今にも泣き出しそうなリジュの視線が背中を刺す。リジュが今何を思っているのかは手に取るように分かった。しかしレイチェルはそれをあえて無視し、クローゼットを開け放った。そして奥から大きな棒状の包みを取り出すと迷いもなく紐を解く。パサリと包みが床に落ち、中から現れたのは象牙の棍棒であった。 手に山ほどのホーリーボトルを持ち、カーラは落ち着かない様子でレイチェルを待っていた。先ほどああは言った物の内心不安は拭えない。特に行き先である音無しの洞窟は近年魔物の住処となっており、何人もの民が犠牲となってきた。戦うすべを持たないカーラからすればそこはまるで地獄のような場所である。 万が一の事態に備え、使えもしない短剣を持ってはきたが出来るなら鞘に仕舞ったままでありたい。 そう考えていると前方から黒髪を揺らし待ち人が駆けてきた。 「…王妃それは…?」 カーラの視線の先にあるのは象牙の棍棒である。ああとレイチェルは棍棒を軽く持ち上げ悪戯に笑みを浮かべた。 「私の相棒」 心配そうな民達に見送られ久方ぶりにカン・バルクを出たレイチェルは大きく背伸びをした。遥か前方には一面真っ白な雪景色の上を歩く魔物達がいると言うのにその気楽さは何処から来るのか。カーラは呆れた視線を寄越し、一つ目のホーリーボトルを開け中身を自分達の周りに振りかける。 「残りの瓶は四本です。早く音無しの洞窟へ向かいましょう」 「そうね…」 ザクザクと雪を踏みしめ二人は目的地へと進む。途中、魔物がそばを通ったがホーリーボトルのおかげで接触する事はなかった。 無言で歩き続ける事半刻、これまでホーリーボトルは最初の物も合わせて二本を消費し残りは後三本。そろそろ目的地が見えなければ帰り道で、魔物と戦わなくてはならなくなる。ギュッと棍棒を握りしめ、辺りを見渡せばカーラがあっ、と声を上げた。 「あそこよ!あの角を曲がった先の洞窟!」 カーラの指差す先には確かに洞窟があった。 だが、その入り口を陣取るように一匹の魔物が立ちふさがっている。 「スノウウォント…」 鋭利な背鰭と氷の刀を持つモンスターの名前を呟くカーラの表情は硬い。音無しの洞窟への入り口はあそこだけなのだがスノウウォントが退いてくれる気配はない。 何か方法はないかと必死に頭を回転させていると、前を行くレイチェルがばっと走り出した。 「王妃…!?」 もはや悲鳴に近いカーラの声が後ろから聞こえる。 だがホーリーボトルの効果のおかげでスノウウォントはレイチェルに気がついていない。今だ。絶好の機会にレイチェルは棍棒を大きく振りかぶり、一気にスノウウォントの脇腹を突き上げた。 大きく空中へ投げ出されたスノウウォントはここでようやくレイチェルの存在に気がつく。とっさに氷の刃で狙いを定めたが、レイチェルの方が早かった。スノウウォントの後ろに回り込み素早く詠唱を開始する。 「ファイアーボール!」 次の瞬間、炎の塊がスノウウォントに直撃した。 微かな断末魔を上げ、スノウウォントが消滅するとレイチェルはへなへなとその場に座り込んでしまった。その一部始終をただ呆然と見つめていたカーラははっとしたように駆けより、レイチェルの顔を覗き込む。 「大丈夫ですか!?」 「ええ…平気…ただ」 「ただ?」 「久しぶりに動いたせいでちょっと力が抜けちゃった」 乾いた笑い声を上げ、レイチェルは恥ずかしそうに頬をかく。それに唖然とさせられながらもカーラはレイチェルに怪我がなかった事に安堵していた。 「…王妃、やはり帰りましょう」 「え…?」 「今の戦いは本当に見事でした。けれど魔物は群で行動する習性あるのです。いくらあなたでも多勢に無勢では勝ち目はとても…」 現に来る途中、数匹で屯している魔物達を目撃した。 レイチェルは表情を暗くさせ、顔を伏せる。確かに一対一ならばまだしも、大勢で掛かられてはこうはいかない。しかも魔物相手だけでなく知力を持った人間ですら相手にしなければならないのだ。レイチェルの感情はグラグラ揺れた。しかしその刹那… 「うわああああああっ」 音無しの洞窟から少年の叫び声が聞こえた。小さく耳を澄ませなければ聞こえないほどの叫声だったが、レイチェルの耳にははっきりと届いた。 俯いていた顔を上げたレイチェルにカーラは分かってくれたのだ、と手を差し伸べる。だがその手をレイチェルが取る事はなかった。 「王妃!!」 スルリと風のようにすり抜けた黒髪が薄暗い洞窟へ吸い込まれて行く。カーラの必死の叫びが虚しく高原に響いた。 111128 |