またあした 「うー。寒い…」 家から外に出て吸った空気が冷たい、というよりも痛い。ヒートなんとかに長袖二枚、ダウンのジャケットに、タイツ、パンツ、手袋マフラー帽子そしてブーツ。感染予防にマスクをしていても、鼻の奥が痛かった。 受験勉強の息抜きに、家から歩いて数分のコンビニに向かう。 そろそろ、センター試験が近い。昼夜逆転を修正しないとと思いながら歩く朝六時の街中はまだ暗い。毎日同じ時間のこの息抜きの買い物では、防犯のために国道を通ってコンビニへ向かうことにしている。自宅側の国道を走るトラックや自動車はまだライトを点けていて、通り過ぎるたびに私の影が躍るように現われて消える。 カイロを二個持ってくれば右手と左手に一個ずつポケットで握れるんだけど、家では使わないしなぁと毎日同じことを考えながら歩く。ご近所のアパート前に停まっている車には霜がおりていた。 おなかすいたから、肉まんかピザまんを買おう。どっちも捨てがたいと考えているうちに煌々と光るコンビニに到着する。 店内に入ると、入店を知らせる音楽が流れた。同時に、外気に触れていた顔に暖かい空気が触れる。あったかい。 特に買う予定はないけれど、雑誌のコーナーに立ち入ると、見覚えのある姿が少年漫画のコーナーで雑誌を立ち読みしていた。ずんぐりとしたシルエットの彼は、入店した私に気付いていない。真冬だというのに、部活で着ていたのだろうウインドブレーカーを肘まで捲くっている。下に何か着込んでいる様子もない。 「田所君」 近づきながら声をかけると、田所君は雑誌から顔を上げて私を見た。 「ん? ああ、久瀬か」 「明けましておめでとうございます」 かしこまって頭を下げてあいさつすると、田所君はがははと朗らかに笑った。 「おう、明けましておめでとう。今年もよろしくな」 同じクラスの田所君は、少し雑なところもあるけれど面倒見が良く、部の友人やクラスの男子とつるんでわいわいと賑やかな人だ。彼の周りには常に誰かがいるイメージだったので、今日一人でコンビニに立つ姿は新鮮に見える。来るもの拒まず相手をしてくれる広い懐の持ち主なので、毎日喋る仲ではない私でも話しかけやすい。 「どうしたの、こんな時間に」 田所君の隣に寄ると、彼の大きさがさらに実感できる。おっきくて、分厚くて、あたたかそうだ。 「ここ、早売りしてんだよ、この漫画。続き気になるやつあったからよ」 毎週水曜日発売の週間少年漫画雑誌の表紙を私に見せる。今日は火曜日だ。詳しい住所は知らないけれど、田所君のお家はここから自転車で二十分ほど先のパン屋さんだと聞いたことがある。よっぽど気になったのだろう。 「面白いの?」 「まあな。それより久瀬こそこんな時間にどうした。まだ暗いぞ」 女が一人じゃ危ねぇだろうが、と私の頭を小突く田所君は、面倒見が良いなと思う。室温に温められた頬が、温度だけの理由じゃなく火照ってくる。 「うち、歩いて一分もかからないとこだし。毎日この時間に来てるけど大丈夫だし」 「そういう問題じゃねぇから」 苦笑しながらも、心配するような口調は変わらない。優しいなぁ。 「帰り送ってくから、買い物終わったら声かけろよ」 「え、いいよいいよ。ホントに送ってもらう距離じゃないし」 ほら、あそこに見える屋根がうちだから、と言っても、田所君は譲らない。女子どもと後輩、仲間は守るものだというのが田所君の考えなのだろう。私への個人的感情だとか、そういうものは一切ない。…のは、分かっているけど、ちょっといいなと思っている男子にそんなこと言われて、舞い上がらずにいられようか。 「ごめん、じゃあまた声かけるね」 「おう」 鷹揚に笑って、私の頭をクシャリと一撫ですると、田所君は再び雑誌に目を落とした。 勉強中の眠気覚ましに噛んでいるガムと、日本茶、あとはチョコレート。これから眠るのだが、おなかがすいた。そういえば、肉まんとピザまんで迷ってたんだっけ。どっちが良いと選ぶほど片方に気持ちが傾いてはいなかったし、田所君からの申し出もありがたかったので、両方買って、田所君に一個選んでもらうことにした。 この時間にいつもいる、コンビニのお兄さんからおつりとお決まりのありがとうございましたーを貰って、また雑誌コーナーへ向かう。大きな背中が、そこにいた。まあ、棚の向こうからでも、頭一つ大きい彼は見えていたのだけど。 「田所君、まだ読み終わってないよね」 「いや、終わってる。帰るか?」 頷く私を確認して、田所君は雑誌を棚に戻した。捲くった腕はそのままに、外に出て行く。寒がる様子のない田所君に比べて、私は天国からまた地獄に舞い戻った気持ちになる。 「田所君、寒くないの」 「あー? 久瀬はそんだけ着込んでて寒いのか」 田所君は自転車競技部で乗っている姿をよく見かけた細いタイヤの自転車を押して、私の横に並んだ。見ているだけで寒いので、せめて袖を戻してくれないだろうか。 「大体の人間は寒いと思うよ、氷点下って」 「貧弱、貧弱!」 わははと笑う田所君の口からは真っ白な息。いや、田所君が強いんだと思う。 二人並んでのんびりと歩く。カシャっと鳴ったレジ袋から、肉まんとピザまんを取り出す。 「田所君、肉まんと、ピザまん。どっちがいい? 送ってくれるお礼におごる」 田所君の目の前に、白い紙に包まった肉まんとピザまんを突き出すと、田所君はきょとんとした顔をした。 「なんだ、気ぃ使わせて悪かったな」 久瀬が好きな方選べよ、と田所君は笑う。 「どっちも食べたいけど、どっちもは無理だから、片方選んでもらえばいいかと思って」 「あー、じゃあはんぶんこすりゃいいだろ」 田所君は立ち止まって、細い自転車を自分の身体で支えながら、肉まんを私の手から受け取る。紙袋を開けて、肉まんを半分に割った。二つに割れた肉まんからほわりと湯気が立った。 「ほら」 紙に包まれた方を私に差し出してきた。おずおずと受け取って、口をつける。外側が早くも少し冷えてきていたけれど、でも美味しい。 「じゃあいただくぜ」 田所君は、大きな口で、ぱくりぱくりと二口で肉まんを平らげてしまった。私が食べている肉まんよりも、美味しそうに見えた。半分の肉まんを食べながら、ピザまんを田所君に差し出す。さっきと同じように、田所君は半分に割って、やっぱり片方を二口で完食した。 「ごちそうさん」 口の端っこについていた、ピザまんのソースを舌でペロリと舐めて、田所君は私に言った。美味しそうに食べるなぁ。やっぱりいいなぁ、田所君。 再び、自転車を押す田所君と並んで歩く。左手の肉まんを食べながら、右手には田所君から渡されたピザまんを持つ。よくばりな子どものようだ。 「久瀬は、どこ受験すんだ?」 田所君が、私の歩調に合わせながら、尋ねてくる。 「地元から通えるから、前期は千葉大だけど…ボーダーぎりぎりなんだよね」 模試の評定に一喜一憂するのにも飽きてきた。 「やれることやりゃいいさ」 大きな手が、私の背中を叩く。少し前につんのめりながらも、田所君に励まされて少し心が浮き上がる。 「ありがとう。あ、うちここだから」 右手のピザまんにたどり着く前に、自宅前に到着してしまった。楽しい時間は早くすぎる、というレベルの問題ではなく、あのコンビニからうちは真実近いのだ。 「おう。…もう、暗いうちに外出すんなよ。あと一時間もすりゃ明るくなんだから」 軽い調子で言う田所君の目に、私への心配が宿っているのが分かる。 「そうだね、そうするよ。暗いうちに散歩するのが良かったんだけどね〜」 心を一瞬空っぽにできる瞬間を、他にどうやって探そう。 田所君は、うーと唸って、そして私の肩に手を置いた。袖を捲くっていて、手袋もしていないのに、私は厚着をしていて分かるはずないのに、その手が暖かいと分かったし、暖かく感じた。 「よし、明日っからこの時間にオレが送迎してやる」 「え、いいよそんなの! 朝早くて暗いし」 そして寒いし、用もないのに来てもらう距離じゃない。 「まだ暗いのに歩きたいんだろ。ロードで走れば大した距離じゃねぇし、パン屋の息子の朝は早いんだぜ」 どっちにしろ起きてる、と笑う田所君に、胸をときめかせずにはいられない。 「田所君て、たらしの才能あると思う」 「いい男はモテるんだぜ」 冗談めかしていう田所君は、私の言葉を本気にはしていないのだろう。 ほんの数十分で根こそぎ攫われた私の気持ちを、どうやって取り戻そうか。 「また、明日な」 「ありがとう。また、あした」 細い自転車に大きな身体で乗って、驚くほど早く田所君は去って行った。 あした、また会えるのか。田所君と。 鼻の中が痛いのは、変わらない。そういえば、マスクしたままだった。そういえば、頭もひっつめたまんまだったし、もちろんすっぴんだし。 明日は、もうちょっと女子力を上げないと、と思いながら玄関のドアを開ける。 右手に残ったピザまんのチーズは冷えて固まっていた。 |