シュレイズ島の温暖な気候に慣れてしまっていたためか、カン・バルクの寒さに兵士の中何人かは参っているようだった。けれど全員表情は一様に晴れやかだ。シュレイズ島で収めた大勝利が今だ余韻を引いているらしい。久しぶりに居城の門を潜り、城内に入るとそこには誇らしげな笑みを携えて王達の帰還を待つレイチェルの姿があった。


「ご無事なお戻り何よりです」


形式上の挨拶を述べ、レイチェルは深々と頭を下げる。変わらぬレイチェルの様子にガイアスは満足そうに頷きを返すのだった。




夜の帳が落ちると、城内は騒がしさに包まれた。戦から戻った兵士達が各々酒を飲み交わしているのである。あまり騒がしいのが好きではないガイアスやウィンガルも今日くらいはと何も言わずに好きにさせていた。

噂話に花を咲かせるメイド達の脇を通り過ぎながら、レイチェルは明るい声に耳を澄ませる。何処かで誰かが歌を歌っているらしい。まさにドンチャン騒ぎと言った様子だ。ラ・シュガルでは考えられないその明るさにレイチェルは胸が暖かくなるのを感じていた。


『え、一緒に飲まないの?』


ふと、先ほどプレザの誘いを思い出す。四象刃の面々も今日はささやかな宴を開くらしく、それにプレザやジャオにレイチェルは誘われた。後ろで控えていたウィンガルやアグリアもレイチェルの参加に反対ではないらしく、多少嫌そうな顔はしているものの何も苦言は漏らさない。しかしレイチェルはそれを断った。他に行きたい所があったのである。

プレザから一本だけ拝借した酒瓶を腕にレイチェルは急ぐ。
そして目的地につくと急かす気持ちを抑え扉を開いた。もちろん飲み会にも行かず警備に当たる兵士達にご苦労様と労りの言葉をかけるのを忘れずに。


「…ガイアス」


寝室でガイアスは一人、酒も飲まずに書類に目を通していた。机に向かう後ろ姿にレイチェルは呆れ混じりに声をかける。その声にガイアスはこちらを振り返り、僅かに目を丸くした。


「プレザ達と飲んで来るかと思っていたが…」

「誘われたけど断ったの。今日はあなたと飲もうと思って」


そう言って酒瓶を軽く持ち上げれば今度はガイアスが呆れ混じりに答えた。


「俺はあまり酒は好かん」

「そう言うと思ったからアルコール濃度が低いのを拝借して来たわ」


自分には少し物足りないがたまにはこう言うのもいいだろう。意見など聞き入れず、さっさと酒瓶や酒杯を並べるレイチェルにガイアスは一瞬困ったように微笑した。


「確かにあまり濃くはないな」

「でしょう?」


手渡された酒杯を傾ければあまり癖のない、酒独特の味が広がる。レイチェルの言う通りこれならば飲めそうだ。しかし元より酒に強いレイチェルからすれば物足りないのだろう。すでに隣で二杯、三杯と手を伸ばしていた。酒瓶が空になるのは早そうだ。
男らしい飲みっぷりを苦笑しつつ眺め…ガイアスははっとした。レイチェルの酒杯を持つ手に真新しい傷跡を見つけたのである。


「……その怪我は…」

「あ、ああ…これ…?」


罰が悪そうにレイチェルは手を持ち上げた。するとガイアスはその手を取り、間近でまじまじと見下ろす。もう治りかけではあるものの手の甲に浮かぶ傷跡は中々痛々しい。白い肌に蔓延るそれが、何故だか酷く憎たらしくなった。


「…ちょっと、」


何も言わず見下ろし続けるガイアスにレイチェルはいたたまれなくなった。手を引っ込めようともがくがガイアスは手を離さない。頬が赤くなったのが自分でも分かり、レイチェルは少しだけ俯いた。
ガイアスは低く問いかける。


「……痛かっただろう?」

「…まあ、ね」


レイチェルは数日前の死闘を思い出す。スノウドラゴンの強靭な爪が襲いかかり、身体を地面に叩きつけられる感覚は今だに忘れられない。途端、傷跡が痛んだ気がしてレイチェルの顔色が悪くなった。
その様子から全てを悟ったガイアスは傷跡を指先でなぞりそのまま握りしめる。錯覚などではなく本当に傷跡が痛んだ。小さくレイチェルは声を上げるがガイアスは変わらず手放そうとはしない。傷跡まで治そうとする衛生兵を大丈夫だと振り払った数日前の自分を心から恨んだ。


「お前が一人で子供を助けに行ったと聞いた時は正直呆れた」

「う…」

「だが今は…感謝している」


赤の瞳に呆れではなく、安堵の色が浮かんでいる。スルリと解放された手をさすりながらレイチェルは机に向かう後ろ姿をただ見つめるしか出来なかった。

また暫しの沈黙が二人の間を走り、ガイアスが筆を滑らせる音だけが聞こえるだけとなる。気を紛らわそうと飲み続けた酒瓶は空になり、手持ち無沙汰になったレイチェルはふらりと立ち上がる。そして戸惑いがちに目の前の大きな背中にもたれかかった。


「…スノウドラゴンと一対一で対峙した時、正直怖かったわ」

「………」

「もう二度と会えないんだな、って思うと怖かった…」


誰にとは言わない。けれどこれは素直な胸の内だ。ポツリポツリと何の前触れもなく話すレイチェルをそのままに、ガイアスは筆を走らせる腕を止めない。それがまたガイアスらしく、思わずレイチェルは苦笑した。


「ありがとう、心配してくれて」


突然の感謝にガイアスはピタリと腕を止め、筆を置いた。心なしかレイチェルの声は震えており、そちらの方にガイアスは首を回そうとする。しかし背中に添えられた手に力がこもるのを感じると、振り返る事なく片手を後ろに回した。大きな手の平がくしゃくしゃとレイチェルの髪を些か乱雑に撫でる。安心しろとでも言うようなその優しい体温にレイチェルはそっと目を閉じる。

騒がしい周りと違い、主達の寝室は暫しの間、心地のよい沈黙に包まれていた。


111204