童話発売前の作品ゆえに矛盾・捏造点が多々あります。

















石造りの回廊は彼方の祭壇へと続いていました。
天井の高い教会の中は森とは違った無色透明の光に満ち溢れ、まるで天窓の硝子に描かれた一枚の画のように、重く厳粛な沈黙に塗り固められています。

列席する人々は一様に、祝福や羨望のどちらとも取り難い眼差しで私を見ており――ヴェッティン家の親族達が、一家当主の実子たる私の存在を知ったのはほんの最近のことなのです――私は此処が、かつて鳥籠と呼んだあの真白な部屋とさして変わらない場所であることを改めて思い知らされました。

白い花嫁衣装に身を包んだ私は幸せな新婦に見えるでしょうか。
近従の者に教えられた通り、回廊を歩みながら微笑みを絶やさぬように努めましたが、案の定それは無理な業であると言わざるを得ませんでした。

私の歩む先に佇んでいる殿方は、この世界で唯一愛した彼ではないというのに――嫁いでゆく幸福な侯女など、今更どうして演じられましょう。







メルツという少年は数年前、冷たい井戸の底でその生命を絶やしました。

突然のお別れをしたその日の夜、彼の幼すぎる灯火は湿った深い闇の底へと真っ逆様に突き落とされ、母君のテレーゼおばさまも魔女の烙印を押されるままに火刑台の露と消えました。

風の噂ではそのように聞かされています。私がそれを知らされた時にはもう、全てが終わった後でした。

月光のように優しい彼の微笑みは、二度と私の前には現れません。本来ならば土の下に葬られるのは私の運命であったはずでした。私はかつて侯爵家の跡目争いに巻き込まれて一度死に、けれど間もなく救われました。墓場から掘り起こされた時、既に息をしていなかった乳飲み子の私を甦らせたのは、外でも無いテレーゼおばさまその人だったのです。

私はあたたかな腕の中で目を覚まし、彼女のつきっきりの看病を受けました。おばさまの評判が「賢女」から「魔女」へと変貌した原因は恐らくその出来事でした。けれども幼い私が世間の猜疑を知るはずもなく、脆弱な灯火を保ちながらも数日間を彼女の愛に抱かれ生き長らえたその時間は、私にとってかけがえの無い過去となりました。

おばさまは物静かで感情をあまり出さない方でした。けれども深い知性と愛情とを湛えた優しい母親には違いなく、一人息子のメルツは彼女に与えられるものをしばしば「ひかり」と呼んでいたといいます。

今となっては乳飲み子の頃の記憶は朧気ですが、煎じて飲まされた薬草のほろ苦い芳香だけがまだ鮮明に残っています。
それは少し成長してから出会うことになった彼、メルツの着ていた服から薫って来たものと同じ香り。私の生命の源は、「ひかり」の記憶への既視感でした。その香りが鼻を掠める度、翼を広げた鳥のように生きている実感が心の泉から湧き出しました。其処はとても心地が良い場所でした。彼と一緒にいる時だけ、私は鳥籠のような家を忘れることができたのです。

それなのに彼はいなくなりました。

この私を復活させた奇跡こそが村人達の猜疑を呼び起こし、森に住む優しい母子を、私のひかりを、奪ってしまったのです。ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんね、メル。自分だけが生命を得て貴方達を殺したのは私。貴方を殺したのは私です。罪深い、私です。

主よ、こうして私だけが生き長らえてしまったのは、やはり貴方の、大いなる世界の作為どおりに書き換えられた筋書きに他ならないのですか。

ならば私にも理由があります。貴方への呪いを口ずさむための確固たる理由が。

声が。

言葉が。

憎しみが。

彼を失った世界に独り取り残された私は復讐を思い立ちました。
一つの歌を、彼の唇に託すことにしたのです。










始まりは墓場から。
黒き死の病を広める媒介となる鼠達。大量のそれを放ったのは、死して冷たく黒ずんだ彼の腕。

摂理の名を呪う人間が、在りし日の彼のように純真無垢なままでいられる訳はありませんから――私は彼の容姿を大幅に書き換えました。

私より少し小さかった背丈はやや痩躯な青年のそれに。赤い瞳は泥を映しすぎたためにその輝きを失い、髪や衣服にも湿気た闇が染み込んでその色を朽ちさせます。白から鼠色、やがて黒へと。声も変化させるべきでしょう。残酷な旋律を口ずさむのに相応しく、地の底で切々と響くテノールに。

傍らにいるのは小さな人形。
金色の髪に碧い瞳、幼き日の私とよく似た少女の姿をしています。ドレスだけが私の一度も着たことがない漆黒で、それが彼女に似合っているのです。
憧れの色でした。黒い衣装を身に纏ったテレーゼおばさまは、本当に綺麗でしたから。

青年と人形は歌います。



 殺セ、侵セ、奴等カラ奪エ!



勿論これは童話です。ただ幻想の世界でのみ遂行される復讐劇。
けれどもインクによって創られた世界はその形をもって存在し、誰かに見つかって焚書にでも刑されない限り永続的な生命を持つもう一つの世界と成り得ます。

其処での主は私でした。

主人公であり語り手である彼、メルヒェン・フォン・フリードホフの歌を介しながら、私は何人をも生かし、殺めることができたのです。

架空の殺戮とは言え、人の生命を自分が運んでいる感覚に私はぞくりと震えました。










主よ、貴方が望む生命とは一体何なのか。
彼以外の殿方と結ばれて子を為せと――それは勿論家の繁栄の為に、ですが結局は人の子の繁栄のために――こんな私に母になれと、この世の摂理は望むのですか。

自我の悲鳴を抑えながら私は回廊を歩みます。祭壇の上に掲げられた磔の主は黙したまま、光の中に君臨しながら私をただ見下ろしています。

主よ、こんな幸福ならば要らないのです。

私はこの婚礼を望まない。貴方の名の下に永遠の愛など誓えない。もはや背徳者となった私には、貴方の運び給うた人は愛せない。此処は違う。私が欲しいのは此処ではない。彼以外はもう、愛したくとも愛せないのです――





俄かな異変が起きたのは、教会の中央まで歩いた時でした。

足下の硬い石の感触がぐにゃりと歪み、其処から闇が――闇、と名付けるのに相応しい禍々しい黒き影が――噴き出しました。白い石畳を割り、静粛なる空気を塗り潰しながら、それは緩やかに私の体を包みます。教会の中は騒然となり、混乱の内で叫ばれる私の名を聞いた気がしましたが、それがお父様だったのか、近従のうちの誰かだったのか、知り及ぶことは叶いません。

「エリーザベト……!」

その声に答えようと口を開いた時、私は信じられないことに気がつきました。
懐かしい香りが鼻腔をついて、私の中に流れ込んで来たのです。

薬草――それは、ひどく陰鬱な黴臭さを含んだ――ひかりの記憶を呼び覚ます、懐かしくもほろ苦い香りが。





 迎えに来たよ、エリーゼ。





彼はすぐ背後に立っていました。
私の視界は昏さを徐々に増してゆき、ジャラ、と鎖の揺れる音が聞こえて、彼の腕は私を抱き締め、衣装から露出した私の肩に恭しくその顔を埋めました。

横目で見えた彼の横顔はウェーブのかかった黒髪に隠されていましたが、私はその正体を確信して、呟きました。メル、貴方ナノネ、と。

すぐ耳元で、闇が笑った気配がしました。

世界は私の意識から遠ざけられてゆきます。そうして混沌に満ちた教会の回廊を這って、侵してゆくのは夥しい数の鼠の群れ。

墓場と成り行く世界に木霊する、沢山の人間の悲鳴を聞きました。
















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