Legend of ANUBIS
暗黒の世界。全てが黒に覆われた世界は終わりの世界。疲れ果てた魂が終わりを迎える世界。聖なる御霊が堕とされ、邪なる意識が芽吹く世界。
最後の審判。
輪廻を巡り巡って再び巡る。善き魂の旅はまた続き、悪しき魂の放浪は終焉を迎える。
冥府の管理者は魂の判官。
彼の許し無くして冥府への道は開かれない。
彼の赦し無くして魂の平穏は訪れない。
理は壊れた。聖なる御霊は彼岸に吼えた。邪なる意識は此岸に啼いた。
現世と常世を包む膜は破けた。
今や魂は、3つの世界を管理者の意思を無視して渡るようになった。
管理者は嘆く。孔が塞がらぬ。世界が揺らぐ。諍いが終らぬ。
「なんと嘆かわしい事か。アメミットの裁きを拒むばかりか、天秤に電子核を乗せる事さえ拒む魂が増えてゆく。天も地も我が忠告を省みぬ。なんと嘆かわしい事か」
ジャッカルの神――アヌビモン――は頭を抱えた。
天界と冥府、それぞれの住民同士の戦争が続いた結果、冥府――ダークエリア――と現世――デジタルワールド―― を隔てる壁に亀裂が生じてしまった。以前はアヌビモンの判断によって開かれていた次元を繋ぐ穴、それが独りでに開くようになっただけでなく、違法通行の横行や戦争の激化の原因にもなった。
空間レベルの問題は当然リアルワールドにも影響が及び、リアライズとデジタライズが素人にもノーリスクで可能になる始末。
アヌビモンはこれらの対応と魔王軍からのクレーム対応に追われ、疲弊し切っていた。
やがて冥府の管理者は決意する。
「私は……ラップの道を行く」
「はぁ?」
アヌビモンの部下であり、ダークエリアの門番でもあるケルベロモンが間抜けな声を上げた。
アヌビモンがあまりにも威厳たっぷりに言うので、ケルベロモンは本当にアヌビモンの発言かを疑った。しかし、その声を数千年間聴き続けたケルベロモンは確信せざるを得ない。今の頓珍漢な発言は、アヌビモンのものであると。
「最早秩序も自浄作用も喪われた。最後の審判も名ばかりの儀式と化してしまった。なればこそ、死者の導き手たる私が採るべき道は唯一つ……。我がエジプティアンリリックとソウルに刻まれたビートオブヘルを解放する。そのためには生者の国、昼のデジタルワールドへ行かねばならぬ」
ケルベロモンは両肩の2つのアーマーと顔を見合わせた。三頭三様の困り顔は彼の深い困惑を表している。
「あの、裁判長殿は何をおっしゃるので?」
今代のアヌビモンは勿論の事、歴代のアヌビモンが田舎の中学生の妄言染みた言葉を遺して出奔したという話は聞いた事が無い。アヌビモンの部下は殆どが彼と共に悠久の時を過ごして来たが、アヌビモンのこのような姿は誰の記憶の中にも無い。きっと先代アヌビモンの部下の記憶にもない。
「嗚呼、聖地の主人よ。貴方様はお疲れなのです。如何なる善行も悪行も貴方様を揺るがす事は無かった。此度の争いはそんな貴方様の崇高なる意思でさえ疲弊させる程に長く、厳しく、醜い」
「私はこの数千年、霊魂を安らぎの国へと導く事を第一に勤めてきた。だが、その胸の内にはラップ魂――ソウル――を秘め続けてきた」
「お聞きやがりください」
ケルベロモンが敬語混じりの悪態を吐くが、アヌビモンは意に介していない。というよりもケルベロモンの発言全てに聞く耳を持たない。
「思うに、最後の審判のためのシステムが消えつつあるのは、救いは死した魂ではなく生きる魂のためにこそあるべきとされたからだろう。なれば、死者の導き手たる私は生者のための導き手となろう。その手段こそがラップなのだ」
縦に長い手と3本の指で、ターンテーブルを回す真似をするジャッカルの神。それはラッパーじゃなくてDJの仕事では? ケルベロモンは進言したい気持ちを必死に堪えた。
「時に、人間は休暇の多い仕事場を『ホワイト企業』と呼ぶ。私もホワイト企業に倣い、汝らに休暇を与えよう」
「社員を路頭に迷わせる企業はブラックです」
「いざ行かん。ヒップホップの聖地へと……」
「お待ちください! 心の底からお待ちやがりください! では、死後の裁判は一体誰が……アヌビモン殿を除けばそれが出来る者がおりませぬ!」
「ダークエリアに住まう吸血鬼の王、グランドラクモンに任せると良い。彼の王は我らのように悠久の時を生きてきたと聞く。その叡智に頼」
「その王様、刹那主義者の快楽主義者と聞きますが」
気まずい沈黙が流れる。
アヌビモンは犬のそれのような顎に手を当て、ほんの数秒だけ考えてからこう言った。
「なれば、土神将軍を名乗るグラビモンに任せると良い。名うての軍師であり、神獣型の部下も多いと聞く。開ききった時空の扉の対策も」
「その将軍も快楽主義者で自己愛が強いと聞きます」
更に気まずい空気が場を淀ませた。ケルベロモンの三つ首は「だからね、もうやめましょ?」と声無き声で主に語りかける。
「私がラップに傾倒するのも快楽のため。その快楽を他者に伝搬せしめんとする我が魂は快楽主義者と何が違うのか」
「そんな説得力欲しくなかった」
ケルベロモンが嘆き、目を閉じた瞬間を主は見逃さない。黄金の翼を広げて地の底から天に向かうための羽ばたきを始める。
「プルートモンは冥界の神としての性質を持つという。冥界の神の後任として同じ冥界の神ほど相応しい者はいまい。彼の神に任せると良い。ヴァルキリモン達によろしく頼む。さらば」
「あ! あ、ああー……」
アヌビモンはダークエリアの外、リアルワールドにおけるヨーロッパのような町へとやって来た。
市場の中をスキップしながら行く冥界の神。彼は仕事でしか来られない『こちら側』の世界を堪能していた。
「買い物は終わった。いよいよHIP-HOPの本場へ向かう時が来た」
彼は町の中心部、円形の広場へと足を踏み入れた。買い物袋の中には、灰皿、シルクハット、ギターケースなどの何かしらの「入れ物」が詰まっている。買い物袋はピラミッドパワーの応用で作られているので無理が利くようだ。
町の中心の円い広場のその中心、大きなナラの木の根本に腰掛けて『袋』の中身を地面に並べる。ストリートライブスタイルだ。冥界の主人は形から入るタイプらしい。コインを集めることは彼の目的ではないのだが、形から入るからには必要なのだろう。きっと。
アヌビモンは獣の指を器用に鳴らし、ビートを刻み始める。
「Yo, Yo, Yo, Yo, 今から伝えるエジプト魂、言うなりゃ砂漠の砂嵐ィ」
何事かと通行人が集まってくる。誰も彼もがヒップホップに興味を……持っていそうにない。
「冥界の掟は単純明快、悪漢送別気分は爽快」
アヌビモンという大変珍しい種族が、リズムに合わせて駄洒落を披露している。観客にはそう見えた。というより、観客のその指摘の方が正しかった。
「あのアヌビモン、斬新な瞑想の仕方してんなあ」
「あのお経、前後の文が繋がってないぞ?」
ある者には瞑想をしているように、またある者にはお経を上げているように見える彼のエジプティアンラップ。
未だ誰の心にも響いていないのか、ギターケースも帽子も灰皿も空のままだ。
聡明な読者の皆様はお気づきだろうが、ヒップホップはラップだけでは成り立たない。そしてとっくにお気づきだろうが、このアヌビモンのラップは大して上手くない。更に更にお気づきだろうが、ここはヒップホップの本場でもなんでもない。ダークエリアの出口と近かっただけである。
よって、冥界の裁判官は「何だかよく分からないリズムに合わせて何だかよく分からない駄洒落を聞かせて金を取ろうとしている怪しいデジモン」扱いされる運命にあった。
「この世の終わりは総じて終末」
当たり前だ。
「俺の休みも総じて週末」
実際には彼に休みなどない。
「裁判、餡パン、審判、初犯、はん……同伴」
リズムもセンスもへったくれも無い。しかも噛んだ。これでは彼のソウルは伝わらない。お情けで投げられた5bit硬貨――この町の記念硬貨だ――が悲しく光る。
「悪いことすりゃお前は悪漢! 洗え心の水道管!」
最早ヒップホップどころかラップですら無くなりかけたシャウトが終わった時、辺りは薄暗くなっていた。そして、彼に与えられたものは――
パチパチパチパチ。
大勢からの惜しみ無い拍手だった。
「あんたの魂――ソウル――、しかと受け止めたぜ」
猿そのもののスーツに目元が完全に隠れたサングラス。彼の種族はそう、紛れもないエテモンだ。缶バッジ付きのニット帽、「ETE」という文字を象った金メッキの首飾り、ステージ上で歌を披露するエテモン――恐らく彼自身――の絵がプリントされた白地のTシャツ。彼は確かにエテモンではあるが、それと同時にヒップホッパーでもあった。……多分。
彼とアヌビモンを取り囲む者もまた、エテモンだった。
彼らはTシャツや帽子で着飾っているという共通項を持ってはいるが、各々が異なる機材を手に提げ、背負っていた。その機械はマイク、照明、スピーカーと芸能活動に関するものばなりだ。
「俺の名は、――ETE――」
えて。彼はそう名乗った。首飾りは彼の名を象ったもののようだ。
「あんたと同じ、ヒップホップを愛するデジモンさ」
ETEは両手の親指を立てて人差し指を前に出す仕草、所謂「ゲッツ」のポーズでアヌビモンを指差した。
「まさか、本当にETEなのか……? 死者でさえその名を聞けばラップを刻み目覚めるという、伝説のヒップホッパーの……?」
全てのヒップホッパーの頂点に立つETEが、自分をヒップホッパーだと認めた? アヌビモンは驚愕と歓喜に震えた。冥界の神が心を揺るがす事はあってはならないと、封じ続けた感覚だ。
「伝説ぅ? ハッハー、俺は随分と有名になっちまったらしい。とにかく俺がクラブ『SARUMAMIRE』のオーナー兼MCのETEその人だ。そしてこいつが……」
ETEは彼の後ろに控えていたエテモンの内の一体、ラジカセを抱えていた個体を指差した。
「俺は音響担当、その名もエテモンだ」
「わっちは音響担当その2、エテモンでありんす」
「ワイは照明担当のエテモンや」
「ワタクシはSARUMAMIREの経営部顧問、エテモンと申します」
中略
「エテモンだ」
「エテモンですわ」
「エテモンだぜ」
「エテモンなり」
「エテモンだよ」
「そして俺が……エテモンだ」
総勢20人を軽く超えるエテモン達の自己紹介を、アヌビモンは律儀に聞き終えた。
「俺はあんたが刻んだラップから、あんたがラップに捧げたラブから、ハートブレイクショットを受けちまったんだ。あんたのラブはそう、ユノモンとユピテルモンが千年間じっくりしっくりドッキリ育み続けてきたラブ、そんな感じのラブ……!」
ETEのサングラスが光を反射した。それはアヌビモンにはETEの落とした涙の煌めきのように思えた。
「単刀直入に言うぜ。あんた、俺達とヒップホップやらねえか?」
「この私が……ETEと……?」
ここはクラブ『SARUMAMIRE』。伝説のヒップホッパー・ETEが開設したナイトクラブ。ここにはETEのファンからETEを視察にやってきたライバルまで、デジタルワールド中からありとあらゆるデジモン達がETEを一目見るために集結する。今日もまた、彼らとETEの情熱的な夜が始まるのだ。
「フロアは満員、スタッフ増員、今夜も始まるぜETEとてめえらのラップバトル!HEY、カメラズームイン!……と、いつもなら乱入者とラップバトルに洒落込むところだが、今から始まるのはバトルじゃねえ。……伝説だ」
会場中の照明が一斉に消えた。会場は徐々に静まり返る。観客は皆固唾を飲む。
「さあ始まるぜ。Legend・of ・『ANUBIS』!」
ETEは絶叫。ライトは点灯。セットは好調、客は熱狂。
極彩色のライトに照らされて姿を現すニューフェイス。
光るバングル、ギラつくバックル、サングラスに宿るクールその名はANUBIS!
「なんだあれ? まさか、アヌビモンか?」
「まさか、ETEのスカウト?」
ピラミッドを思わせる四角錐すなわちピラミッドパワーをターンさせる。観客は一気に引き込まれる。
ANUBISのエジプティアンソウルは絶頂、ダークエリアの幹部は不調、今夜もグルービングなステップでヒップホップを愛するハートがムーヴする。
「つー訳でダークエリアから好き勝手に出入り出来るようになったんだと」
「何それバカじゃないの?」[ 35/66 ][*prev] [next#]
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