襲い来る痛みにレイチェルは目を閉じた。しかし何時まで経っても痛みは感じられない。恐る恐る目を開き、レイチェルは言葉を失った。ドシィンと大きな音を立てて目の前でスノウドラゴンが倒れている。


「これは…」


力なくこぼされたそれは他の声にかき消された。多数の足音に新手かとレイチェルはギュッと棍棒を握りしめた。しかし壊された穴から現れたのは良く知る顔達。


「王妃ご無事ですか!?」

「あなた達…城は……」


城に残っているはずの兵士達がスノウドラゴンを取り囲んでいた。
兵士達は傷だらけのレイチェルの姿を見て、さっそく治癒術を施していく。されるがままにそれを受け入れながらの問いかけに一人の兵士が表情を歪めた。


「申し訳ありません…翁殿に叱咤され目が覚めました」

「コロウ様に?」

「はい。王妃を一人で向かわせるとは何事かと横っ面をひっぱたかれました」


あの好々爺が人を殴っている姿など想像がつかない。
しかしその兵士の頬は赤く腫れており、嘘でないと知らされる。レイチェルは上手く力の入らない腕を持ち上げ、兵士の頬にあてがった。


「助けてくれてありがとう」


力ない微笑みと共に、兵士の頬を暖かな光が包んだ。




城へ戻ってまず出迎えたのはリジュの泣き顔だった。治癒術を施されたとは言え、レイチェルの肌には今だ傷跡が残る。涙でボロボロになった顔を両手で隠しながら無事で良かったと叫ぶリジュにレイチェルは眉を下げた。


「ごめんなさい、心配かけたわね」

「レイチェル様が、ご無事なら…それで…っ」


リジュが泣き止むまでもうしばらく時間がかかりそうだ。長丁場になるなあ…苦笑すると大きな音を立てて扉が開かれる。思わずそちらに視線を向ければ、カーラが立っていた。何処にも怪我のない無事な姿に安心する。しかしその表情は俯いていて見えない。


「カーラさん?」


レイチェルの呼びかけにカーラは答えない。変わりに早足でこちらに向かって来る。そしてレイチェルの目の前に立つとカーラは右手を振り上げた。


「レイチェル様っ!?」


リジュの叫び声とカーラの右手がレイチェルの頬に炸裂したのはほぼ同時の事。ジンジンと痛む頬に指を添えて、レイチェルは唖然とカーラを見上げた。そこで気がつく。カーラの赤い瞳が涙で揺れている事に。


「っ…いい、加減にしてよ!!何であなた達は何時もそうなの!?何で、一人で突っ走ろうとするのよ!何で、簡単に命を投げ打つのよっ!!」


カーラの叫びは尚も続く。


「兵士の到着が一秒でも遅れていたら死んでいたかもしれないのよ!?もしあなたに何かあれば…兄さんは、アースト兄さんは……!」

「カ、カーラさん少し落ち着いて…」

「落ち着いていられるわけがないでしょ………っあ、」


カーラははっとして唇を押さえた。視線の先にはおどおどと視線を泳がせるリジュがいる。


「あの、私…部屋の前にいますので、何かあったら呼んでください…!」


呼び止める隙すらなかった。
驚愕で涙も乾いたらしきリジュは駆け足で部屋を出て行った。パタンと扉が閉まるとカーラは頭を抱えて床に座り込んでしまう。自分の仕出かした失態に気がついたらしい。


「私…なんて事を…」


なんて後悔の言葉が聞こえるが返事の返しようがない。ひとまずリジュには後で自分がちゃんと話そう。レイチェルは熱を持ったままの頬を押さえつつ、カーラの前に膝をついた。それにより自然とカーラの視線がこちらに向く。レイチェルは赤い瞳を真っ直ぐに見つめ、苦笑した。


「心配かけてごめんなさい」

「……いえ、私も気が動転してしまって…その、」


言葉にせずともカーラが何を気に病んでいるかは分かる。原因は赤く腫れたレイチェルの頬だ。首を横に振り、大丈夫だと告げる。カーラは強張っていた頬を少しだけ和らげ、そしてポツリポツリと語りだした。


「私、あなたに八つ当たりしてたのね」

「え?」

「結構嫌な態度取ってたでしょう?」

「そんな事は…」


まあ、あるかもしれない。
時間になると形だけの挨拶をすませさっさと帰って行く冷たい後ろ姿を思い出し、頬が引きつった。表情からレイチェルの思いを悟ったカーラは申し訳なさそうにうなだれる。


「だ、大丈夫よ!それにあなたが私に八つ当たりする気持ちも分からないでもないし…」


突然現れた女にお兄さん取られたんじゃたまったものじゃないわよね…レイチェルの必死のフォローにカーラはゆるく首を振る。


「違うの…私はね、自分だけ幸せになろうとしている兄さんを妬んでいたのよ」

「自分、だけ?」

「私の大事な人を殺しておきながら自分だけ幸せになろうとしている兄さんを…私は妬んでいたの」


その衝撃にレイチェルは言葉を失った。まさか、そんな。否定したくとも喉から声が発せられない。カーラの瞳が暗く濁る。


「約二十年前のあの日、兄さんは私の婚約者を殺したのよ。あの人は遺体すら帰って来ず兄さんは理由も話してくれぬまま王となった…酷い話だとは思わない?」


その日を思い出しているのだろうか…カーラの声に怒りが滲む。震える肩は痛々しく、その苦しみが伝わって来るようだ。
レイチェルは目を伏せる。ガイアスがカーラの婚約者を殺した。その言葉が重くのしかかる。しかしレイチェルはカーラの問いに頷けずにいた。カーラに初めて会った日の、ガイアスのあの優しい眼差しがずっと脳裏をちらついている。


「…これはあなたを苦しめるだけかもしれないけれど…」


もしそれが事実だとして、それでも理由を話さないのは…


「私には…あの人なりにあなたを傷つけまいとしているように思えてならない」


勝手な想像かもしれない。それでもあの日の眼差しに嘘偽りは見えなかった。あの眼差しは妹を見守る優しい兄として物だったから。

レイチェルなりに気を使い、ゆっくりと言葉を選んで話したつもりだった。だがカーラは目を見開き、こちらを凝視するばかりで何の反応もない。居心地の悪さにもぞもぞと手を組めば、カーラは僅かに微笑んだ。


「そうね…きっと、兄さんなりに何か理由があるのよね」


そう話すカーラの瞳はもう暗く濁ってはいない。利発なあの瞳がそこにはあった。


「兄さんは…ガイアス王は良い理解者を持ったわね」


それがレイチェルに取って初めて見るカーラの満面の笑みだった。自然とレイチェルにも笑みが浮かび知らず内に微笑み合う二人の間に昨日までの溝はない。心なしか頬の腫れも引いて来たようだ。


「レイチェル様…!!」


ここで見計らったかのようなタイミングの良さで扉が開かれる。珍しく大声を上げたリジュは片手に紙切れを持って弾んだ声で伝えた。


「陛下が、我が軍が勝利しました!数日後には陛下も帰還される予定です!」


瞬間城内を揺るがすように二人の歓喜の叫びが轟いた。
手と手を取り合い、良かったと話すレイチェルとカーラにリジュはまたも瞳を白黒とさせるのであった。


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