それはポンとまったく知らない世界に放り出されたような感覚だった。
ニタリと笑う父とその後ろで目を閉じている翁、そして自分の腕を押さえるリジュ。
押さえられた腕の痛みだけがこれは現実なのだと告げていた。


「……っ」


けれどそれに打ちひしがれる訳にはいかない。
自分は国の王妃である。夫であり国王である男から留守を任された以上、病身であっても臆する事はあってはならないのだ。己を奮い立たせ、レイチェルは父を睨みつける。捕らわれ、自由を奪われてなお気丈に振る舞う娘に父は苦い顔をした。


「まあいい…四象刃とガイアスのいない今、お前を助ける存在はないのだからな」

「助けなんていりません」


レイチェルは力の限り、リジュの腕を振り払いそばに落ちていた獲物を取る。体はふらつき、あまり言うことを聞かなかったが意識だけははっきりとしていた。
まずレイチェルは父ではなく翁へ棍を向ける。もちろん背後のリジュに気を配りながらだ。


「なぜあなたがこんな事を…一番国を憂いておられたのでしょうに…」

「レイチェル殿、わしの気持ちは昔から変わりませぬ。わしはただア・ジュールを元の形に戻したいだけなのです」

「元の形?先王が独裁していた頃に戻すと、そう言うのですか!?」


書で読んだ限り翁は先王に嫌気がさし、ガイアス達トロスに味方したはず。だからこそ今の発言が信じられなかった。レイチェルの焦りに翁は頭を振る。そして何時もと変わらぬ、人懐っこい笑みを浮かべた。


「確かに陛下のおかげでこの国は良くなった。民達にも笑顔が戻った…しかし、わしには陛下の業に気づいてしまった」


業…訳が分からず眉を顰めながら棍を握りしめる。何故か背筋がひんやりとした。熱がぶり返しそうだ。

押し黙ったレイチェルにここぞとばかりに翁の言葉は続く。


「レイチェル殿、あなたはきっと後に後悔なさる。何も知らぬあなたにあのような仕打ちをしたあの方をきっと恨むに違いない。なればこそ、このまま知らぬまま、思い出だけにして終わらせるのも一つの優しさではなかろうか?」


その優しさはガイアスに向けてとでも言うのだろうか。
自分があの人を恨む…あのような仕打ち?
全く身に覚えのない言葉の羅列に頭の中はもうぐちゃぐちゃだ。出来る事なら今すぐにでも飛びかかり説明するよう叫びたい。けれどそうしては相手の思う壺だ。


「わしとて本当はこのような事したくはない…民も今は閉じ込めているが、始末がつき次第また元の生活に戻すと約束しましょうぞ。ですからどうかレイチェル殿…それをお下げください」

「嫌だと、言ったら?」

「今度こそ手荒な真似をさせてしまう事になる…そこのリジュに」


翁の皺だらけの指が指したのはレイチェルのちょうど後ろ。伸びてくる手は紛れもなくリジュの物で、とっさにレイチェルは後ろへ飛び退いた。しかしその先に待ち構えているのは父だ。真剣な表情で父は手を差し伸べてくる。


「レイチェル、これはお前のためでもある。共にこの国をより良くしようではないか」


その言葉を聞き終えた時、頭の中で何かが破裂する音がした。

一瞬カッと目頭が熱くなり、喉が戦慄く。高ぶる感情のままに振りかざした棍は壁へ穴を開けた。


「ふざけないで!!」


悲鳴にも似た怒声が謁見の間に響いた。


「さっきから勝手な事ばかり…!私が後悔する?あの人を恨む?挙げ句の果てには私のため!?馬鹿にしないで!」


喉が枯れるかと思った。
肩で息をしながらレイチェルは喉元を押さえ、呼吸を整える。酸欠気味の頭がくらりとして、思わず柱に寄りかかった。だが瞳から怒りの色は消えない。声色は落ち着いたが、それでもなお強い意志が感じられる。


「後悔するのは私の勝手…あなた達が決める事ではないわ」


静寂に包まれた室内。
翁は目を閉じ、父はわなわなと肩を震わせている。リジュはあの場所から一歩も動こうとはせずに、無感情な瞳でこちらを見つめていた。
悲しくなる。つい昨日まで彼女は自分にとても良くしてくれていたのに。過ぎ去った過去を思い出し目を伏せる。このような事を考えている当たり、今のこの態度もただの現実逃避に過ぎないのかもしれない。それでも自分の感情を他人に左右されるのは嫌だった。柱から身体を離し、足場を整える。飛びかかられても不思議でない事をしたという自覚はあった。けれど両者共にその場を蹴る事はなかった。否、蹴れなかった。


「その通りだ」


ギィと扉の開く音と、それを遮る第三者の声にレイチェルは目を見開いた。
まさか、そんなはずは。


「ガイ、アス…」


そこに立っていたのは威風堂々とした城の主。
手には鞘から抜かれた長刀を持ち、その赤い目は一直線に翁を睨む。


「レイチェルの意志はレイチェルだけのもの。お前達がとやかく言う事ではない。それに、」


この場にいた誰しもがその声に耳を傾け、息を飲む。
ガイアスはゆっくりと、しかし力強い歩みで一歩一歩と翁へ近づく。
そして、前まで来ると静かに長刀を振り上げた。


「ここは俺の国だ」


何人たりとも国を害する者は許さぬと。
振り上げられた長刀が反射する。その歩みからは考えられぬほど力強く振り下ろされた刀は翁の身体に吸い込まれて行った。


120629