婚儀の日にちを早める代わり、と言っては難であるがレイチェルはギリギリまで街医者の手伝いをさせる事をガイアスに要求した。以前レイチェルが陳情した件で、シャン・ドゥから助手が来るのは婚儀の翌日の予定である。それまではあの医院の忙しさは変わらない。ガイアスもそれには理解を示し、以前に比べ日にちは落ちた物のレイチェルが城を抜ける事は多々あった。 だがそれもそろそろ潮時だろう。ガイアスが直接言ってきた訳ではないが雰囲気からレイチェルは悟っていた。 今日もまた怪我をしてやって来た悪戯少年の傷を治し終え、レイチェルは椅子に深く腰掛け一服している医者へ目を向ける。民からの信頼も篤く、然現れたレイチェルを信頼し、何も聞かずにいてくれる優しい老医者だ。 悪気があったのではない。けれどそんな人物を今日まで騙してきたのに変わりはなかった。 後数日経てばレイチェルは正式にこの国の王妃となる。式の後の披露目の席で、それを知った時この人は、あの少年は、どう思うのだろう。それを考える度、レイチェルは日が暮れ、明日が来る事に一種の恐怖を感じてしまう。 「レイチェルさん?」 すると視線に気がついた医者が首を傾げた。レイチェルはギュッとワンピースのスカート部分を握りしめ、苦しそうに眉を寄せる。 「先生に…折り入ってお話ししたい事があるんです…」 「…なら、こちらに来なさい」 普段患者が座る椅子を指差され、レイチェルは従う。レイチェルが腰掛けたのを確認すると、医者は背もたれにもたれていた身体を起こしレイチェルに向き合った。その瞳は真剣に、なれど優しさが滲み出ている。 「…私は、明日から…ここには来れません」 絞り込んだような声だった。 語尾は震え、騒音の中ではまず聞き取れまい。休憩時間に入り、シンとした院内だからこそ聞こえたその声に医者はくしゃと目元を綻ばせた。それは普段から子供を相手にしている、この医者だからこそ出来る優しい顔だった。 「レイチェル・クレストア様だね」 「っ…なぜ!」 「一ヶ月前、陛下が仰っていたじゃないか」 一ヶ月前がレイチェルがカン・バルクに来た最初の日を差している事はすぐに分かった。 けれど手伝いを始めてから一度たりともその件に触れられた事はない。患者からも医者からも聞かれた事なく、だからこそ声を荒げてしまう。 「私だけじゃない。この医院に来る患者達みんな貴方について知っていると思うよ。知らないのはあの悪戯坊主だけじゃないかな」 「では、何故今まで…」 黙って働かせていたの。 聞かずとも分かる問いに苦笑して医者は答える。 「貴方はどうやら身分高い家の出身のようだ。それなのに貴方は陛下と同じようにそれを傲る事もなく、こんな老いぼれや患者達に分け隔てなく優しく接してくれた」 「老いぼれなど…!」 「ふふ、貴方はやはり優しいよ。こんな些細な事ですらこうして胸を痛めて下さる」 暖かな視線を送られれば、頬が赤くなった気がしてレイチェルはうっと肩を竦めた。 「まだ、理由をききますかな?」 「け、結構です!」 「ははは。では、最後に私からも一つ質問を…」 膝の上で組んできた指を組み直した医者の表情に笑みはない。どこまでも澄んだ瞳が真っ直ぐとレイチェルを見据えていた。 「何故、明日から来られなくなるのか…その理由を聞いても?」 その問いにレイチェルは赤い頬をそのままに柔らかく微笑んで見せた。もうこの人に隠し立てをする必要もない。 「私は数日後、ガイアス王に嫁ぎます」 声はもう震えていなかった。 凛として答えを述べたレイチェルに、医者は一瞬目を見張ると困ったように眉を下げ、また顔にあの優しい笑みを乗せた。 「そうか、それは寂しくなるなあ」 たった一言だけの言葉に医者の想い全てが集約されていた。レイチェルは深々と頭を下げる。これまでの感謝を込めて。そして涙で潤んだ瞳を見られないために。 五の鐘が響く頃、空き部屋の窓から帰ってきたレイチェルを出迎えたのはガイアスだった。前にもこんな事があったなあ。レイチェルは強烈なデジャヴを感じながら笑みを見せる。 「あなたが民を思う気持ちが少しだけ分かった気がする」 「…そうか」 レイチェルが居住区で何を見て、何を思ったのかは分からない。 けれどレイチェルが少しでも自分と同じ物を感じ取ってきたのなら、それは大変喜ばしい事だった。 数日後にはレイチェルは正式にガイアスの妻となり、この国を共に支えて行く存在となる。 花嫁衣装に身を包んだレイチェルを思い浮かべ、その隣に自分が立つのも悪くはないとこの瞬間、ガイアスは考えた。 111105 |