「とうとうあの女と同衾されたそうですね」 何時もと変わらぬ調子で発されたウィンガルの一言に、ガイアスは視線だけを返した。怒りは感じられない、淡々とした視線だ。 それにウィンガルも視線だけを返せば、ガイアスはふっと息を吐き出し口を開いた。 「予想出来た事だが、噂が広まるのは早いな」 「…噂?」 「俺はレイチェルと情を交わしてはいない」 ウィンガルはなんだ、と張っていた肩の力を抜いた。 今朝はやけに城内が騒がしかった。メイド達は頬を赤く染めながら世話しなく行き来していたし、翁に至っては今にぽっくり逝ってしまうのではないかと言うほど肩を震わせ、感極まっていた。後にプレザから事の次第を聞かされたウィンガルは、複雑な心境でガイアスに嫌み紛いの言葉を漏らしたのだが、どうやら間違いであったらしい。 「翁はさぞ残念がるでしょうな」 「騙したままでいればいい。その方があの爺も喜ぶ」 「中々酷い」 冗談めかしての発言ではあるが言葉の節々に本音が混じっている事にウィンガルはすぐに気がついた。しかしウィンガル自身、ガイアスの意見に賛成である。もし噂が嘘だと翁が知れば忽ち城内は荒れるだろう。ガイアスがア・ジュールをまとめ上げてもうすぐ十年が経とうとしているにも関わらず、あの翁の影響は今だ強かった。 翁は元々、前ア・ジュール王の後見人である。約十年前、悪政ばかりを働く前王に愛想をつかし、ガイアス達トロス側に味方した。翁が味方になったと言う事実はたちまち全国に広まり、前王に反感を持っていた兵達は次々と離脱。手薄になった城を攻める事など勢いづいていたガイアス達にとっては赤子の腕を捻るような物であった。これが後の世に聞く――… 「ア・ジュールの黎明である」 レイチェルは暖かな自室で分厚い本を開いていた。 昨晩、レイチェルが未読の本がないか探すために資料室へ行き、挙げ句の果てに閉じ込められたと知ったガイアスがウィンガルに頼み手配させた物である。しかし内容は以前読んだ事のある本と酷似しており、適当に見繕ったのだろうとすぐに予想がついた。自分も随分と嫌われたものである。 「…それにしても」 チクチクと突き刺さる視線にレイチェルは本を閉じた。 視線を感じるのは扉の方角である。 レイチェルは椅子から立ち上がり一呼吸に扉を開いた。 「一体だ…って、」 しかしそこにいた人物に言葉を見失う。 レイチェルより少しばかり高い位置から好々爺とした笑みでこちらを見下ろすその顔には嫌と言うほど見覚えがあった。 「コロウ様…」 翁、コロウは長い髭を触りながらもうあまり見えなくなっている眼を見せた。 「久方ぶりですなレイチェル殿」 「ええ…お久しぶりです。それより今日はどのような御用で…?」 主君の妻の私室を爺と言えど男が訪ねる事がどのような意味を持つか、この翁が知らないはずがあるまい。 怪訝に見上げるレイチェルに翁は笑みを困った物に変えた。 「なに、時期王妃が退屈しているのでないかと心配になったのですが…いやはや軽率でありました」 「それは、ご心配をおかけしまして…」 「何を仰る。爺の戯れ言、お忘れくだされ」 では、これにて。 翁は猫背を更に丸め会釈をし、廊下をゆっくりと歩いて行った。 翁の背が見えなくなるとレイチェルは壁によりかかり、たらりと冷や汗を流す。カン・バルクに来る前からあの老人はどうも苦手だ。 ふうと息をつき、レイチェルは扉を閉める。 時刻はまだ先ほど三の鐘が鳴ったばかり。何時もなら暇だと頬杖をつく所だが今日はウィンガルが選んでくれた分厚い本がある。読んでいれば時間は優に潰せよう。 再度椅子に腰掛け、レイチェルはしおりの挟まれたページを開いた。 111105 |