ハローベイビー

『14時37分、西東京病院』

 上記は、神奈川県にて、1級相当3体の祓徐任務を終えた夏油傑に届いたメールである。送り主は同期の硝子だ。そのメールを見、傑はすぐにマンタ型の呪霊を出した。傑の一連の行動に、同行していた補助監督がぎょっとする。
 今さっき任務を完遂した傑が帳から出てきて、さて帰りましょうかと補助監督が帰校の準備をしていたところで、突如傑が呪霊を出したのだから、何か緊急事態が発生したのかと泡を食うのは仕方の無いことであった。

「げ、夏油術師! どうなさいましたか!?」

 補助監督の男は詰め寄った。『状況の把握と自分に出来ることへの指示を貰う』とは、先輩の伊地知から習ったことである。
 一方傑は、険しい表情でスマートフォンを凝視しており、端末が震える度に猛スピードで文字を入力しているようだった。
 そして、漸く傑が顔を上げたと思えば、補助監督に「先に帰っていてください、お疲れ様でした」とだけ残して、呪霊に乗ってどこかへ行ってしまった。そこには、いつもの余裕に満ちた紳士然とした姿はなく、筆舌に尽くし難い焦りと気迫が滲み出ていた。それこそ、1級呪霊と対峙する前よりも。
 残された補助監督は、傑が飛んで行った空を眺めて暫く呆然としていたものの、一通のメールが届いたのと同時に、シャボン玉が弾けたように意識を戻した。
 送り主は我らが尊敬する先輩伊地知潔高。内容は――。








           ▲▽


「名前!」

 15時10分、夏油特級術師現着。

 病院だと言うのにバタバタと遠慮なく走ってきた傑に、長椅子に座っていた硝子が「神奈川で任務と聞いたが随分と早いな」と声をかける。ちなみに「急いだからね」という返しの枕詞に、『呪霊に乗って飛んできた』が付属していることは察している。傑に同行していた補助監督の男に同情するものの、伊地知がフォローに回ったはずなので問題は無いだろう。

「それより名前は?」
「この中」
「私に出来ることは?」
「ない」
「硝子が着いていてくれてるのは……」
「友人としてだよ」

 硝子の遮断するような物言いに、分娩室前の扉にしがみつきそうになっていた傑は漸く冷静さを取り戻した。専門外とは言え、傑よりも医学に精通しており、優秀な反転術式使いである硝子の『呪術師としてでは無く友人としてここにいる』は答えのようなものだった。要は、生死に関わる緊急案件ではないということだ。否、ある種、生死に関わるのだが。
 傑は今一度深呼吸をし、硝子の隣に腰をかけた。

「てっきりこういうのは五条家でやるものだと思っていたよ。専属の助産師とかいるんだろう?」
「その五条家当主からの言伝が、緊急の場合は家じゃなくて呪術界と関わりがない病院に運んで、だな。夏油が言う通り、本来なら五条家で結界張ってお産に挑むみたいだけど。巫女による神楽舞と祈祷付きの儀式ってやつだよ」
「さすが五条家だ」
「まあそういった伝統を素直に取り入れる男でもないだろ」

 どうやら、硝子は、五条家当主――もとい五条悟から、いざ出産になった場合について予め託されていたらしい。傑としても、京都にある五条本家なら駆けつけることが出来ない――駆けつけたとしても門前払いを食らうのは目に見えている――ので、病院でのお産はありがたい限りではあるが、一般の病院というのも不安があった。主に防犯面においてだ。

「大丈夫なのかい? お腹の子や名前を狙った呪詛師の襲撃とか呪霊の攻撃とかは……」

 五条家の血を狙う者は多いと聞く。最たる例が、出生とともに億の懸賞金が賭けられた悟だ。悟がいるので、六眼は持っていないにしても、生まれた五条家の子供を狙う理由は星の数ほどあるのだ。出産時なんて、格好の餌食である。

「特級二人が揃ったこの病院を奇襲できる輩がいるなら拝んでみたいものだな」
「それは間違いない」

 しかしながら、嘆息混じりに言った硝子の意見は言い得て妙であり、傑の不安を払拭するには十分だった。目に入れても痛くない大好きで大切な妹の一世一代の大出産、危険分子を取り除くためならば暴れるのも厭わない。

「ああ、だから普通の病院なのか。悟の意図がわかったよ」
「非術師の方が危険度は少ないからな。主治医や助手、ナースについては既にアイツが把握している。名前を担当しているのは五条悟≠知らない正真正銘の非術師達だよ。まあ窓はいるらしいが」
「私としては猿というのが気に食わないが……」

 呪術界と関わりのない人間からすれば、名前は患者のひとりでしかない。まさか今受け持っている出産が、とある界隈を揺るがす歴史的大出産だとは思いもよらないだろう。
 無知というのは危険であり、安心できる部分もある。要は、今名前の出産に携わっている非術師の医者には、名前を殺す理由やメリットがないのだ。いるらしい窓の人間は事情を知っているはずなので、今頃胃に穴が開きそうなほど緊張しているのだろうけれど。
 更に言うと、五条家ではなく普通の病院だからこそ、こうして硝子と傑が駆けつけることが出来ている。硝子が言う通り、悟が来れば特級は2人。これ以上ないくらい万全な体制だった。

「ところでその悟はどうしたんだい?」

 ただ、何故かこの場に当人の姿がいない。分娩室にいるのかとも思ったが、気配や残穢は感知できなかった。

「任務で北海道にいるよ」
「そういえばそうだった。連絡は?」
「まだ。初産は10時間以上かかると言うからな……アイツがここで10時間以上黙っていられるとは思えない。まあアイツに着いてる伊地知は把握しているし、任務が終わり次第五条にも連絡が行く算段だよ」
「伊地知に八つ当たりした挙句病院に着き次第暴れるのが目に見えているけど?」
「それを止めるのがオマエの仕事だろう?」
「……なるほどね」

 傑は親指で額をかいた。どうやら、想像以上に慎重に事が進んでいるらしい。傑の新たな任務は、万が一どこからか情報が漏れて呪詛師の奇襲があった場合の護衛と、なんで黙っていたのかと暴れるであろう悟を止めることのようだ。それは全力で遂行しなければいけない。全ては可愛い名前のために。
 傑は気合を入れるべく深呼吸をすると、「硝子」と同期の名前を呼んだ。視線がこちらへと向けられたのが分かる。

「私は、可愛い可愛い私の名前がお嫁に行ってしまったことや、相手が悟なことはまだ認めていない」
「相変わらずだな」
「でも名前が我が子に会えるのを楽しみにしていたから……だから私は全力で名前の出産を守る」