そこにいる君、私の声が聞こえるか?
  ならば私を信じて大丈夫。さあ早く、此処から私を掘り出してくれ!



鬱蒼と生い茂る木々に囲まれて一際暗く、声の源泉は黒い円形を成していた。凝縮された濃密な闇は来訪者を待ち望み、口を開けて唄うように呼び掛ける。さあ、怖がらなくていい。

其処を目指して青年が独り、静かな歩みを進めていた。土から滲み出る水に似た、低く地を這うその声に導かれるままに。声の源泉に辿り着いた青年は、その足取りをぴたりと止める。

冷気が青年の端正な顔立ちを撫でた。真正面から闇と対峙したその面差しに、畏れの気配は微塵も表れていない。彼は躊躇なく、宵闇の口へと片腕を伸ばす。

深いくらやみ、或いは異土へ至る門――あちら側へ歩む事で、僕の《彼女》が見つかるならば。

其処へ吸い寄せられるかのようにふらりと身を乗り出せば、刹那、ずしりと重いヒトの手の感触に腕を掴まれる。



  今晩は、お嬢さん。
  君もその境界を越えてしまったのかい?



「おや、君は――」

鋭く響く哭き声と共に、野鳥が羽音を立てて梢から飛び去った。揺れる木陰の狭間から差し込んだ月明かりに、ちらちらと照らされる白い顔。見覚えのある人物が井戸の底で蠢くのが見えた。

森の中の井戸に抱かれ、少女の人形を抱いた奇妙な男。
青年と彼との邂逅はこれで三度目である。一度目は迷い込んだ見知らぬ森で、二度目は白亜の塔の聳える隣国で。いずれも彼の人生を大きく変えた姫君にまつわる印象深い場所だったが、決まって其処にはその男が現れたのだ。



  ご機嫌よう、王子殿下。
  こんな噂をご存じですか?



あれから久しい年月が経っている。にもかかわらず、男の姿はその外形を寸分違わず留めていた。闇と同化した黒い髪をゆったりと揺らし、その隙間から泥水のように澱んだ瞳を覗かせて。

「やあ、会いたかったよ。墓場の童話」

青年が彼の名を呼ぶと、遥か下方から見上げる瞳が妖しく輝いた。

「忘れてしまったのか? この僕を二度までも利用しておいて」
「いや。君の方から此処を訪れて頂けるとは光栄だ、王子殿下。君の声には艶があるから、ご婦人と間違えてしまったが」

男は悪びれない声色で自らの失礼を謝した。見下ろせば気の遠くなるほど深い井戸の底に、男の幽かな微笑の気配が湛えられる。

底に?

いや、深く追及するべきではないのだろう。ならばこの腕を掴んでいる青白い手は何なのか、と。

「それにしても、僕は何か口走っていたか? 声など出したつもりは無かったのだけれどね」

疑問に凝りを残したまま別の疑問にすり替えて問い掛ければ、婉曲した返答が男によって寄越されてくる。

「さて。聴こえたのは確かに君の声だったが。イドはこうして屍者を呼ぶが、イドを呼ぶのもまた屍者だ」

その示すところはこの宵闇の森での再会へ男と青年を至らせた過程であるのだろうか。
だとすれば、それこそ正しく彼の意図した結果へ繋がる道のはずだった。求めているものの糸口に漸く指先が触れかけた、そんな手応えを青年は確かめる。井戸の縁に掛けた片手を強く握り締めて。

嗚呼、やった。

不意に男の腕の中の人形が蠢いた。
白磁の肌を持つ彼女は初めて青年と目を合わせたが、人形ゆえにその表情から彼女の思惑を計る事は難しい。唯その一瞬、彼女の瞳に焔が宿り鈍い光を放ったのを、青年は確かに見逃さなかった。

「メル、アノ男ハマダ死ンデイナイワ。生キタ人間ノ復讐ナンテ、私達ノ専門外ジャナイカシラ」
「そうだね、エリーゼ。だが自らこの場所へ至ったという事は、彼もまた死を渇望し、或いはそれに代わる衝動を抱いてやって来たという事さ。今この腕を引きさえすれば、彼は真っ逆様に境界を越えてしまうよ」
「ダケドメル、今ノ口振リ。アノ男ノ衝動ハキット、貴方ヘノ憾ミジャナイノカシラ」
「おや、そうなのかい? 流石にそれは私も怖いな、王子様」

人形との会話を切って青年に問い掛ける彼の表情は、人の悪意を知ったばかりの子供のように愉しげだった。
青年は笑った。問われた言葉をとても滑稽に感じた様子で、声を大にして否定した。

王子が童話を憾むだって?

「まさか! そんな事は有り得ない。君にとって僕が物語の登場人物に過ぎないのと同じように、僕にとっても君は憎しみの対象たりえる存在には決してならないさ。だって、世に広く伝わる童話の数々を紐解いてみて欲しい。世の中には塔から落ちて両目を潰された若者や、呪いで野獣に化けさせられた男がいるそうだね。けれども彼等は世界を憾まず、どんな困難も克服して運命の相手を見つけ、そして彼女を永遠に愛し続けたそうじゃないか」

青年は語り始める。その表情は恍惚と昂揚感を湛え、彼もまた花嫁探しに明け暮れていた数年前と変わらない輝きを、その両の目に映していた。

「僕もまたそんな王子で在りたいと幼い頃から思っていた。だからこの僕の摂理たる君には、どんな悲劇を授けられようとも感謝さえしているんだよ――」

そう言って井戸の底に微笑みかける青年の声色はしかし、以前のように歌い出しそうな陽気さに満ちてはいなかった。

生きとし生ける全ての女性を愛でても性癖だけは如何にもならなかったし、彼女こそと思って妻にした二人の姫君も最終的には理想と違うものになってしまった。

けれどもその結果として唯一人、最愛の《彼女》を手に入れる事が出来た。
その瞬間から彼は世界を憾む事をさっぱり止めた。全ての運命が《彼女》へ至る道筋だったと考えるなら、寧ろそれを指揮した屍揮者という存在に心からの敬愛を抱きたいとまで胸に誓って。

間もなく訪れた《彼女》との別離に、復讐心が微塵も湧かなかった訳では無いけれど。

「僕はそんな事を望んでなどいない。お前なら叶えてくれるかも知れない願いを抱えて此処へ来ただけだ。メルヒェン、《彼女》に会わせてはくれないか」

語り続ける青年に、男は黙って耳を傾けていた。

青年がそれまで経験した事の無い、とても静かな夜だった。普遍的に世界に散らばるあらゆる音をぽっかりと失った森。森では誰もが盲目になれるという誰かの言葉を少年だった青年は知っていた。しかし時には聴覚までもが奪われる事があるなどと、城や書物の中でどうして知る事が出来ただろう。

旅に出なければ、こうして本物の『童話』と邂逅を遂げる事もきっと無かった。二人の姫君をめぐる物語の一部に自分が組み込まれる事も、国の為でない恋を知る事も、そしてかけがえの無い《彼女》を得て、森へ棄てるという残酷な運命に身を置く事も。

『童話』の作為は彼をきちんと導いた。時に甘く、時に苦く、されども実に予定調和な鼓動に則って。

それならば「もう一度」も在ってくれ。

青年はそう願わずにいられない。



  姫の名前はラフレンツェ。
  僕の最愛の《娘》は何処に。



そして始まる童話をどうか、もう一度始めて欲しい。始まりさえすれば王子は必然的に姫を求め、姫を見付けるだろう。
たとえそれがどんな悲劇に終わっても。
最期となることを覚悟しても。

――いや、御託はもう要らない。

娘に会いたい。

「それが僕の衝動だ。これ以上に理屈など要らないだろう? 理解してくれるね、僕の童話。娘に会わせて欲しい……お願いだ」

悲壮を帯びた青年の声は、冷気を割って周囲に響き、底へ落ちた。

片時も動かずに彼の話を聞いていた男の腕で、沈黙を破ったのは人形の少女だった。

「メル、ソノ手ヲ離シナサイ」
「どうしてだい、エリーゼ」
「コンナ男ト会話ヲ交ワス必要ハ無イワ。第一、コノ男ハ復讐スル気ガ無イジャナイ。時間ノ無駄ヨ、モット殺意ニ溢レタ屍人ヲ探シマショ」
「だが、」
「私ノ言ウ事ガ聞ケナイノ?」

束の間の沈黙があり、やがておずおずと青白い手が青年の腕から離された。

その瞬間野鳥の哭き声が彼方から聴こえ、微風がそよぎ、森が音を取り戻し始める気配を青年は感じた。無音になる以前よりも心無しか世界が賑やかになる。嗚呼夜明けが近いのだ、と青年は思った。

「……残念だ。美談というべき君の物語には何故か興味を惹かれたのだが、私のお姫様はどうやら君の事が嫌いらしい」
「会わせてはくれないのか? メルヒェン」
「申し訳無いがそれは無理だ。十三人目の賢女の呪いはとても強く、今や誰にも破る事は出来ない。居場所なら知っているがそれも言えない。君達夫婦と子供を繋ぐ可能性の全てを完全に絶つ、これはそういう呪いだからね」

『童話』でさえも口を閉ざさざるを得ないのだ。醜い老婆に変わり果ててまで貫く彼女の強い執念の前では。

本当に残念だ、と添えられた言葉に、青年は落胆を禁じ得ない様子で肩を落とした。井戸へ差し出されたままの片腕が、虚空を掴んで悲しげに揺れる。

「……そう、か。そうだな、ははっ、そう簡単に、事が済むはずは無い、な……」
「気を落とすな、王子殿下」
「嗚呼その通りだ。やはりもっと厳しい困難を乗り越えないと、僕の《娘》には至れない。そんな事も分からないで即座に君に頼るとは、全く僕は理想の王子として失格だったよ」
「………え?」
「その事に気付かせてくれた君はやはり素晴らしい。もしも女性の屍体だったら僕の花嫁にしていた所だ。かたじけない――メルヒェン、愛してるよ」

遠方で、朝告げの鶏が高く啼いた。

「キャアアアアメル、駄目! コンナ変態王子ノ言ウ事ナンテ真ニ受ケチャ駄目ヨ! コノ変態、用ガ済ンダラサッサトオ城ニ帰リナサイヨ!」
「ははっ、心配してくれなくとも、人形の姫君。僕は日が昇る前に戻るよ。野薔薇姫に良い報告が出来そうだし、雪白姫の相手もしてやらなければいけないからね」

訳が分からないらしく呆気に取られている男と、甲高い声で罵倒の言葉を吐く人形。その奇妙な取り合わせが井戸の底から自分を見上げている光景は、何故かしら青年の悲しみを少しだけ和らげた。
忌むべき場所であるはずの森の中で仲睦まじく暮らす二人の姿に、棄てた《娘》を重ねた為かもしれない。きっと《彼女》も孤独では無いと、せめてもの慰みにそう信じたいのだ。

もしも不幸であった場合は、僕が直ぐにでも救いに行こう。

「全ク、王子ガコンナ所ヲ独リデ放ッポリ歩イテンジャナイッテノヨ」
「エリーゼ、女の子なんだから言葉に気を付けないと」
「嗚呼ゴメンナサイ、メル。私ノ事嫌イニナッタ?」
「まさか。私がエリーゼを嫌うなんて、エルベの水が干上がっても有り得ない話さ」
「ウフフ、私モメルヲ愛シテルワ。アノ変態王子ヨリモズットズット――」

人形の高笑いが響く井戸を背後にして、有難うと呟いた青年は颯爽と歩み出した。

道を覆っていた闇や木立を払うのは当然『童話』の役目である。予定調和の現実に馴れきった王子様には知る由も無いが、井戸の底で指揮棒を振るう存在があるからこそ彼は無事に彼の城へ至る事が出来る。

遠退いていく足音に耳を澄ませつつ、井戸の底で男は低く溜息を吐いた。指揮棒を動かす右手は止めないまま。

「感情の起伏が激しい男を相手にするというのは、随分と疲れる事だね」
「ドウシテ人間ハ、低脳ノクセニ面倒ナ生キ物デ居タガルノカシラ」
「だがこうして見るとなかなか面白い。親に棄てられた子供の復讐なら以前手伝った事があるが、今度は子供を棄てた親の気持ちなんて、少し新鮮だったじゃないか?」
「アラ、ソウカシラ?」
「思わず口を滑らせてしまいそうだったよ。君の子供は賢女の下で、背筋が凍る程美しい娘に成長していると――」

ぴたり、と男は不意に指揮棒を操る手を止めた。



  銀色の髪に、緋色の瞳。
  森に隠れ住む賢女の子供。



その特徴を持った人間とは他に面識があるような気がしたが、嗚呼でもそれは気のせいだ、と男は独り納得し、宵闇の唄に掛けるリタルダンドを再開した。

夜が明けて、また朝が来る。
幽かな闇の気配の締め括りと共に、井戸は跡形も無く森の景色から姿を消した。

















童話とという関係




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