そっと伸ばされた手を振り払った瞬間、俺ははっとしてナマエを見つめた。また、やってしまった。ナマエは振り払われた手を押さえ、無理やり笑みを浮かべている。違う…俺はこんな表情をさせたい訳ではない。
そう思った所で俺の口から謝罪や弁解の言葉が出るはずもない。発せられるのは心情とは真逆の冷たい言葉だけだ。


「ここが何処かも分からないほどお前は愚かな女だったか、ナマエ」

「申し訳ございません…」


愚かなどではない。ナマエはとても頭の良い女だ。
現に今も加害者である俺に頭を下げ、咎めを待っている。


「今はお前の顔を見ているだけで不快だ。去れ」

「はい。失礼いたしました」


ナマエが再度頭を下げ、部屋から出ようと背を向ける。
嗚呼、何故お前は恨み言一つ言おうとしない。
今の俺は子供と変わりなかった。自らの鬱憤を他者に当たる事で解消する愚かな子供と。

扉の取っ手に手をかけたナマエの手を乱暴に引き、壁に押し付ける。ナマエの表情から笑みが消え、変わりに苦痛の色が浮かんだ。


「本当はお前も、俺にほとほと愛想を尽かしているのだろう?」

「ウィンガル様…」


ナマエの美しい瞳に陰が落ちる。怒っているのだろうか、それともこんな俺を哀れんでいるのだろうか。そう考えると自嘲の笑みが零れた。


「反吐が出る」


俺は今、どちらに向けてこの言葉を発しているのだろう。


「ウィンガル様、」


突然白い腕がこちらに向かって伸ばされ、それが俺の頭を優しく引き寄せた。
鼻孔を擽るのは他でもない。幼い頃から慣れ親しんだナマエの匂いだ。


「リィン様」


母のような慈しみに満ちた声が俺の名を呼ぶ。髪を梳きながらナマエは何度も何度もただ俺の名を呼び続けた。


「嗚呼、お前は何故…」


張っていた神経が緩み、身体から一気に力が抜ける。
人は誰しも母の腹から出てくるのだ。だから女の腹部に触れるととても安心感を覚える。トロス時代の戦友が言っていた言葉が蘇る。なるほど、安心感とはこう言うものだったのか。

ナマエの腹に顔をうずめ、腰に手を回す。脈の音を聞き、ナマエの声を聞く。
先ほど愚かな子供のようだと俺は自分を例えたが、まさにその通りであった。


「ナマエ、」


この声と温もりに俺は無償の愛を求めている。


母胎帰願/111103