ここア・ジュールでは婚儀三日前から当日までは、花嫁が夫を含め、男と会う事は禁じられといるらしい。
ちょうど四日前、それをガイアス本人から聞かされたレイチェルは拒否権はないとこくりと頷いた。幸い婚儀前のレイチェルの精神を気遣ってか、プレザがアグリアを引っ張って遊びに来てくれたり、花嫁衣装の採寸や婚儀における伝統的な礼儀作法など、様々な物事をこなしているおかげでこの三日前退屈はせずに済んだ。

そして準備を終え、婚儀を明日に控えた前夜。湯浴みを済ませたレイチェルは長い黒髪を櫛で解かしながらふうと重たいため息をついた。
噂には聞いてはいたがこれがマリッジブルーと言う奴か。


「(少しだけ怖いなんて言えないわね…)」


この三日間それこそ朝から夜まで王妃となるため、様々な事を吸収し、身につけては来たが所詮は付け焼き刃。いつ間違い、式を台無しにするか分からない。もしそうなればレイチェルだけでなく、夫となるガイアスの評価すら下げかねないのだ。
考えるだけで恐ろしい。レイチェルは知らず内に眉を顰めて重たいため息をつく。
自分はこんなに精神の弱い人間であったのかと考えたその時、扉が二度ノックされた。


「(こんな時間に誰が…)」


プレザもアグリアも先ほど帰ったばかりだし、自分付きのメイドもすでに下がらせた。
では他に女の知り合いで誰がいる。頭を悩ませつつ扉に近づけば三日ぶりに聞く低い声が扉越しに響いた。


「レイチェル…」

「あなた…!どうして…!」


この低い声は他でもない。明日の婚儀の際、再開する予定であったガイアスだ。
思わず取っ手に手をかけ、飛び出そうとすれば待て、と声がかかる。


「この三日間、会う事は禁じられていよう」

「扉越しとは言え、会いにきたあなたが言う台詞?」


呆れ混じりに問えば、くぐもった笑い声が聞こえてくる。


「確かに俺が言える台詞ではなかったな」


素直に否を認めたガイアスにレイチェルは顰めていた眉を解き、ほら見ろと笑い声をこぼす。
しかし数秒後、笑みを止め、冷たい扉に額を押し付けた。そして恐る恐る、子供が親に叱られるのを待つ心境で今一度ガイアスに問いかける。


「ねぇ、明日が少し怖いって言ったらどうする…?」

「レイチェル?」

「私、元々ラ・シュガルの人間だって事は知ってるよね?だからかな、ア・ジュールでの礼儀作法とか、そう言うのについていけるかとても怖いの」


そして何よりも―…


「あなたを失望させてしまうのではないかと、それが一番怖い」


今までになく弱気な発言にガイアスは目の前の取っ手に手をかけようとして…止めた。扉を開けて大丈夫だと優しく声をかけてやるのは簡単だが、先ほど待ったをかけたのは自分だ。
手を元の位置に戻し、ガイアスは囁きかける。


「俺はお前がどのような失敗をしようと失望などしない。第一、翁の推薦があったとは言え望んでもいないお前を妻にと選んだのは最終的に俺の方だ。その程度の事で放り出したりはせん」

「でも周りは、」

「…レイチェル、良く聞け」


なおも食らいついてくるレイチェルにガイアスは眼光を鋭くさせた。扉越しからでも分かるその気迫にレイチェルは唾を飲む。


「例えお前が俺の側にいられないと自分を深く責めたとしても俺はお前を手放す気はない」


まるで愛の告白のようだとレイチェルは思った。しかしガイアスにその意図がない事は声からして分かる。女の性か、高鳴った胸をレイチェルは心の底から恨んだ。


「……だから、今宵は安心して眠れ」


十もの歳の差故か、ガイアスはきっと自分を妹のように思っているに違いない。
レイチェルはそっとまぶたを伏せ、少しだけ唇を持ち上げた。


「ええ…ありがとう」


小さく痛んだ胸に気づかないふりを決め込みながら。




微かな灯りだけが灯る城内の廊下を歩けば、前方に己の片翼の姿が見えガイアスは足を止めた。ガイアスへ向けるウィンガルの視線は厳しく、雰囲気からして不穏である。


「婚儀前だと言うのにあの女の部屋に行ったようだな」


口調からして、ウィンガルは国を憂う参謀としてではなく、一個人としてガイアスと向かい合っているようだ。鋭い金色の瞳を一瞥し、ガイアスはふと微かに笑う。


「ウィンガル、俺はレイチェルには会っていない」

「部屋に行っておいて会っていないだと?とんだ嘘だな」

「嘘ではない。嘘だと思うなら見張りの兵に聞いてみるがいい」


嘘をついていない事は火を見るに明らかだった。しかし会っていないにせよ、花嫁の部屋を訪れるなど元よりあってはならない。古いしきたりに捕らわれないガイアスらしいと言えばそれまでだが守らねばならない事もある。ウィンガルは腕を組みため息をついた。


「…ガイアス、あの女に本気にはなるな」


静まり返った廊下にウィンガルの声は良く響く。
最初ガイアスは不快そうに眉を寄せたが、ウィンガルの真意を知るや否や王としての顔に戻り短く答えた。


「分かっている」


111105