夢  | ナノ


三年間の距離


 高校三年の冬休み、行きたい大学の学部と自分の学力がトントンだった私は、そこそこに勉強しつつ、受験生らしいストレスも大して持たずに過ごしていた。
「靖ちゃん、今年は帰ってきてるんですってよ」
 おはようと言った私に、全然おはやくないわよと冬休みに入ってから繰り返されているお小言を一通り並べた後、お母さんが私に言った。
「へーそうなんだ」
 アルミ缶から最近お気に入りの紅茶のバックを出しながら返事すると、私のその声の平坦さにお母さんは露骨に不満を口にした。
「靖ちゃんよ、靖ちゃん!荒北さんとこの靖ちゃん。幼なじみじゃないの、あんた薄情ねぇ」
 あくびしつつ聞き流して、ティーバックを垂らしたマグカップにポットからお湯を注ぐ。
 ふわりとわいた湯気の紅茶の香りを深く吸い込みながら思う。
 薄情なのは、私じゃないわよ。

 近所に住んでいた同い年の幼なじみの靖君は、中学で肘を壊して非行に走り、生まれてこの方15年の付き合いである私に一言もなく、遠方の箱根学園へ進学した薄情者である。推薦で女子校への推薦が決まっていた私はお気楽な立場だったから、靖君にどこに進学するのかなんて聞きづらくて、遠回しに聞いてもウルセェとしか答えてくれない靖君に強くは聞けず、結局進学先を知らないまま卒業を迎えた。最後に見た卒業式の靖君の頭にのっかってた黒いフランスパンは、おばさんの話によると夏にはなくなって短髪になったらしい。靖君は自転車部に入って、それにハマって、長期休みもゴールデンウィークにだって帰ってくることはなかった。
 当初は帰ってこないことを心配していたおばさんも、自転車の大会とかで入賞するようになってからは、リーゼントで単車乗り回してるよりもずっと安心だわ、とカラッとした様子で笑ってた。
 靖君がグレてからも、近所だったしなんだかんだ会うことがあったから、靖君の携帯の番号なんて知らなかった。そもそも私は携帯は高校に入ってからだと言われて持っていなかったし。靖君に会ったら直接聞こう、そう思っていたけれど、会えないままに1年が過ぎ、2年が過ぎて、靖君にとって私ってこんなもんだったんだなと理解しないわけにはいかなかった。

「背が伸びて大きくなってたわよぉ、男の子ってすごいわねぇ。目つきは相変わらずだったけど、ッス、なぁんて挨拶されちゃったわよ!ジャングルジムの天辺で逆立ちしようとして落っこちて両鼻から鼻血流して泣いてた靖ちゃんがスカしちゃって!!」
 聞き流しても、お母さんの話は続く。幼少期を知る存在ってやっかいだな、と思う。
「ふうん」
 ティーバックを軽く振ると、濃い紅色が湯ににじむ。持ち上げたティーバックの角から、ポトリ、ポトリ。私は、靖君よりも紅茶が美味しくいれられたかの方が気になるのだ。そうでなければならない。私ばかりが靖君を気にしているなんて、そんなの不公平じゃないか。
 テーブルの上にあった小皿にティーバックを下ろしたら、褐色がじわりと滲みでた。
「もっと興味持ちなさいよ、幼なじみは大切にしないと駄目よ〜」
 そうそう、とお母さんが立ち上がって台所へと消えた。カチャカチャ、という音を遠くに聞きながら、カップに口を付けた。いつも通りいれたのに、いつもよりも渋みを強く感じた気がした。
 昨夜は予備校で渡された志望校仮想試験問題をやったらスルスル解けて、すごく良い気持ちで眠れて、朝も自然に目が覚めて、良い朝だと思ったのに。
「昨日おばあちゃんと東京行った時買ってきたのよ」
 パタパタとスリッパを鳴らして戻ってきたお母さんの手には、フルーツパウンドケーキが一切れ乗ったお皿。
「有名らしいわよ、このお店」
 ケーキ皿とフォークが私の前に置かれた。ブランデーだろう洋酒の香りがした。レーズン、オレンジピール、クルミにスライスアーモンドが断面を彩っている。アイシングされているらしく、フォークを入れたらサクリと切れた。
「あ、おいしい」
 一口で広がった様々な香りと雑味のない甘さ、シャリリと耳の奥に響くアイシングの音。体に染み込むようなおいしさだった。紅茶を一口、そしてまたケーキを一口、と楽しんでいる私に、お母さんが声をかけてくる。
「みちる」
「なに?」
「食べたね。それ、食べたわね」
 夢中になっていたのか、ケーキに注いでいた視線を、テーブルの向かいに座るお母さんに移すと、お母さんは満面の笑みを浮かべていた。認めた途端、嫌な予感がした。
 舌に残る渋みが、また強くなったように感じた。

 見覚えのある表札の下の呼び鈴を押すと、数秒後軽やかな返答とともに玄関のドアが開いた。インターフォンもついているのに確認なく開いたあたり、事前にお母さんから連絡がいっていたのだろう。
「こんにちは!母の使いで、これ、どうぞ。昨日母が東京で買ってきたケーキです。先日は美味しいリンゴをごちそうさまでした」
 たしかお母さんと同じ年だったはずだけど、久しぶりに対面するおばさんはスラリとして随分と若く見える。
 さっき堪能したパウンドケーキの入った紙袋を差し出すと、あらー、とおばさんは切れ長の瞳を丸くした。
「みちるちゃん久しぶりに会ったらそんなしっかりした挨拶しちゃって!靖友が箱根に行ってから来てくれないから寂しかったのよ?」
「靖君いないのに来てもお邪魔でしょうし…」
「そんなことないわよー!もー大人びちゃって!ついこの前まで魔法戦士になるーって日傘振り回して、どんな流れか靖友のボールホームランして日傘折っちゃってみちるちゃんのお母さんに怒られてたのに…」
 しみじみと語るおばさんは、若々しく見えても中身はお母さんと同様なようだ。あと、本当に幼少期を知る存在はやっかいだ。その黒歴史消去して下さいお願いします。
「あ、ハハ、では、これで」
「ちょっとあがって行って!靖友も珍しく帰ってきてるのよ、会ってやって」
 おばさんは私の手から紙袋を受け取ることなくきびすを返した。
 会っていけって、靖君に会って何があるというのか。幼なじみと言ったって、三年も会わなければ他人である。
 固辞しようと口を開こうとした私をやんわりと遮ったのは、やっぱりおばさんで。
「みちるちゃん何してるの?風邪ひくから早く中にいらっしゃい」
 おばさんが、玄関のドアを開けて待っていた。
 おばさんの笑顔と、紙袋と、ついでにこのまま帰ったらうるさいであろうお母さんと。
 沸き上がるこの感情は何なのだろう、嬉しいのか怖いのか、辛いのか。
 三年ぶりにくぐった荒北家の玄関にいたアキちゃんは、以前と変わらず尻尾を振って私を迎えてくれた。

「靖友ー!ちょっと下りてらっしゃい!靖友ー!靖友!」
 おばさんが階段下で靖君を呼ぶ。けれど、階上からは何の返答もなかった。
「もぅ、せっかくみちるちゃんが来てくれたのに」
「きっと何かやってるか寝てるかですよね、会わなくても大丈夫なんで」
「そうなのよー、志望大学が洋南大?とかで、部活ばっかりだったから厳しいみたいでね、寮だと邪魔する友達が多いからって今年帰ってきて必死になって勉強してるのよ。呼んでも聞こえないんだか無視してるんだか、ごはんの時だけ下りてきて、すぐ部屋にこもっちゃって、かわいくないったら!…あ!」
 ちょっと待っててね、と先ほどやっと手渡せた紙袋を片手におばさんが奥へ消える。紙が鳴る音、カチャカチャという音が遠くから響いてくる。おばさんが向かった先は、変化がなければ台所ではなかったか。あれ、なんかさっきも似たようなことがあったような。
「お待たせ!呼んでもこないからみちるちゃんがケーキ持ってって会ってあげてちょうだい」
 戻ってきたおばさんが持つトレーには二人分のケーキを紅茶のセットが載っていた。
「私さっきこのケーキ食べてきたんで…」
「じゃあ靖友に二切れ食べさせてくれれば良いわ!」
 夕食の準備があるからと、私にトレーを手渡して、せわしなく去っていってしまった。思えば靖君がグレた時も、おばさんはこの調子だった。靖君が怒鳴っても、ペラッペラの鞄持って青あざなんか作ってきても、変わらないで笑ってたっけ。そんな人に凡人代表の私がかなうわけないのだ。
 一つ息を吐いて、階段を見上げる。きしりと小さく家が鳴っただけの、静けさ。本当に靖君はいるのだろうかと思うくらい。
 背が高くなって、目つきはそのまま、ちょっとスカした靖君なんて想像できない。口は悪いけど動物好きで、笑うと案外屈託なくて、くじ運悪くて素直じゃなくて、器用なくせに不器用で。
 でも、変わってしまったんだろう、部活で活躍して全国レベルの選手なのだと噂に聞いた。
 一方の私はどうだろう、何も変わっていない気がする。中三の時、高校三年生ってとても大人に思えたのに、全然そんなことなかった。
 トレーを傾けないよう気を配りながら、階段をゆっくりと昇る。階段の途中の壁に、一カ所、陽に焼けていない長方形があった。ここには確か、靖君がリトルで初めて試合に出たときの写真がパネルにして飾ってあったはずだ。17番のゼッケンを付けた四年生の靖君の、写真。無性にその写真が見たくなった。マウンドの上、こちらに背を向けて、左脚をあげて今まさに投げ込もうとしているその瞬間。はっきり思い出せる程に私に焼き付いているのに。それでも見たいと思うのは、靖君が今のために手放していったものだからだろう。
 その周囲より白い長方形の隣には、自転車に乗っている靖君の写真が飾られていた。野球の時みたいに大きくのばされていない10cmくらいのその写真は、おばさんかおじさんがこっそり行った大会のものなのだろう、少し遠くから撮ったのか、靖君が以前とどう違うのかはっきりと判らないくらいの大きさでしかない。ヘルメットをかぶっているから、あの髪型じゃないことは確かだけれど。
 階段を昇りきって、左奥にあるドアが依然の通りならば靖君の部屋になる。トレーを持っているから、持ったまま人差し指の第二関節でコツコツ、と小さくノックした。数秒待って反応がなかったので、もう一回。返事がなかったら帰ろうと考えたまさにその時、部屋からカタンと音がした。
「あ?ナンだよ」
 少し、低くなったんだろうか?靖君の声がして、無意識にゴクリと喉が鳴った。緊張しているのか、そりゃあ緊張するか、大して知らない高三男子の部屋に突入しなければならないのだから。
「お茶とケーキ持ってきた…んですが」
 丁寧になる口調は、二人の間に横たわった三年分のよそよそしさだ。
 バサバサと紙が流れる音がした後、目の前のドアが開いた。相手が靖君なのは分かっていたけれど、以前あった顔の位置には喉仏。やや顔を持ち上げて、眉間を寄せた靖君と目が合った。確かに背が伸びている。少しヨレっとしたパーカーにテロテロのジャージという完全おうちスタイルである。
「おばさんに、持っていってって言われまして」
 多分おばさんが呼んでたの聞こえてたんじゃんか、と思いながらトレーを持ち上げると、靖君は口を歪めながらじっとりとケーキを見つめてから小さく舌打ちした。私が来たのがそんなに嫌か、感じ悪いな。言いたいことあるなら言えばいいのに。
 どーぞとトレーを押し出しても、靖君は受け取ろうとしない。想像して欲しい、扉を開けて睨まれたままトレーを持って立ち尽くす図を。ちなみに靖君はずっと眉間を寄せたまま私を上から下まで睨みつけているのである。気まずいったらない。スリッパの中で親指を動かしながら、どうしようかなと考えていると、靖君は私に背を向けて中に戻っていってしまった。
 靖君がいなくなって見えるようになった部屋の中は、野球関連のものがなくなった以外はあまり変わりないように見える。ベッドと、その横に四角いローテーブル、本棚にチェスト、クローゼット。ローテーブルで勉強していたのか、赤本や参考書が並んでいた。靖君はテーブルの横にある座布団に戻ったようだ。
「突っ立ってねーで、入れば」
 部屋の主からの許可があっても、入りにくさにあまり変わりはなく、重い脚を引きずるようにして一歩一歩中に入る。ケーキを置く場所を作ってくれたのか、テーブルの上が半分きれいになっていた。ケーキとティーカップを二つずつ置いて、また困る。どうしたらいいんだろうか。
「誰か来るなんて思ってネェから敷くもんなんて置いてねぇーよ。ベッドにでも座っとけば」
 悪かったわね、急に来て。
 三年前なら言えた言葉も、飲み込むばかりだ。私の動向には頓着せずに、靖君はケーキを雑に四等分してガブリと食べ始めてしまった。仕方なくケーキを食べる靖君の横を通り過ぎて、ベッドに腰掛ける。
 中学の時よりも、髪が伸びた。中学で痛めた肘は、もう大丈夫なんだろうか。テーブルの上にある洋南大の赤本、学部はどこなんだろうか、どの学部も割と偏差値高かった気がする。今着てるパーカー、背中に小さな穴あいてたよ。
 思うことはいろいろあるのに、言葉にならない。フォークがお皿に当たってカチと鳴る音と、壁に掛かった時計の秒針の音が、私を急かすように響く。この部屋がこんなに居心地の悪い場所になるなんて、三年前の私は思わなかっただろう。グレてしまったときだって、ここまでの居心地の悪さなんて感じなかったんだから。
「食わネーの」
 不意に声をかけられて、びっくりして声が出てしまうかと思った。いつの間にかトレーを抱えるようにして座っていた私を、靖君は訝しげに頬杖を付きながら見ていた。視線をずらして確認すれば、ケーキと紅茶が一人分きれいになくなっている。
「家で食べてきたから。おばさんがじゃあ二切れ食べるように言ってって、言って…ました」
 フン、と靖君は鼻を鳴らした後、何も言わずに参考書を開いて勉強を再開した。骨張った右手が、カリカリと文字を綴っている。何の勉強をしているんだろう、時々参考書を確認しては、頭をガリガリ掻いているあたり、得意教科ではないのかもしれない。
 ハッとした。紛れもなく自分は勉強の邪魔をしている。予想通り、黙々と勉強を再開した靖君は私との会話を楽しもうという姿勢ではない。
 帰ろう。せっかくトレーを持っているのだからと、靖君に静かに近づいて、そっと空になったお皿とカップをトレーに載せる。
 幼なじみなんてこんなもんだよ、と心の中でお母さんに話しかけたら、想像の中ですら不満げだったので少しおかしくなった。
「…お前何しに来たんだよ」
 勉強していて私のことなんて気にしていないと思っていた靖君が、心底不愉快そうに私を見上げていた。そんなの、私が聞きたい。なんでこうなったって、流れに流されてこうなってしまったのだ。
 何も言えずに立ちすくんでいた私に、靖君は舌打ちすると、身を乗り出して私の手からトレーを奪った。少し乱暴なその動きに、トレーの上のお皿とフォークが抗議するように音を立てる。トレーをぞんざいに床に置くと、靖君は座布団からずれて横にあぐらをかいて、座布団を指さした。
「座れ」
「は?」
「座れって。聞こえてんダロ」
 聞こえてるけど、なんで急に座れってことになるんだかが分からない。その上近い。言われる通り座ったら、極々親しい間柄のそれである。けれども、じい、と私の目を見つめる靖君の目に促され、恐々座布団に正座した。あぐらをかく靖君と正座する私が向かいあい、なぜだかこれから説教される図の出来上がりだ。
「お前、女子校行ってたにしても、ネェわ」
「え、はあ、そうですか」
 気遣いが足りないとか、そういうことだろうか。ケーキのだし方とか、お皿の下げ方とか、何かマナーが悪かったりしたんだろうか。
 私の返答に、靖君は苛立ったように組んだままの脚を小刻みに揺らした。
「男の部屋入って言われるままベッド座るとか、やられてぇの?」
 あぁ、なるほど、そういうことね。靖君て心配性だったのだった。口うるさいくらいに。
「おばさん下にいるし、靖君だし、私だし。流石に他の男子の家なら気を付けてる…ますよ」
 言い募る程に、靖君の顔の凶悪レベルが上がっていくのが分かって、背筋が冷える。周囲の空気の体感温度がぐんぐん下がっていく。
「ヘェ」
 その、静かに放たれたたった一言だけで、靖君が相当お怒りであると分かったのは、過去の経験によるものに違いなく。
「す、すみませんでしたー!」
 頭を下げ両手をついて、反射的に謝っていた。静かに怒るときは、ヤバいのだ。もう二度と繰り返さないよう心底後悔するような目にあう。その回避に一番なのは、先手を打って謝りたおすことというのが、十五年で私が学んだ対処法だった。
「…なんで謝ってんの」
 いっそ穏やかな声の調子が余計に恐ろしい。靖君は、なんでと言ったか。このフレーズ今日何度目だろうか。
「…こ、今度男子の部屋にお邪魔する時は、座布団がないって言われても最初から床に正座します…」
 突いた手に顔を埋めるようにして喋ったせいで、ごにょごにょとくぐもった声が漏れ出た。分かってるよ、そうじゃないのは。けどそこが分かっていても、怒ってる理由は分からないのである。
 伏せたまま、靖君の反応を待つ。時計の秒針の間隔が、さっきとは反対に遅く感じた。
 カチ
 コチ
 カチ
 コチ
 頭上から、ため息が聞こえた。悪意を持ってやったのでない限り、なんだかんだ許してしまう、それが荒北靖友という男だった。怒りからやや諦めにシフトした靖君の雰囲気を感じとる。
「付き合ってもない野郎の部屋に一人でのこのこ行くなっつってんだよ」
「それはもちろん分かっ…あ、はい、そっか。靖く、荒北君だけ別とか、確かに迷惑だよね〜あはは」
 そういうことだったか!なるほどね!あー…そういう、ことだった、かぁ。
 心臓がぎゅぎゅぎゅと絞られるよう。痛いというか、辛い。靖君は変わったんだって心の中では思っておいて、心配してくれてるんだろうとか、図々しいにも程がある。勝手に傷つくとか、ないわーと、心のどこかの自分が呆れていた。ちょっと考えれば、彼女がいる可能性だって推測できただろうに、なんでこんなことしちゃったんだろう。もしも自分に彼氏がいたとして、数年ぶりに会う幼なじみの女の子と二人きりになったらどう思うかなんて少し考えるだけで分かる、良い気分はしないだろう。
 体を起こすと、靖君と目が合った。情けない顔をしているだろう自覚はある。靖君が私の顔を見て困ったような反応をした。
「あー…」
「ごめんなさい」
 靖君が言葉を選んでいるのを遮って、謝った。怒られるよりも、困らせる方が、なんだか、苦しい。
 帰ろう。
 膝を立てて立ち上がろうとした時、靖君が私の左腕の肘のあたりを鷲掴んだ。
「ごめんてなんに謝った」
「彼女いたら悪いことしてしまったと…」
「いねぇし」
 あ、彼女いなかった。ほっとしてしまって良いのだろうか、靖君的には不本意だろうけど。
「現在進行形で勉強邪魔してる気がしますし」
「それはあっけど」
「だから、帰ろうかなと」
 靖君、みちるのライフはもうゼロなので、追い打ちだったらやめてもらえないでしょうか。
「…オレの部屋なら、邪魔しなきゃ、良いんじゃネェの。あー、邪魔して悪かったって思うなら、コレ教えろよ」
 コレ、と示された先にあったのは、化学のテキストだった。無機化学で行き詰まっていたらしい。
「得意なんだろ」
「古典よりは断然得意ですけど」
 化学が得意な人間特有の変態的な得意ではない。でも、靖君のテキストを見た感想を言わせてもらうならば。
「丸暗記してやろうとしてるからじゃないの?そりゃある程度は覚えなきゃいけないけど、反応式の理解から取りかかっていくといいよ」
 これは、自分が学校で一度挫折して予備校で教えてもらってできるようになった実体験なので、向き不向きはあるけれど。覚えても、引き出しから出したものが何で何に使うのか分からなければ意味がない。
「例えば?」
「え?えっと…」
 テーブルに向かって再度正座したら、掴まれた左腕が解放される。代わりのように、私が説明するテキストをのぞき込む靖君の体が、私の左後ろから重なった。じんわり、その部分ばっかりが熱く火照り始める。
「こんな感じで。もしこの考え方が合うようなら化学でオススメの参考書あるんで、もう使わないやつあげますよ。お母さんがおばさんに会いに来るときに持っていってもらうよう伝えておくので」
「そりゃありがてーけど。なんでおばさんが持ってくんの」
 真剣に私の手元を見ていた靖君が、不意に私を見つめた。靖君が瞬くと、まつげが真っ黒な前髪に微かに振れているのが分かるくらいの距離で、射抜かれる。口の横にニキビがあったことを思いだしてしまって、恥ずかしくなった。隠すように顔をそらす。
 邪魔しなければいいなんて、無理じゃないか。来るだけで邪魔しちゃうんだったら、来られるわけがない。気持ちが上がったり下がったり、ジェットコースターだ。心臓がしんどい。次があったとして、やっぱり邪魔だから来るななんて言われたら、泣いてしまう。
「邪魔しないとか、無理そうだし」
「ナンでそんなとこばっかり拾って納得してんだよ!クッソ!お、…ォレの部屋なら来たら良いって意味くらい、付き合い長ぇんだから察しろよ!空気読め!敬語使ってんな!荒北君とか気持ち悪りぃからやめろ!」
 言ったと同時に、視界の端にあったケーキが鷲掴みにされる。ケーキの行方を追うように顔を移すと、靖君がケーキにかぶりついた。二口で、ケーキは口の中に消えてしまった。
 流石にこれは分かる。照れ隠しだ。沈黙も、しゃべることもできなくて、ケーキを頬張っている。不機嫌そうな顔をしているけど、それすらきっと照れ隠しだろう。
 おばさん、あなたの息子は立派なツンデレです。
「靖君」
 もごもご顎を動かしながら、目線でなんだと私を促す。
「今度、参考書持ってくる」
 冷めきっているだろう紅茶で口の中のケーキを飲み込んでしまっても、靖君はまだ不機嫌そうな顔を崩さない。それでも今は、さっきまでの居心地の悪さは感じなかった。
「靖君は私のことなんて忘れてたと思うけど、私は、勝手に居なくなってって腹立てて、考えないようにしてるのにどうしてるのかなって気になって、それが悔しいって思うなんていう不毛なことしてたよ」
 これくらいのことは、言っても罰は当たらないだろう。三年も一方通行していたのだから許してほしい。
「靖君全然帰ってこないから、携帯の番号だって聞けないし、このまま他人になっていくんだろうなと思ってた」
 今となってはこうして喋るきっかけをくれたお母さんとおばさんに感謝している。三年前ほどの気安さはないけれど、街で会ったら立ち話できるくらいにはなったんじゃないかな。
 私がそんなことを考えていると知ってか知らずか、靖君は目を眇めて私を見下ろしたかと思うと、私の頭を掴んで強引に俯かせた。痛みなどはないが、顔を上げようとしても強引に固定されて頭が動かない。
「逃げるみたいでカッコ悪くて声かけらんなかったんだよ。高校入ってからも同じ理由、今更相手されねぇと思った」
 そんなことないと反論しようとする前に、靖君の言葉が続く。
「高校でテニス部入って、ダブルスで前衛、スコート姿でよくダイブしてたから、大会とか男子校との交流会でもよくパンチラしてた」
「はぁ!?パンチラ?アンスコ履いてたけど!」
 確かに擦り傷絶えない二年半だったけど、だってスポーツだよ?アンダースコート履いてるんだよ?
「高校入って良くベプシ飲んでた、二年で悩んで理系に進んで、三年で国立クラス選択、得意科目は化学で苦手科目は古典、志望大学は今のところ県内の理学部生物科学目標、彼氏なし、バイト先の大学生に片思いしたけど彼女がいて三日で失恋、合コンに参加してみたけどノリについていけなくて二回で挫折、部活の先輩に紹介された男は会う度緊張しすぎていつの間にかフェードアウト」
「な、なっ…!!」
 なんでそんなこと知ってるの!
「母親と妹…とおばさんが会う度教えてきたんだよ」
 言葉にならない私の疑問に、靖君が答えた。三人してなにしてくれる、恥ずかしいあれやこれやが筒抜けじゃないか!
「どうせ私の女子力じゃお付き合いまで発展しませんよ…でも次は大丈夫だって言われたし」
「次ぃ?」
「受験終わったらダブルスのペアの子の彼氏が、友達紹介してくれるって言ってて…」
 私の話を聞いて会ってみたいと言ってくれた奇特な男子らしい。私の話って、どんな話をして会いたいという流れになったのかがとても気になるところだったけれど、まあいい。
 頭にかかっていた圧がなくなったので見上げたら、靖君がポケットから携帯を取り出して操作していた。
「うちの部にも誰か紹介しろって言ってる奴らがいるから、こっちと先に会え」
「靖君の部って、なんか有名なとこなんでしょ?私じゃなくても別にいいんじゃないの」
 しかも、箱根学園って共学じゃないか。共学はイベント毎にキャッキャウフフな桃色空気だと聞いたけど。うちの高校は伝統なのか、イベントは全力投球系なのでそれどころじゃない、てか女子しかいない。そもそも、靖君に女子の紹介とか頼むの間違ってるってそれくらい部活の友達なら分かっていそうなのに。
「女の幼なじみがいるって部の奴らにバレて、紹介しろって言われたんだよ」
 それは女の子紹介してくれ、じゃなくて、ただ単に靖君の幼なじみを見てみたいってだけだろう。少しは気楽だけれど、他校の知らない人と会うとかハードルが高い。
「緊張してあんまり喋れないと思うけど」
 今度会う予定の子も、私と同じで紹介されても緊張してうまく行かない人だから、既に付き合ってる二人が慣れるまでは私たちと一緒に四人で会えば良いって言ってくれたのだ。相手も緊張してると思えば少しは気が楽だ。
「オレがいるだろ。あー、番号送るからケータイ貸して」
 私の頭をクシャリと一撫でした後、その手を広げて私に差し出してくる。スマホをその上に乗せると、靖君はそれを淀みなく操作して、すぐに私の手元に返した。連絡先の先頭に、荒北靖友の名前があって、自然と口元が緩む。手元に戻ってきたスマホが、宝物みたいにキラキラしたものに思えた。
 こんなに簡単なことだったなら、私ばっかりってことに拘らないで靖君に連絡とりたいんですって、おばさんに言えば良かった。
「メールしてもいい?」
「しねぇのに交換する必要ねぇだろ」
 クシャリと笑った靖君の顔は、屈託なく。私も思わず笑った。
「今日の夕方こっち来るってよ」
「急すぎない!?」

 会うのは一人かと思っていた靖君の部の男子集団に囲まれて、靖君の背中に避難することになるなんて、今の私は知らない。
 靖君のコートの背中を握りしめたままの私を見て、靖君がくすぐったそうに笑っていたことも、まだ。






 はい、長い。
 PUPPY LOVEという曲で滾ったので、相手ツンデレで書こうと思って。
 ツンデレと言えば今泉か荒北か黒田だと思うんですよ。
 最近改めて荒北さん好きだなと思ったので荒北さん。
 荒北さんは立派にみちるさんの番犬をつとめ、一年後くらいに保護者(靖君)いると彼氏できないと気付いたみちるさんがもう大丈夫だよって言って、みちるさんがあまりに気付かないから荒北さんが番犬やめて晴れて野獣の名を取り戻すとこまで考えてたけど、長すぎて無理でした。










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