「おい、ラ・シュガルのババア」


背後から少女独特の高い声に呼び止められ、レイチェルはため息をついて足を止めた。
あくまでバレないように小さくついたのだがどうやら相手には伝わったらしい。
次いで盛大な舌打ちが聞こえ、レイチェルは肩を竦めながら振り返る。


「なあに、アグリア」

「なあに、じゃねぇよ!テメェ最近よく出かけてるみたいじゃねぇか。どこ行ってんだよ?」

「ジャオからの頼まれ事でちょっとね」

「オッサンの…?」


ピクリと片眉を釣り上げ、アグリアは意地の悪く笑んだ。悪い予感を覚え身構えれば案の定アグリアは身体を揺らしてこちらを指差す。何度注意しても止めないのだ。


「くっせぇ…テメェ、何か企んでんな?」

「何を言って、」

「知ってるぜ。テメェの親父はあのコロウってジジイと通じてんだってな?」

「……それが?」


頭が痛い。
額を押さえ、先ほどとは違いあからさまにため息をつきレイチェルは気丈に問い返す。まさかこんな反応が返ってくるとは思わずアグリアは言葉に詰まった。しかしここで負けたくはない。自分より背の高いレイチェルを睨みつけアグリアは吠える。


「っ、もし陛下を裏切るような事があればあたしがテメェを殺してやる!!」


純粋すぎる敵意を向けられてもレイチェルはあまり表情を崩さなかった。
ただかつて、夫の腹心に刀を向けられたあの夜を思い出し、首筋が痛んだ気がしてそこを押さえた。


「そう、ならその時はお願いね」


もし万が一があったとして、殺されるのなら彼らのような純粋な者達がいい。




精霊術による照明の切られた室内は暗く、窓から雪明かりが照らすのみだ。
室内の中心に置かれた寝台には枕に顔を埋めるようにしてレイチェルが静かな寝息を立てている。
他に人間はいなかった。
本の数秒前までは。

微かな布ずれの音と共にレイチェルの顔に影が差す。ギシと寝台が軋むがレイチェルは身を捩るだけで起きようとはしない。見事侵入を果たしたその人間はニンマリと笑みを浮かべ、懐から何かを取り出す。それは雪明かりに反射してギラリと鋭利に光った。


「――…何をしている?」


そこに第三者の声が入る。
真っ暗な中に赤い双眼が不気味に浮かび上がり、侵入者は咄嗟にそれを懐にしまい込みじりじりと警戒を露わにしながら窓際へ後退して行く。
対して第三者、ガイアスは堂々とした足取りで寝台へ近づきレイチェルを庇うように前に立つ。


「去れ」


静かながら怒りのこもった声に侵入者は息を飲み、窓を開け放った。
途端に吹き込んだ風は、変わりに侵入者を連れて行った。
開け放たれたままカーテンの揺れる窓際を睨みつけ、ガイアスはレイチェルを見下ろす。突風はせっかく暖まった身体を冷やしてしまい、身じろぎしてレイチェルは目を開けた。


「……ガイアス?」

「起きたか」

「帰って来てたの…って、なんで窓が開いて…それに真っ暗…」


上半身を起こし、レイチェルは自分の肩を抱いた。
その間ガイアスは窓を閉め、またレイチェルの側に寄り頬に手を添える。どうやら怪我はないようだ。


「な、なに…?」

「隈が出来ている。疲れているのではないか?」


親指で目尻を撫でられくすぐったそうに目を細める。
言われてみれば最近は夜更かしが常になっていた。反対側の目尻に自分の指を這わせ、レイチェルは視線を逸らす。ガイアスの目に怒りはない。だが居心地が悪かった。


「…大丈夫よ。自分でしたくてやってる事だし」

「その顔で言うか」


確かにこの顔では周りに心配をかけてしまうだろう。レイチェルは苦々しい表情で口を噤んだ。


「レイチェル、お前は王妃だ。お前が伏せれば民達に不安を与える」

「………」

「少しは休め」


ガイアスが心配してくれている事は嫌と言うほど伝わって来る。優しく諭され、レイチェルは瞳を伏せた。ガイアスの言う事は正論だ。一個人である前に自分はア・ジュール王妃なのである。立場を考えろ。カーラにも言われた一言が思い出され、グサリと突き刺さった。


「レイチェル…!」


重々しい空気を切り裂くように大きな音と共に部屋の扉が開かれる。
はっとして視線を向ければそこには珍く肩で息をするジャオが立っていた。


「何事だ」

「礼をかいて申し訳ない陛下。じゃが今はレイチェルを貸してはくれんか!?」

「ジャオ…?」


ガイアスの後ろから顔を出せば食らいつかん勢いでこちらに駆け寄る。普段のジャオから想像もつかないその姿にレイチェルもガイアスも驚いていた。しかしジャオの目にそんな二人の表情は映らない。寝台傍で立ち止まったジャオは勢いを保ったまままくし立てる。


「娘っ子が病気に…!お主を恋しがって魘されておる!」


エリーゼが病気…一瞬頭の中が真っ白になり、突然真っ赤に染まる。思わずガイアスを押しのけ、寝台から立ち上がろうとするが、グンと後ろに引っ張られて止まった。反射的に振り返れば赤い双眼とかち合う。


「行くのか」

「行くに決まってるでしょう!?」


乾いた音が鳴り、同時に痛み出した手の甲を見る暇もなくレイチェルは外套を取り、部屋を飛び出して行った。
しかしジャオは寝台傍から動こうとしない。唖然としているようである。


「行ってやってくれ」

「すまん…」


扉が閉まり静まり返った室内でガイアスはようやく赤くなった手の甲を見下ろした。
初めてだった。レイチェルは怒りを露わにして自分の手を振り払った。そして今、レイチェルは疲労した身体でたった一人の少女のためにこの真っ暗な空の下、ワイバーンを駆っている。何て馬鹿な女だろう。


「だが嫌いではない」


痺れた手の甲は赤く、座る寝台はとても広い。
今宵は一人ここで眠る事になるらしい。


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