリン生全員が純血主義じゃないだろうけど、ミス・グレンジャーがそうとも限らないだろう?」

「なんだい二人して。そんなにミス・グレンジャーを悪者にしたいのかい?」

「そういうわけじゃないけど……」

「俺はルーン語なんか取ってる奴を信用できないだけだ」

「君も強情だね。……ピーター、君は? 彼女のこと、どう思う?」



もそもそとベーコンにかじりついていたピーターは弾かれたように顔を上げる。そして眉をへにょりと曲げながら、困ったように俯いた。



「僕──僕……分からない……怖そうな人、としか……」

「……怖そう?」



意外な意見に、俺もジェームズもリーマスも顔を見合わせた。あの女はどんなに好意的解釈をしても愛想がいいタイプではないが、どう頑張っても『畏怖』の対象にはならない。確かにジェームズを圧倒した杖捌きには驚かされたが、それでもむやみに人を呪うような奴じゃない。不思議に思っているとピーターが縮こまりながらぼそぼそと言う。



「わ、分かんない……そんな気がするだけ……」

「ふうん? 確かにまあ、独特の雰囲気はあるよね、彼女」

「逆に、ジェームズはなんであの人のこと……悪い人だって思わないの? シリウスの言う通りだ、あの人はスリザリンに組み分けされたんだよ!」



ピーターの真っ当すぎる意見に、ジェームズはきょとんとハシバミの眼を瞬かせるだけだった。それから腕を組んで少し考えるそぶりを見せてから、かぼちゃジュースの入ったゴブレットに手を伸ばす。



「こないだの魔法薬の授業、あっただろう?」

「ジェームズ、お忘れなら教えてあげるけど、僕もピーターも魔法薬学は落としたんだよ」

「おおっとそうだったね。そうだな、何から話そうか──」



そうしてジェームズが語るのは、今学期始まって初めての魔法薬の授業のことだった。リーマスもピーターも魔法薬は落としちまったし、俺とジェームズで向かっていた。魔法薬はスラッギーじいさんがいるからあまり継続はしたくなかったが、これほど役に立つ学科もない。あの収集家に付きまとわれるデメリットよりも、メリットの方が上回った。なので嫌々地下牢の魔法薬の教室へ向かう。教室にはスニベルスだのエヴァンズだの顔も見たくない連中がごまんといるのも、俺がこの授業を継続するか悩んだ理由の一つだ。

とはいえ、こいつらは決して馬鹿ではない。今まではトロールと賢さ比べができるような連中もいたが、OWL後に授業を継続するためには一定の成績がいる。すると必然的にそこそこオツムの出来が良い連中が残り、更にそういった連中は多かれ少なかれ勉強熱心だ。どの授業に顔を出しても、大体同じような顔ぶれになるのだから、この際誰が授業を受けていようと気にしてられなくなるわけだ。



『さーて、さて、さて……』



数か月ぶりに見るじいさんは、相変わらず立派なセイウチ髭を蓄えていた。ただ、また頭皮の面積が増えたように見える。ぴかぴかに禿げるまでそう時間はかからないだろう、ホラス・スラグホーンはでっぷり膨れた腹を押さえながら小さい黒い鍋をかき回していた。金を溶かしたような美しい色で、意思もなくちゃぷちゃぷ跳ねているのに鍋から一滴も零れない。まさか、とジェームズと二人で顔を見合わせる。



『ほっほう。流石、お目が高い』



俺たちの視線に気付いたじいさんがぱちんと茶目っ気たっぷりにウインクする。コネ作りに必死なじいさんは特別好きでも嫌いでもないが、少なくともオールダムのクソ野郎の足元にも及ばない良い教師だと思う。優秀な奴、という条件付きではあるが寮も出身も関係なく可愛がるし、出来が悪くとも悪辣な物言いをすることはない。何より、スリザリン出身でありながら純血主義の台頭に対して明確な嫌悪感を抱いている。聖二十八族の中にもまともな奴はいるんだな、と最初は俺ですら感心したほどだ。まあ、実際接してみたらただのまともなじいさんではなかったのだが、それでも臓物の腐ったような連中に比べりゃ遥かにマシだ。

何より、じいさんの授業は純粋に面白い。



『では悪戯少年たち。この鍋に煎じられているフェリックス・フェリシスの正体を知っていると見たが、いかがかね?』

『幸運の液体! 数適で人に幸運をもたらす!』

『よろしい。ではなぜ魔法使いはこれを常用しないのか、シリウス?』

『飲み過ぎると前後不覚に陥る、非常に強い毒性を持つからだ!』

『よろしい。グリフィンドールに十点ずつ差し上げよう』



にっこり微笑んで、じいさんは後ろで手を組んで教室中ぐるりと見回した。誰もが興味を惹かれた様子で金の水薬を見つめている。あのスニベルスすら、目をぎらぎらと輝かせている。唯一アシュリー・グレンジャーだけがつまらなさそうに頬杖をついているのが見えた。まさかあいつ、フェリックス・フェリシスが何か分かってねえのか?



『フェリックス・フェリシスの小瓶一本。実に十二時間分の幸運になる。明け方から夕暮れまで、何をやってもラッキーになる。無論、フェリックス・フェリシスは組織的教義や競争事では禁止されている。試験、クィディッチの試合で使ってはならない。それほどまでに強力な魔法薬であることは、諸君は理解しているだろう』



フェリックス・フェリシス──恐ろしく調合が複雑で、危険で、何より材料費が信じられない程かさむ。俺たちも試そうと思ったが、マンドレイクの声帯やユニコーンの生き血がどうしても手に入らず、やむなく諦めたのだ。この手合いは採取すら魔法省認可の『魔法毒物・劇物取扱者』の資格が必要になる。ユニコーンなど傷つけるだけでアズカバン行きだ、流石の俺たちでも、法と倫理は犯せない。

しかし、その効果は絶大。小瓶一本口にするだけで完全無欠の半日になるという。何をやっても上手くいくし、どんな不運でさえ捻じ曲げる。まさに未来に帰りたがってるあいつにこそ必要なものじゃないのか。だが、アシュリーはその説明を聞いても欠伸を噛み締めるような仕草をするだけだった。



『これを──今日の授業の褒美として提供しよう』



今やアシュリー以外の誰もがスラッギーじいさんの一挙一動を観察していたに違いない。じいさんはこうして学生を煽り、競わせるのが得意だ。恐らく、そうすることで優秀な生徒の中でも、更に優秀な金の卵を産む鶏を選別したいのだろう。今までもこうした授業は何度かあったが、景品がフェリックス・フェリシスほど高価な魔法薬は初めてだった。ジェームズですら鼻息荒くなるほどだ。



『この素晴らしい賞をどうやって獲得するか、諸君は大いに気になっているだろう。だが、いつものように教科書通りの魔法薬を──とは、残念ながら言えない。何故なら君たちはわたしが知る限り尤も優秀な学年だ。同じ出来の薬を見比べたところで、優劣はつけられない。そこで』



そうしてじいさんは急にきびきびとした口調になる。



『お題は簡単、『わたしをあっと驚かせる』魔法薬だ。性能、効能、方法でさえ一切問わない。ただ面白く、わたしの興味をそそる魔法薬を煎じた者に──この愛すべきフェリックス・フェリシスを授けよう』



それは、じいさんの授業には──というか、魔法を教える上では相当おかしな課題だった。基本的に魔法も魔法薬も、教科書に記載されているものだけを学ぶ。魔法の想像は専門家の立ち合いがなければ等しく『危険なもの』で、『何が起こるか分からない』からだ。



『無論、材料にはある程度制限をかけよう。この教室の材料棚にある物のみ使用を許可する。他者に危険の及ぶ爆発物、気化する毒物を煎じた時点で即失格だ。無論、君たち程の魔法使い・魔女だ、そんな悲劇的な幕引きにならないと信じておる』



確かに魔法薬の材料が詰め込まれている棚には、どう煎じても毒物にはならないものばかり。イラクサや乾燥ヒル、満月草、ニガヨモギ、ゆでた角ナメクジなど、『低級魔法薬』しか作れなさそうなラインナップ。だが、事魔法実験において俺とジェームズに敵う者がいようはずがない。ちらりとジェームズと目配せをする。フェリックス・フェリシスは俺たちが頂きだ。



『制限時間は一時間半。はじめ!』



その一声で、生徒が素早く教科書を捲ったり秤を手に取ったり材料棚に飛びついたりした。ただ一人、アシュリー・グレンジャーだけがのんびりと天井を見上げて何か考えるそぶりを見せていたのが、逆に不気味だった。


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