手のひらの熱 裕介君と私の付き合いはかれこれ15年になる。断っておくならば、彼氏彼女という関係ではない。世間一般に言う幼馴染というやつだけれど、その言葉を使うには少しためらいが生じる。何故ならば、私と彼は年に一度会うだけの間柄だからだ。 互いの親が仕事での付き合いがあり、冬になると大きなコテージを借りて、家族ぐるみでウィンタースポーツを楽しむというのがお決まりだった。 正直、インドア派の私にとって苦行以外の何物でもないイベントだ。でも、私と同じように裕介君も外での遊びには興味が無いようで、室内で暖房にあたりながら各々本を読んだり、コテージに置いてあるオセロをやったり、雑談したりして過ごすのがいつものことだった。 高校に入って、緑?の頭になったときは驚いたけど、彼の性格に変わりはなくて、少しぶっきらぼうで不器用な、優しい男の子のままだった。 そして、今年。同い年の私たちは高校二年生になっていた。お互い末っ子で、社会へ出た上の兄弟たちがこのイベント事へ顔を出さなくなって久しい。昨日の夕食の場でお母さんから言われた、「貴方たちももうすぐ来なくなってしまうんでしょうね」というさみしげな微笑みに、ハッとした。 たとえ一年に一度とはいえ、幼少からの付き合いだからか一緒にいて居心地が良いし、それなりに仲は良い、と思う。 けれど、千葉と東京という高校生にとって決して遠くはない距離に住む私たちは、雪山のコテージ以外で会ったことはなかった。携帯の番号すら、知らなかった。コテージに電波が入らないことを知っていたから、到着と同時に電源ごと切ってしまっていた。 そうか、このままいくと、私たちは他人になってしまうのか。そう思ったら、悲しくなった。 このまま、プツンと関係が切れてしまうのは、嫌だ。 「裕介君は、休みの日とかって、何してるの?」 暖炉の前、フカフカのラグの上の二人掛けソファに並んで座って、暇つぶしにとオセロをしていたときだった。いつも通り、両親はスキーへ出かけていた。ついでに温泉に寄ってくると言っていたから、帰りは夕食近くになるのかもしれない。 「ロード、と整備とグラ…雑誌読んだり…ショ」 パチン、と置かれた黒に、幾つかの白が返された。うわ、また角とられる。 盤面は圧倒的に裕介君優勢だ。チラと裕介君へ視線だけ向けると、少し困ったように笑って、角はみちるにやるよ、と言った。いや、角が欲しかったわけじゃないんですよ。 「そうじゃなくて…その、遊んだりしないの?」 遠出してみたりとか。ロードバイクで東京に来てみたりとか。 「今は遊びよりロード…趣味がロード…んな感じっショ」 そうですか。彼の毎日はロードバイクに染まっているようだ、分かっていたけど。 パチパチと暖炉の中で枯れ枝が小さく爆ぜて鳴いている。二人で過ごす時間は大抵静かだ。 「裕介君は、来年も、来る?」 白を打って、幾つかの黒をひっくり返しながら私は問うた。 裕介君は、驚いたようだった。それはそうかも知れない、今まで来年の話なんてしたことはなかった。 しばらくの後に、裕介君は溜め息をついた。パチリと黒を打ちながら。 「…来年は、多分、来ない」 約束通り、裕介君は角をとらずに別の場所に黒を置いた。一つずつ言葉を区切りながら、一枚ずつ白を返す彼の荒れた指先を、黙って見つめる。冬場の練習のせいで、ハンドクリームを塗ってもあまり効果はないのだと言っていたのを思い出す。春になれば、この白くて細長い指は、柔らかさを取り戻すのだろうか。 今年が最後。そうなのか、と思ったより簡単に、私は裕介君の言ったことを受け止めた。ここまでは、覚悟していたことだった。 さて問題は、ここからだ。どうやって、今更外で会おうと切り出そう。 なんでと問われたら、どう答えればいい。会いたいから、それだけの理由が果たして裕介君に通用するのだろうか。 「みちるは来年どうする?」 「私も、卒業かな」 寂しいけど、と心の中で呟いた。 裕介君の言葉に甘えて、角をとらせてもらう。 「裕介君」 「みちる」 同時だった。盤面に注いでいた視線を裕介君に向けると、思いの外近くに彼の顔があって驚く。裕介君の柔らかく垂れた瞳に、間の抜けた私の顔が映っていた。数秒、沈黙が落ちる。お互いに言葉を待っているのに気付いて、私が口を開こうとしたとき、裕介君が私の唇におもむろに人差し指と中指を当てた。 「卒業の理由は彼氏ができたから、とか?」 ゆっくりと瞬く裕介君の長いまつ毛の下の瞳の色が、熱を帯びる。私に聞いたくせに、二本の指が離される気配はない。唇を動かそうとしたら、より強く指の腹が唇に押し当てられた。聞きたいのか、聞きたくないのか、彼の思考を読み取ることは出来なかった。触れ合う部分が、熱を持って脈打つのがわかる。仕方が無いので首を振ったら、裕介君の指が離れた。 「彼氏いないし。それに、私、来年も裕介君に会いたいよ。ここじゃない何処かでも」 遮られて言えなかった分を告げたら、裕介君は瞳を細めた。 「オレも」 短い言葉だったけど、確かに届いた、私と同じ会いたいという意思表示。嬉しくてつい笑うと、裕介君は薄い手のひらで、私の頬を撫でた。耳の後ろから顎を辿るようにして滑る温度の少し低い肌の感触に、皮膚が粟立つ。戸惑いながら見上げた裕介君は、知らない人のように見えた。裕介君が、屈むようにして私に顔を寄せた。彼の肩から髪がサラサラ流れて、ふわりと香水の様な匂いが届く。 「みちる」 大きな声じゃなかったのに、耳に感じた吐息で、触れそうな程の近距離で囁かれたのが分かった。密やかな笑みすら浮かべていそうな声色が、今まで知っている裕介君と重ならなくて、不安になった。 同世代の男の子に、こんなに近くで触れられたことはなかった。友達がカッコイイと騒ぐ先輩やアイドルにも、あまり興味が湧かなかった。彼氏つくったら、と言われて合コンに連れ出されるたびに思い浮かぶのは裕介君で。この人より裕介君の方が、きっと自転車速いし。裕介君の方が、口ベタだけど優しいし。裕介君の方が、ちょっとくせはあるけど味わいのある顔をしてるし。裕介君の方が、裕介君の方が。 頭の中が、裕介君ばかりで、溢れてしまいそうで、とにかく一度離れないとと思った。 けれど離れようとしたのが分かったのだろうか、私がそうするよりも先に、裕介君の長い腕が背中に回された。驚いて身体が動いた拍子に、二人の間にあったオセロがラグに落ちた。毛足の長いラグに吸収されて、大きな音はしなかった。 「オセロが…」 相当混乱していたんだろう、私はその状況で、落ちたオセロを拾おうと手を伸ばした。私の指がオセロに届く前に、荒れた長い指に私の指は絡めとられてしまう。絡みつく乾いた指先が私の手を撫でる度に、ざわざわとした。 「裕介君?」 尋ねた途端、背中に回っていた腕に抱き寄せられて、裕介君の胸元に顔を埋めることになった。さっきも香った、良い匂いに包まれる。いつもと変わらない匂いに、がちがちに強張っていた身体が緩むのが分かった。この匂いは、裕介君の匂いだ。安心していい、裕介君の。 力を抜いて、裕介君に寄りかかると、彼は嘆息した。 「ここにはオレと、みちるだけしかいない…って分かってるショ?」 弾けるような勢いで見上げた私を、裕介君は眉をいつもにも増して下げて見下ろしていた。 パチン、と暖炉でまきが爆ぜる。そちらに気を取られた私の耳に、屈んだ裕介君の唇が押し当てられた。 「安心するなよ」 囁かれた裕介君の熱に当てられたかのように、身体中が熱を持って火照る。裕介君は私の耳介を食んで、やんわりと歯をたてた。ゾクリとして肩が跳ねた。 絡んでいた指が外されて、少し低い温度の手のひらが首の後ろに触れた。 「オレに安心するな…ショ」 吹き込まれる言葉に嘆きが混じっている気がした。なんでだろう、私を安心させてくれるのは、裕介君だけなのに。 「でも、裕介君は私の嫌がることしないって、分かってるから」 外に出るのが面倒だとか言いながら、私に付き合ってくれていたことだって知っている。裕介君の胸に鼻先を擦り付けると、彼が唸るような声をだした。 「オレは試されてんの?誘われてんの?」 「私が、裕介君を好きだってことです」 言ってしまった。ついに言ってしまった。両腕を裕介君の背に回して抱きつく。 「みちる」 そろそろと触れるだけの手のひらが、首筋から背中を這い回る。かさかさと布の擦れあう音が、なんでか恥ずかしい。 名を呼ばれても顔を上げられないでいると、裕介君の両手が私の頬を挟んだ。決して強引ではないその手に促されて裕介君を見上げると、いつもよりも色の濃い瞳とぶつかった。綺麗だなと思っていると、その瞳が伏せられてしまって見えなくなった。徐々に近づく裕介君の、左目の下の泣きぼくろを見つめていると、唇に柔らかいものが触れた。裕介君は何度か繰り返した後、閉じていた目を開いた。まつ毛が触れ合いそうな距離で見つめ合う。 「嫌じゃなかった?」 返事の代わりに微笑むと、裕介君も笑った。 「嫌なら言えショ」 また重なった唇の間から、裕介君の舌が割り入って、私のそれを撫でる。頭の中に響く音と感触に翻弄されているうちに、私はソファに横たわっていた。 「好きだ」 触れるだけの口づけとともに囁かれた告白を、聞き返すことは出来なかった。ワンピースの裾から忍び込んで私の脇腹に直に触れた、裕介君の右手がジワリと熱い。更に顔が紅潮するのを自覚しながら裕介君の顔を見やると、彼の眦も仄かに染まっていた。 恐る恐る触れた彼の紅い眦と、震える私の指先は、同じ熱を孕んでいた。 巻ちゃんて常にエロい雰囲気だけど、最中も相手にどこまでも優しくあって欲しい。 |