「どうしたの、その額」


一刻と経たない内に戻って来た周瑜は何故か額を真っ赤に腫らしていた。用事があると言っていたが額を腫らす用事とは一体何なのだろう。思わず問いかけてみれば周瑜はニタリと笑い手招きをする。素直に応じ、扉のすぐ傍に立つ周瑜に近づけば微かに開いた扉の先に見慣れた人物が立っている事に気がつく。


「兄、さん…」


その人物は紛れもない私の兄であり、この国の主である孫策その人で。私に向けられた鋭い視線に足が勝手に後ずさる。けれどすぐ後ろには周瑜が立っていて、ぶつかった私の背中をポンと押す。嫌な予感がした。だが気づいた時にはすでに遅し。廊下へ放り出された私は無情にも固く閉じた扉を呆然を見つめた。あの鬼畜軍師。悪態をつけど扉が開くはずもなく、私は微動だにしない兄さんに向き合えずにいた。


「白」


そんな私を見かねてか、兄さんが私を呼ぶ。
震える声ではいと返事を返せばカツンカツンと足音を響かせ兄さんがこちらに近づいてくる。それがまるで死へのカウントダウンのように聞こえ無意識の内に私はキュッと両手を握りしめる。

兄さんはきっと私を殺すのだろう。
たった一日、正式に嫁いだ訳ではないにせよ一度釆家の敷居を跨いだ以上私は釆家の人間と見なされてしまう。世は乱世。仕方のない事だ。
早くてあと数刻後、いや数秒後に私はあの人と同じように床に伏すのだ。他ならない大好きな兄さんの手によって。


「…………」


正直、怖い。
何より私を殺した後の兄さんと、何も知らず残された孫権達を考えると怖くてたまらなかった。守る所か、大事な人達を自分のせいで傷つけてしまうのが怖かった。

カツンと足音が止まる。
そして兄さんのとった行動に一際大きく心臓が跳ねた。
兄さんは刀を抜かなかった。
その変わりに、


「兄さん…?」


後ろから痛いくらいに私を強く抱きしめた。


「兄、さん」


周瑜に抱きしめられた時とはまた違う暖かい腕の中、目頭が熱くなった。


「白…お前達は俺が絶対に守ってやるって言っただろう。誰が…お前を殺すものか…」


その言葉に私は大声で泣き叫んだ。暖かい腕もこの涙も、その言葉も全てが父さんの亡くなった日と重なる。
今なら全てが許されると思えた。自分の心ですらも利用して、周瑜を始めとした周りに散々迷惑と心配をかけ、兄さんをこんなに悩ませたその全てを。とめどなく溢れ出た涙は頬だけでなく兄さんの着物にすら染みを作ったにも関わらず兄さんは私を咎めず、落ち着くまで泣かせてくれた。

止まらない涙を両手で拭い、私は必死に息を整える。
どうしても今聞いてもらいたい言葉があった。


「兄さん…私ね」

「………」

「好きな人がいるんだあ…」


微かに兄さんの腕は震えていた。それでもここで止める訳にはいかないから、扉の先にも届くよう精一杯声を張り上げる。


「許されるのなら私は、今度こそその人へ好きだって伝えたい」


夢で見た幼き日の私へ向けられたあの言葉を思い出す。全ては私次第。あの頃からすれば全てが変わってしまったけれど、それでもこの感情だけは変わらない。

固く閉ざされていた扉が開かれ、中から呆れたような、なれど暖かい目をしたその人が私の前に現れる。嗚呼、やっぱり好きだ。利用していた私の中の想いがやっと外に出られると唇を動かした。


「色々ごめんなさい…やっぱり私は貴方が好きみたい」


もし良かったら最後の最後にチャンスを下さいませんかなんて苦笑すればグンと腕を引っ張られる。一瞬の解放の後、今度は違う暖かな腕に捕らわれた。


「いい加減、それは狡いんじゃない?」

「うん、ごめん。でも何だかんだで周瑜は私達に甘いって知ってるから」


私を見下ろす周瑜の表情がやけに滲んで見えるのはきっと私が泣いているからだ。
でも今は笑っていたくて無理やり笑顔を浮かべれば周瑜は私の目尻を拭い何時ものように毒を吐く。


「白」

「なに?」

「酷い顔してるね」

「あはは、お互いね」


120228