携帯電話の画面を見つめては考え、閉じては考え、開いて操作しようと指を動かしてはまた考え込んで固まってしまう。
そんな動作を繰り返す場所として昼時の定食屋は如何なものかと思ったが、幸いにも厨房からは苦情らしき声も視線も届かないので薄暗い店の片隅にメルヒェンが着席したまま悩み続ける事、小一時間。

常の如く店内は静かだった。

メルヒェン以外の客もいるにはいたが、昼時にもかかわらず片手で数えても足りるような人数に留まっていた。見た所彼等も同じ音大生で、一応この店の常連である。
顔見知りだが言葉を交わした事は無い。
そもそも互いにあまり興味が無い。
この程良い閑散具合と、キャンパスに至る裏道添いという手軽さをメルヒェンは気に入っていた。人ばかり多くて嫌でも相席になった人間との会話を強いられる大学のカフェテラスよりは幾分か居心地が良い。店主はとても独創的で……正直胡散臭いばかりの女将だが、何も無ければ静かだし近いし、食事をして休むだけの場所としては絶好の空間じゃないか。

勿論、当店自慢の肝臓料理と麦酒を目当てに真っ昼間から飲みに来る客もいれば、住み込みバイトの娘の田舎訛りが可愛いと密かな下心を抱いてせっせと足を運ぶ客がいる事をメルヒェンは知っている。
けれどもそういった他人に対して全くと言っていいほど自分の関心が向かないのは、指揮の勉強に携わる者と、まさに現在悩みの種となっている二人の女性以外に意識を対向させる余裕が残されていないからだ。
決して自分の内向的性格の所以じゃない。
――そう、決して!

「大丈夫けぇお客さん、うちの女将さんの料理以外に何か変なモン食ったべ?」

意識せず首を縦に振っていると、例の田舎訛りのバイト娘に突然声を掛けられた。

「あ、いや。別にそういう訳では」
「んだ、お客さんが顔色悪いのはいつもの事だぁ。これ、若い男の客にはサービスしとけって女将さんが」

彼女が無造作に運んで来たスープはとても良い香りがした。仕込みには何を使っているのだろう。澄んだ薄茶色の膜の上に散らされた刻みハーブも彩り鮮やかで、なかなか趣味が良いと思う。
礼を言う間もなく娘はお下げの髪を揺らしながら厨房へと去ってしまった。粗雑さもそそっかしさも彼女の一生懸命な働きぶりの一つだと思えば、男性客からの密かな人気も女将が長く彼女を雇い続けている理由も自ずと解ってくる気がする。

ちょうど食欲も沸いてきたし、一先ず問題は保留にしたい。
メルヒェンは携帯をテーブルの上に置き、運ばれて来たスープに手を付けようとした。

……しかし、リピーター確保に勤しむ女将の企みを当の客に話してしまっていいのだろうか。

苦笑を浮かべてそんな事を考えていると、突然店の入り口の鈴が鳴った。

「お邪魔するよ」

入って来たのは女将のチェックリストの最上部に名を連ねているであろう金髪の華やかな美青年。
彼が登場する度に宮廷音楽張りの派手なBGMが耳を掠めるのは幻聴だと信じたい。そして面倒なので叶う事ならば彼が自分の存在に気付きませんように。
そうメルヒェンが願うのも虚しく、薄暗い店内では即座に彼の目に止まってしまう己の白すぎる見目を憾んだ。

「やあ、指揮科のメルヒェン君! こんな所で逢えるなんて、奇遇というより寧ろ運命を感じるよ」
「それはどうも、声楽科の王子様。何故君がこんな裏通りの定食屋に一人で」
「カフェテラスは人が多くて嫌に目立ってしまうからね。ゆっくりと食事を楽しむなら《黒狐亭》は打ってつけの店じゃないか。君もそう思うだろう」

目立ち過ぎるという悩みなら君ほどじゃない。そう切り返してメルヒェンは視線を逸らし、意識をスープに集中させて露骨な無視を決め込んだが、にも構わず相手はメルヒェンの相席に座り、輝かんばかりの笑みを浮かべて此方をじっと見つめてくる。もう一つスープ皿を用意する慌ただしい音が、厨房の奥から聴こえてきた。

実のところ、彼の存在が目立たない場所などこの世の何処に在るのだろうか。

王子の呼び名で通っている彼はその美貌と甘い声色を生かし絶大な人気を博しているプロシンガーでもある。大学内外に親衛隊を多数持ち、本物の王子よろしく従者に見立てた三人のSPを連れてキャンパスの廊下を闊歩する様は、何というか、圧巻である。
確かに混雑時のカフェテラスに突然彼が顔を出したりすれば女子学生達の心臓に非常に悪いのかもしれない。その点に配慮するだけ紳士なのか、単なる傍若無人なのか。

そんな王子が所謂日陰者のメルヒェンに親しく接する理由と言えば、色白美人なら老若男女を問わずいただける特殊な性癖と、似たような家庭事情を持つ事に起因する奇妙な親近感――等と、幾つか思い当たる節があるのが非常に残念な所である。

「聞いてくれよメルヒェン。最近雪白が家で猪を飼いたいと言って聞かなくてね。何でも学校に迷い込んできた子供の猪らしいんだが、彼女ときたら殺してしまうなんて可愛そうだと言い張って、強引に引き取ってうちへ連れて帰ってしまったらしい」
「猪……」
「それをまた僕の留守中に野薔薇が見付けて調理しようとしたから大変だ。彼女も寝起きでぼんやりしていたとは言え、包丁片手にその子に迫る野薔薇の姿に雪白も気が動転してしまってね。些か乱暴な止め方をしたせいで野薔薇は指を切ってしまうし、雪白は血を見て泣き出すし、僕が帰宅してみると家の中は悲惨な状態だったよ。幸い野薔薇の怪我は大した事なく猪も無事だったけれど、雪白は暫く野薔薇と口も聞いてくれないだろうね」
「それは……散々だったな。何処から突っ込んでいいのか解らなかったが。それでその後は大丈夫なのか? 彼女達は」
「まあ、時間が経てばほとぼりは冷めるだろう。野薔薇も今は猪の事を可愛がってやってるようだから僕も安心しているよ。雪白に何度も謝罪していたし、彼女達もあれで案外仲良しだからその点は大丈夫さ」
「それは良かった。しかし成り行きで猪を飼う事に賛同している君もなかなか健やかに悲惨だな」

訳有りの家出少女と令嬢育ちの服飾デザイナーを一つ屋根の下に囲っている男。下卑た言い方が気に入らないなら、所在がない二人のお姫様を城に匿っている心優しい王子様。
恋愛感情も絡んだ複雑な事情を彼の家庭は抱えている。全く正反対の性格をした彼女達が、彼一人を巡って衝突を起こす事もしょっちゅうだ。
しかし最終的には丸く収まってしまうように見えるのが彼の家の実に奇妙な所で、こんなふうに面白おかしい苦労話にして披露してしまう王子の性格には心底感服する。尤も、有名人だけにあまり公にできる話題でもなく、披露する相手は自ずとメルヒェンのような社交の狭い人間に限られてくる。

彼と比べたら自分の周囲は随分と穏やかなものだが、とメルヒェンは内心首を傾げながら図らずも相槌を打っていた。

「君の方はどうなんだい。エリザさんとエリーゼちゃんは元気?」

自分の所に運ばれて来たスープを一匙掬って口へ運ぶと、王子はメルヒェンに話題を振った。
彼の皿と匙だけ黄金仕様である事を気にしてはいけない。たとえ女将の基準の表れと言えど、男として抗いきれない敗北感に心が折れてしまうから。

「至って平和だ。あの二人は元々姉妹のような間柄だし、何よりエリーザベトが大人だから。うちの場合、喧嘩になるような事は滅多にない――寧ろ、不和を招くとしたら原因は私にある」

そう言ってしまって、メルヒェンは全身の疲れがどっと嵩増すのを感じた。
ふむ、と王子は眉間に僅かな渋味を含めてメルヒェンに問うた。

「お悩みのようだね。せっかくの青白い肌が少し荒れているよ」
「気にしないでくれ。君と比べたら遥かに生ぬるい事情だ」
「そりゃないさ相棒。君と僕とは奇妙な親近感で結ばれた運命的な友人同士だろう。それに、愛の悩みを他人と比べる物差しなど何処にも在りはしないんだ。どんな些細に思える事でもこの僕に打ち明けてくれ。きっと直ぐに楽になる……だから、」

これこそが彼の厄介な所の一つなのだ。老若男女を問わずというのは彼の魅力に墜ちる方にも言える事で、王子の甘い囁きはそれだけでどんな相手も絆されかねない強引さを持っている。
気障もこの域に達すると立派な武器だ。彼の抱える女性問題の一因はこの声と優しさにあると言っても過言ではなく、至近距離から低いトーンで囁かれては人慣れしないメルヒェンとしては実にたまったものではない。

「さあ、話してご覧」
「っ……わ、分かったから少し離れてくれ。つくづく君の声は心臓に悪い」

慌てて俯いて顔を覆った。その指の隙間を僅かに開き、スープ皿の脇に置かれた機器に目を遣りつつ。





(……ごめん、エリーザベト)

携帯を開いて打ち込むべき番号をメルヒェンの指は覚えていて、繋がるはずの相手の留守電にどんな言葉を残すべきかも頭の中で繰り返し練習されている。

(ごめん。今週末も仕事が入った。講師からの依頼を断り切れなかったんだ。約束は来週に必ず。勿論、エリーゼには僕からちゃんと謝っておくから。本当にすまない。愛してる。君の仕事中にごめんよ。それじゃあ)

後数分で彼女の勤務先も昼休みに入ってしまう。エリーザベト本人の声など聞いたら焦る気持ちが先走り、言うべき謝罪のどれか一つを取り落としてしまうだろう。
だからこそこの時間を選んだのに、思い起こすのは留守電を残した後に押し寄せるであろう自責の念。その息苦しさをメルヒェンは幾度となく経験済みで、それが故にどうしても電話に踏み切る事ができなかった。

いっそ帰宅してから彼女の顔を見て頭を下げて謝った方がいいのかもしれない。彼女ならいつものように聖女の笑みを浮かべて許しの言葉を与えてくれるだろう。彼女なら、怒って駄々をこねる幼いエリーゼの宥め役にさえ献身的に徹してくれるに違いない。

けれどもその優しさに触れれば間違いなく次も甘える。今この思考に至っている事が既に悲劇の兆候であり、このままでは自分は必ずまた彼女達を裏切るに違いない。

というか何故自分は目の前の完璧な男に向かってこんな相談をしているんだ、情けなさすぎる。
打ち明けろと言った身でありながら、さすがの王子も些か呆れ気味の視線をメルヒェンに投げ掛けて問うた。

「君、それは一体何週目だい?」
「聞かないでくれ」
「仕事って、もしかしてあの人からの?」
「お察しの通り。病院の慈善コンサートで、彼の代理として弦楽科の学生達を指揮する役目だそうだ」
「陛下、か。だったら仕方も無い。仕事より恋人を優先する考えの無い人だ」

公演のチラシを取り出して『指揮』の欄に印刷された自分の担当講師の名前を示すと、王子は意外にも納得してくれた。
そういえば王子の所属事務所は確か陛下とコネのあるレーベルの一つである。あの講師のワーカホリックぶりをその目で見て知っているのなら、そのあっさりとした反応も当然であると言えた。

温厚で親しみやすい人柄ゆえにその愛称を持つ陛下ではあるが、世間一般の大学教授達を見習って少しは休暇を取るべきだ。今回も抱えすぎて容量を超えた仕事の一部をやむなく教え子に回してきた、恐らくそんな所だろうと王子は勘繰った。図星である。

今度無理やりにでも家に押し掛けて陛下を休ませよう。そう王子が提案すると、メルヒェンも心から同意した。

「君からの愛憎を込めた復讐だと言えば、あの人も粛々と受け入れてくれるんじゃないかな」
「君にしてはなかなかいい提案だ」
「だろう?」

うんうんと王子は頷くと、妙に含意のある目をメルヒェンに向けた。そしてにっこりと笑う。

「さて。それはいいとして目下の課題は君だ、メルヒェン。お姫様への懺悔の時間だよ」

テーブルの下から取り出した、匙を持っていない方の王子の手にはメルヒェンの携帯電話が握られていた。
画面上では発信中の文字が鮮やかに点滅している。表示された名前はエリーザベト――今は悩ましい恋人のもの。

嗚呼、鬱蒼と生い茂る森よりも深い井戸の底よりも、今自分が見ている世界は昏い宵闇に侵されている。こと女性の事に関しては味方だと一瞬でも信じた相手に、まさかこんな形で裏切られようとは。

「返してくれ!」
「勿論。彼女が電話に出た直後にね」
「この……」

焦るメルヒェンの反応を楽しむかのように、王子は携帯電話を離さないまま薄笑いを浮かべた。
席を立ち相手の腕を掴んで奪い返そうとしたところで、顔に釣り合わない王子の腕力とメルヒェンの非力とではその差は歴然としている。

「おやおや、今日の君は大胆なんだね。君の方から僕に触れてくれるなんて嬉しいな」
「ふざけていないで早く返してくれ! 余計な手出しは止めてくれ給え、これは私の問題だ」
「ふざけているのはどっちだ、メルヒェン。女性への謝罪一つでうじうじうじうじと、エリザさんはドタキャン如きで君に失望するような薄情な女だったかい」
「違う!」
「はっ、ならば君を悩ませているものは彼女に対する劣等感か。自分の情けなさを晒け出す事が、彼女に何も知らせないままでいる事よりも怖いのか? そうやって君があれこれ考え過ぎる為に彼女と話せる貴重な時間をドブに捨てている愚行、彼女に失礼だと思った事が無いのかい?」
「そ、んな事は……っ」

一気にまくし立てた王子の迫力はさすがのもので、端正な顔立ちからは話の途中で薄笑いが消え失せ、美形だけにぞっとするような無表情がメルヒェンを怯ませた。発信中の文字は画面の上で点滅を続け、彼女を呼び出す微かな電子音が沈黙の間も無機質に鳴り響いている。

自分が責められるのは尤もな事だとメルヒェンは理解する。「約束を破る」という行為に対して自分が敏感にならざるを得ない事情を王子という他人は知らない。だからこそ表面的かつ本質的な問題、すなわちメルヒェンの単純な不甲斐無さを王子という友人は指摘してくれたのだ。
こういう時は込み入った事を考えるべきでない。彼女の前で誠実でいる事を何よりも優先するべきだろう。
第三者は冷静にそう諭す。或いは其処に彼自身の経験も含まれていて、だからこそそう言える事なのかもしれない。

いつの間にか泣きそうになっていたメルヒェンの手からするりと腕を抜いて、王子はテーブルの上に放られた先程のチラシをよく読んでみるようにと言った。例の陛下に押し付けられた、慈善コンサートの告知チラシである。

「君、謝罪の方に頭が一杯できちんと読んでいなかったんだろう。『場所』の欄だ。よく目を通してみるといい」

言われた通りに其処に目を落とした時、メルヒェンははっと瞬きを止めた。

「――エリーザベトの勤務先」

考えてみれば、弦楽器の演奏が出来るような広さのある病院といえばこの近辺に一つしか無い。その名をひどく聞き慣れているのはそれが町一番の大きな紀念病院である為ではなく、そもそもメルヒェンという社交の狭い人間には、指揮の勉強に携わる者と、たった今自分が王子に責められている原因である二人の女性以外のものに意識を対向させる余裕が殆ど残されていないのだ。

嗚呼、とメルヒェンが呟くと、王子はにやりと笑って発信中のままの携帯電話を閉じてテーブルの上に戻した。

「解ったら、一刻も早くお姫様を招待する事だね。指揮棒を振るう君の姿を彼女は見た事が無いんだろう? 君は知らないだろうけれど、黒服に身を包んで音楽と対峙する君の真剣な横顔は女子学生達の密かな熱情の的になっている。ましてや、君の事を一途に愛するエリザさんなら或いは……ね」

これはチャンスだよ、と王子は例の甘い声色で囁いた。心臓が先程とは違うリズムで鼓動し始めた事にメルヒェンは気付いていたが、己の単純加減に嘆息したくなるよりも先に顔が熱くなっていた。

電子音が途切れたのはその瞬間である。長い徒労にピリオドを打つには絶妙のタイミングで、発信中は通話中に切り替わった。

『もしもし、メル? 何かあったの?』

もう迷っている時間は無い。臆病心を弁護するための粗悪な言葉の材料など、目の前にいる青年が軽く調理して平らげてしまったではないか。

慌てて携帯電話に手を伸ばしたメルヒェンを後目に王子は席を立った。後は二人でごゆっくり、といった含みのある無言のメッセージが、空になった黄金のスープ皿の上で優雅に踊っているように見えた。






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