夢  | ナノ


君がいなきゃと言って欲しい



 ああ私体調が悪かったのか、と気付いた時にはもう部活開始直前だった。なんとなくフワフワするなと思っていたけれど、昨夜部員のデータ整理と資材請求の計算で夜更かししていたせいで、寝不足だからかと思ってた。
 今日は体育も移動教室もなくて、お昼は途中のコンビニで買ったたぬきうどんだったからつるりと食べて、とにかく眠くて、眠くって、うつらうつらする靄のかかった思考のまま、放課後に突入した。
 のろのろとスクールバッグを肩にかけて、教室を出る。部活頑張ってねと私の肩を叩く友達の声がやけに耳に響いた。更衣室に向かう足取りが重いのも、眠いせいだと思っていたから、眠気覚ましにエイと一息にシャツを脱いだ瞬間、不快な寒気と目眩が私を襲った。ゾワリと腕や背中が粟立ったのが分かった。袖を通したTシャツに体温を吸われたのか、再び目眩。
「なんで今日かな〜」
 自分のタイミングの悪さに溜め息をつかずにいられない。何故昨日夜更かしをしたのかって、今日の部活で資材管理をするためだったからなのだ。部員数の多い自転車競技部では、管理しなければならない資材もかなりの量あって、しかも高価なものも少なくないから、請求には神経を使う。備品が足りなくて部員のコンディションが整わないなんて論外、でも余らせるのだっていけない。代々の先輩方が積み重ねた功績で配分された学校からの貴重な援助金と部員から徴収した大切な部費なのだ。
 去年請求を担当していた先輩マネから、久瀬ちゃんだから任せられる、と引き継いだ業務だった。勿論資材請求のサブはいるし、最終的に請求許可の判断をするのは主将と部長だけど、それでも私の仕事だという、ちっぽけながらも譲れないプライドがあった。
 消耗品が殆どを占める週締めの請求は、サブについてもらっている後輩マネに任せられる。でも今日は月に一度の請求日で、選手、サポート、整備、それぞれから請求が上がってくる。予算に限りがある以上、締めるところは締めなければならないわけで、でもそれぞれは欲しいわけで、素直な後輩マネだと口八丁手八丁で言いくるめようとするお馬鹿さんがでてくるかもしれない。本当に必要ならば来月の予算を割いてでも買わなくちゃいけないし、充足してるなら請求は0だって構わないのだ(まずあり得ないけど)。
 お金が絡む分、責任は重い。サブに任せて何かあったらと考えると、まだ彼女に責任を押し付ける訳にはいかない。
 咳はない、喉の痛みも、下痢も吐き気もない。うつす心配はないだろう。
 長袖のジャージに腕を通して、大きく一つ、息を吐いた。
「よし、行こう」
 細々したことが得意だったし、誰かの役に立てることが嬉しかった。久瀬ちゃんだから、と、憧れて止まない先輩マネに言われた時、どれほど嬉しかったか。それまで、私じゃなきゃいけないことなんて、一つもなかったから。

「久瀬」
 トレーニングルームで、タイムを測っていた時だった。部活はアップが終わってからあまり時間は経っていなくて、部屋の端の方ではホワイトボードで外練のルートを確認している二年生たちの姿も多く見られた。
 声のした方を見ると、壁沿いに置かれたベンチに腰を降ろし、タオルを肩にかけた荒北の姿があった。汗を滴らせて息を整えている荒北の表情は何故だか苦い。今私が付いている新開の前にタイムを測っていたのは荒北で、彼はシーズンベストに並ぶ数字を叩き出したというのに。
 私が視線だけで続きを促すと、荒北は口をへの字にしながら右手で私を呼んだ。こっちへ来いと言うことか。荒北は普段部活中にお喋りをするタイプではないから何か重要な用事があるのだろうけれど、あいにく今私はここを離れられない。
 新開をペンで示した後、ドリンクを配っているマネージャーを示して、暗に手が離せないからあの子に頼んで欲しいと伝える。荒北に触発されてか、新開のタイムも今のところ上々だった。横でゴチャゴチャ喋って新開の集中力を切らせたくはない。視界の端で荒北が立ち上がり、私が言ったマネージャーに向かって歩いて行ったのが分かる。
「あと3セット」
 笛を短く鳴らしてから私が言うと、新開のペダルを回すスピードが 緩んだ。手元の板に書き込むタイムと距離は更新ペースだ。インハイメンバーの調整が順調で何より。
 に、しても。暑い。グラグラと茹でられているようだ。額の汗を拭って窓の外を見れば、案の定日の光は強い。今日は外練担当じゃなくて良かったと思うべきか。
「あと20秒」
 新開がボトルを呷るのを何となく見ていると、腕を控えめに叩かれた。振り返ると、心配そうな顔をした後輩マネと、不機嫌そうな荒北が立っていた。彼女はごく小さな声で代わります、と言って私に手のひらを差し出してきた。言葉通り交代しろということなのだろうが、ここまで付いたのだから最後までやってから交代したい。
「新開終わったら代わるから」
 マネージャーの下がった眉に心苦しいものを感じながら断ると、荒北は小さく舌打ちして私の手から記録板とストップウォッチを強引に奪い取って、後輩マネの手のひらに乗せた。自分のトレーニングと福富のことにしか首を突っ込まない荒北にしては珍しく強引だ。
「もしかして請求の件で話あるの?ちょっと待ってって」
「うっせ」
 荒北は私の二の腕を鷲掴むと、トレーニングルームから外へと私を引き摺り出した。あと5秒です、と言う後輩マネの声が耳に届いたとほぼ同時に扉が閉まった。そのまま引き摺られて隣にある部室に入り、いつからそこにあるのか定かでないスプリングの弱い三人掛けのソファに放られた。ソファがギシギシと鳴く。強かに尾てい骨を打って痛い上に、急に頭が動いたせいかクラクラした。
 腰をさすりながら荒北を見上げると、相変わらず不機嫌そうな彼が私を見下ろしていた。その顔は私がしたいし、するべきだ。
「あそこじゃできない話なの?」
「調子悪りぃんだろ」
 荒北は言ったかと思うと、いつから持っていたのか、スポーツタオルを私の顔に被せた。視界が白いタオルで遮られ、届いた洗剤の優しい匂いに心が和む。
 まさか気付かれるとは。さすが自転車競技部のオカンこと荒北、目敏い。しかし、今日は帰るわけにはいかないのだ。
「そ、そんなこと言って、私の色気にやられたんでしょ!襲うつもりね!きゃーえっち!」
 タオルを胸元に引き寄せ両手で握りしめてわざとらしく茶化せば、この手の話でからかわれるのが嫌いな荒北なら怒って何処かへ行ってしまうと思ったのだけど。
「…言ってて虚しくなんねぇ?」
 私と目線を合わせるようにヤンキー座りになった荒北の目は、呆れていた。誤魔化すのは無理らしい。なんでばれたんだろう。やっぱり汗か。気合いでとめるべきだったのか…無理だ。
「今日久々に大物買うかもなんだよね」
「フゥン」
 なんてつれない反応だ。今日の部活後各部署の代表と私、主将、部長とで話し合いがある。前々から要望のあったトレーニングルームに入れる器械購入の検討をする予定で。
「迷惑だから帰れ」
 荒北が、素っ気なく言った。素っ気なかった分、ガツンと響いた。
 何か言い返そうと思ったけれど、荒北の言ったことは全くもって正論で、一言も発することは出来なかった。咳もないし消化器症状もないから大丈夫だろうなんて、勝手な自己判断だ。うつってしまったら、選手にとって大切な夏を潰すことになりかねない。
「ごめん、帰るわ」
 胸に重くのし掛かる暗い感情は、自己嫌悪だ。私でなければいけないんだと、そう思いたかったばかりの自分への。
 握りしめてしまったせいでくしゃくしゃになったタオルで顔を隠して、立ち上がる。そのまま退散しようとした私は、再度二の腕を強い力で握られた。
「アー、さっさと治して、さっさと帰って来いよ。業務滞って迷惑だからァ!!」
 荒北が、ぶっきらぼうに言った。何時もの調子となんら変わりないその口調。だけど、ジワリにじみそうだった涙は驚きで引っ込んだ。私が慌ててタオルを除けて顔を上げるのと、荒北が私の腕を離して背を向けるのはほぼ同時だったらしい。荒北は大股で、そして早足で部室から立ち去ってしまった。まるで、逃げるように。バタンと乱暴に閉まった扉が、何故だか愛しい。
「面倒臭がりな割にお節介だよね」
 届かないことを知りながらも、きっと照れ臭くてここには居られなかったのだろう、さっき見たヒョロリと広い背中に、心の中でお礼を言う。
 ありがとう。私が一番欲しい言葉をくれて、ありがとう。
 実際に業務が滞って欲しい訳じゃない。私がいなくても、箱学という順調に回り続けて欲しいけれど、私の存在も必要だと思って欲しかった。我儘だった、私のちっぽけな欲求を満たすためだけの。
 それを、ほんの数秒で溢れる位に満たした荒北は、多分私の愚かさなんてお見通しだったに違いない。
 自然と笑みがこぼれる。荒北が見たら、笑ってねぇでさっさと帰ってさっさと寝ろよ馬ァ鹿!!なんて怒鳴るに違いないと思ったら、身体の熱が少し上がった気がした。






荒北君に理想を押し付けている自覚はあるんですよ…
でも荒北君はいい男だから大丈夫。
うん。










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