「あ、ありがとうございます!」


陳情を終えた民が平伏した。最近良く見られる光景にレイチェルはやんわりと微笑みを浮かべて、その背中を見えなくなるまで見守る。
次の陳情にきた民を呼ぶため、兵が謁見の間を出たのを見るとガイアスは自分から見て左下の玉座に座るレイチェルへ話しかけた。


「慣れたようだな」

「まあ、ね」


婚儀を終えて数日。
初めこそ平伏した民に上手く反応を返せなかったレイチェルだが、毎日それが続けば嫌でも慣れてしまう。
言葉を濁せば、ちょうど良く兵に連れられ、また一人の民が入ってきた。民は玉座の下まで歩くと膝をつき頭を垂れる。


「両陛下共ご尊顔拝見いたします」

「うむ。面を上げよ」


ガイアスの言葉がかかり民が顔を上げ、陳情を始める。
陳情の合間にガイアスが言葉を投げかけ、民がそれに必死に答える。そんな日常と化した光景をレイチェルは暖かな気持ちで見守り続けた。




陳情を終え、共に夕食を取った後はレイチェルの自由時間だ。この時間は、もっぱら自室にて読書に耽る。幼少以来の従者は婚儀の翌日泣きながらクレストア家に帰ったため、そばには別のメイドが控えていた。


「(やっぱりア・ジュールの文化はラ・シュガルと全然違う…)」


自分はこの国の王妃、謂わば女性の代表である。ア・ジュールの文化や習慣、歴史など全てを知っておく必要があるのだ。
だからこそこうやって城内の歴史書を集め、読み漁っているのだが…


「どれも似た事ばかり」


レイチェルは背もたれに深く身体を預けため息をついた。
それを見たメイドは暖かなお茶を差し出してくる。
良く気がきくものだ。


「ありがとう。美味しいわ」


たった数日で自分の好みの味を覚えるのだから凄い。
お礼を言いながら笑みを向ければメイドは恥ずかしそうに俯き、いいえ、と答えた。

メイドの名前はリジュと言い、翁ことコロウの遠縁に当たるらしい。まだレイチェルより年下の少女は実に優秀だ。
レイチェルは本の表紙を指でなぞりながらリジュへ問いかける。


「ねぇ、リジュはア・ジュールの歴史とか文化に詳しい?」

「い、いえ…私は、そこまで…一般常識しか…」

「そう…」


残念だ、と苦笑していると両開きの扉がゆっくりと開かれる。どうやらガイアスが執務を終え戻ってきたようだ。
瞬間、リジュが顔を真っ青にさせ肩を強ばらせた。
この数日で分かった事だがリジュはガイアスを極端に恐れている。


「リジュ大丈夫よ。もう下がっていいわ」

「し、失礼します…!」


ガイアスに会釈しながら小走りに退室する姿はあまり誉められた物ではなかったが、ガイアスは気にしていない様子で鎧を脱ぎ捨て、夜着へ着替え出す。
レイチェルは頬を赤くしながら後ろを向き、布ずれの音を聞き続けた。


「これには慣れんようだな」

「慣れるわけないでしょ!」


慣れたらそれこそ問題だ。目くじらを立て声を荒げたレイチェルの横にガイアスは腰掛け、その手に持つ本へ視線を向けた。
ア・ジュールの歴史、創世記、文化と習わし、などなど分厚い本が膝の上に乗せられている。ガイアスはその内の一冊を手に取るとパラパラとページを捲り、静かに問いかけた。


「歴史に興味があるのか」

「興味と言うか…知っておかないといけないと思って」

「殊勝な事だ」


小さく笑みを見せ、ガイアスは本を机の上に置いた。レイチェルの膝の上にあった本も同様にし、居心地の悪そうなレイチェルの髪を梳く。これは、ガイアスからすると誉める行為なのだが、レイチェルからするとたまったものではない。けれど振り払うでもなく優しい指の感触を受動していると突然ピタと指が止まった。


「ガイアス?」


どうしたの、と見上げてくる、つりがちな瞳にガイアスの顔が写り込む。
ガイアスはふむ、と唸るとレイチェルに答える事なく部屋の前に立つ兵を呼び寄せ、手短に何やら指示を飛ばす。
敬礼して廊下を走って行った兵を見送り、ガイアスはようやくレイチェルに答えた。


「歴史を知りたいのならうってつけの者がいる」

「え?」

「明日…もしくは明後日には登城するだろう。俺がいない間、お前に歴史を教えるよう頼んでみよう」

「え、ちょっと話が見えな、」

頭の中が混乱する。
歴史を教える?俺がいない間?て言うか一体誰を呼んだの?聞きたい事が多すぎて纏まり切らず、悩んでいる内にガイアスは寝台へ入ってしまった。


「ちょっと…」


慌てて、寝台へ近づきガイアスを見下ろす。しかしガイアスはもう寝ているようだ。疲れなど感じさせない顔をしていても、本当は疲れているのだ。起こすのは忍びない。
諦めたレイチェルは寝台に潜り、精霊術によって作られた照明を切る。ガイアスの言葉通り明日明後日には分かるのならそれを待とう。そう胸中で呟き、レイチェルは微睡みに身を委ねた。


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