その後しばらくはマクシミリアン・オールダムの厄介さは微塵も表出することなく、無言呪文の授業が普通に行われる。理論から必要性、使い方、コツまで細かに板書を取らされた後、実戦練習となる。机や椅子が片付けられ、広い教室に杖を持った生徒たちが固まった。 「二人一組になりなさい。片方は盾呪文を無言呪文で唱えなさい。もう片方は簡単な呪いを──おできの呪いとか、鼻呪いとか、くらげ足の呪い、武装解除の呪文などで攻撃する。失神呪文のような強力な呪いは使わないように。あとでマダム・ポンフリーに怒られてしまいますからね」 いけ好かない笑みをたたえたままオールダムがそう言ってくるので、特に考え無しに俺はジェームズと、ピーターはリーマスと組む。他の生徒ももたつきながらペアを組んだところで、教室の中央にぽつりと佇む一つの背中に誰もが注目した。アシュリー・グレンジャーだ。マグル宣言と気配殺しのルーンのおかげで、こいつは恐らく友達らしい友達がいないのだろう。生徒の数を見ると、奇数ではないようだが、誰もあいつと組もうとはしない。 ……いや、一人いたか。物好きな女が。 「リリー、やめなって。あの人に何言われるか!」 「でも──っ」 優等生のリリー・エヴァンズである。悔しそうに、アシュリーの背中を見ているが、ペアと思しき女生徒に引き留められている。そりゃ関わりたくもねえだろうな。あいつはこの教室でただ一人のアジア人。自分が受ける訳じゃなくとも、目の前で当たり前のように行われる『差別』を見ていい気にはなれない。だが、言って考えを改めるような男じゃないのはさっきのやり取りで十分理解できている。ましてや相手は教師だ。お友達の腰が引けるのも、まあ分からなくはない。 「しまったな、ついシリウスなんかと組んじゃった」 お近づきのチャンスだったのに、とアシュリーを見る親友の言葉は潔く無視した。なんかとはなんだ、なんかとは。 「……ああ、君には少々酷な話でしたね。失敬」 そうしているうちに、ぽつりと一人佇むアシュリーをみたオールダムが冷たく言い放つ。改心する気ゼロかよと内心吐き捨てていると、なんとオールダムがこちらを向いた。そして、先ほどまでの冷たい視線が嘘のようにニコリと微笑んだ。 「ああ、丁度いい。ミスター・ポッター。是非彼女とペアを組んで頂けませんかね?」 突然の指名に、ジェームズの目が見開かれる。こいつにとっては願ってもないチャンスといったところ。だが、その理由が読み取れないことには素直に喜べない。俺もジェームズも顔を険しくすると、俺たちが噛み付くより先に似非紳士が語る。 「何故君なのか。答えは明白です、君がこの学年で最も優秀だからです」 「……理由になっていないと思います」 「いいえ、それが理由ですとも。最も優秀であるということは、それほど魔法に精通している。つまり、相手の力量を見て、加減する余裕がある、ということでしょう?」 「……彼女には手加減が必要、そういうことですか」 「ミスター・ポッター。これは私なりの温情であり、君たちの疑念への返答でもあるのですよ。こうした実戦練習の『トラブル』は君たちも覚えがあるでしょう? そのトラブルを未然に防ぐのもまた、教師たる私の役目です。君は少なくとも彼女と『トラブル』を起こすつもりもなさそうですし、主席に最も近い君であれば彼女を傷つけることもまたない、と判断しました」 つらつらと並べられる、正論のような何か。だが、その節々にあいつへの侮辱が秘められている。確かに、俺はあいつの実力を知らない。馬鹿ではないだろうし、少なくともルーン語の技量はまあまあだ。だが、杖を使っての実戦はどうか。長いことマグル生活を強いられていたのだ、知る由もない。 だが、不思議と確信があった。あいつは、強い。アシュリー・グレンジャーは優秀な魔女だ。それは日頃の所作から滲み出てた。毎日毎日あのつまらない顔を見てきたから分かる。あいつはそこらの魔法使いを束にしたって敵わないような奴だ、と。そんなことにも気付かず、相手を劣っていると決めつけるこいつの物言いが腹立たしい。ジェームズがローブを引っ張ってくれてなきゃ、殴りかかってたかもしれない。 「──それとも、その役目は私が買って出た方がよかった、と?」 「「だめだ!!」」 ありえない提案に、俺とリーマスが同時に吠えた。それだけは──だめだ。こいつとアシュリーを向かい合わせたら、ダメだ。どうなるかなんて、分かり切ってる。授業と称した体罰はこいつの得意分野だ。そんな下劣な真似、させるか。 だから仕方なく、クソヤロウの言うことを聞いてジェームズはあいつの元へ向かう。俺はピーターと組み、リーマスは誰ともペアになっていないグリフィンドール生に声をかけに行った。あいつの言いなりになるのは癪だが、ジェームズとしてはあいつに話しかける絶好のチャンスを与えられたわけだ。不服なんて感情をおくびにも出さずに、気のいい笑顔を浮かべている。 「よろしく、ミス・グレンジャー」 「……」 まあ生憎、相手はあのアシュリー・グレンジャーだ。よろしくするつもりがないのは俺だろうがジェームズだろうが変わらないらしい。無言で頷くだけだった。 「じゃあ、僕は君に──そうだな、武装解除をする。君は盾呪文でそれを防ぐ。いいかな?」 ピーターと向かい合い、へなちょこみたいな鼻くそ呪いを無言呪文で弾き返していると、ジェームズがなるべくゆっくりとあいつに話しているのが聞こえた。ピーター相手ならよそ見しても問題ないだろうとチラ見すると、相対する無表情は静かな顔で頷くだけだった。よほど会話をしたくないらしい。まあ、こいつ普通に英語喋れるしな。あまり喋ってボロを出さないようにしているのかもしれない。涙が出るような努力だ。どんだけこの時代に馴染みたくないんだか。 「いくよ、エクスペリアームス!」 とはいえ、相手はジェームズ。多少は加減するだろうが、学年主席の武装解除を完璧に防ぐことなんか俺だって難しい。 そう思っていた瞬間──バチンッ、と鈍い音がした。 「……?」 盾呪文を使いながら、思わず横を見た。確かに武装解除の呪文が発動した。にもかかわらず、アシュリーの手には杖が握られたまま。首を傾げたのはジェームズだったか、それともほくそ笑んでいたオールダムだったか。 確かなのは、アシュリーは今にも倒れそうなほど真っ青だということ。 「エクスペリアームス!」 ばちん、再び鈍い音。あいつは未だ無言のまま。杖はしっかと、握られている。 「エクスペリアームス!」 ばちん、再度鈍い音がする。焦ったような、ジェームズの声。今や教室中の誰もがこいつらを見ている。 「エクスペリアームス!!」 ばちん、何度目か分からぬ鈍い音がする。今尚、あいつの手から杖は零れない。完全に、防がれている。ジェームズ・ポッターの武装解除を、ろくに英語も喋れないような編入生が無言呪文で防ぎ切っている。信じられない。ただものじゃないとは思ってた。警戒心が強い猫のような奴だと思ってた。だけど──だけど。 「そんな、ことが──」 オールダムがショックを受けたように後退る。可愛い可愛い生徒が、劣っていると決めつけていたアジア人に手も足も出なかったことが信じられなかったらしい。無論、ジェームズは手加減してなんかない。加減をしたのは、最初の一回だけ。その一回で、あいつはちゃんと相手の力量を把握した。手加減してるようでは、あの女から杖は奪えないと理解した。だから本気で挑んだ。それはこの教室中の誰もが理解していた。だが、奪えなかった。それほどまでに、あいつは──強い。 誰もがジェームズとアシュリーを見ていた。アシュリーの顔は真っ青だ。自分のやったことなのに、目の前で起こったことが信じられないような顔。相変わらず意味が分からない奴だ。奇妙な沈黙が教室内に流れる中、空気を引き裂くように授業のチャイムが鳴り響き、アシュリーは誰よりも早く荷物をまとめて教室を飛び出していった。残ったのは、顔面蒼白にしたオールダムと、呆然とした生徒たち。 そして、目をキラキラと輝かせたジェームズだけ。 「──すごいぞ! あれほどの魔女、お目にかかったことがない!」 まるでおもちゃを与えられた子どものように、ジェームズは目を輝かせてはしゃぐ。杖を手に、俺の方に来てバシバシと肩を叩き、何度も何度も「すごい!」と叫ぶ。 「シリウス! 僕は初めてだよ、同じ学年で敵わないかもしれないなんて思ったのは!! 君だって負けないつもりでいるけど──信じられない、彼女は別格だ! 一体どこであれだけの魔法を学んだんだろう!!」 「し、知るかよ」 授業中も何のその、俺の肩を力の限り叩きながら興奮で鼻息荒くする親友。そんな俺の反応が不服なのか、ジェームズはむっと眉を吊り上げた。 「なんだいなんだい、君は興味ないのかい!? そこらの純血なんか目じゃないぞ、彼女は“本物”だ!! シリウス、分かるだろう、彼女は『戦い』を知っている魔女だ!!」 「だ、だったら何だって言うんだよ!」 「決まってるだろう? 彼女ともう一度勝負するのさ!」 何言ってんだこいつ。俺だけじゃない。リーマスもピーターも、オールダムまで同じことを思ったに違いない。ただ一人無邪気に騒ぐジェームズだけが、興奮気味に俺たちにとびっきりの笑顔を向ける。それはスニベルスと遊んでる時よりも楽しそうで、それでいて俺にとってはあまり面白く思えないような輝いた笑顔だった。 「負けっぱなしじゃ、ホグワーツ主席の名が廃るからね!」 ……アシュリー。何の目的があったかは知らないが、ジェームズを打ち負かしたのは凄まじい悪手だったみたいだぞ。 |