いつもと変わらない寝室の天井。ゆっくりと身体を起こし辺りを見回すが、先日夫となった者の姿はない。それは普段通りの日常。だが、と視線を窓に滑らせる。時刻は既に朝の八時。いつもこの時間になれば様子を見に来てくれる侍女が来ない。
それに違和感を覚え、ひとまず服を寝間着から着替えると念のため護身用の棍を片手に部屋を出る。部屋を出ても尚、普段ある人の気配など感じさせないような空っぽの箱庭のような城。手始めに、と。民の陳情を聞く、謁見の間へと足を運んだ。
謁見の間へと進む間にも誰か人が居ないか、一つ一つ部屋を確認して進むも誰一人して居ない。兵士も、侍女も、料理人も誰一人として。勿論、この国の王の精鋭部隊の四人も。余りにも突然な異変。棍を持つ手が震える。

それから漸く辿り着いた謁見の間。ゆっくりと扉を開き、王座から降りてこちらに背を向けている姿に一息安堵した。見慣れた後ろ姿、見慣れた立ち姿。やっと自分以外の人間に、言い方を変えれば自分の夫に会えた。
とはいえやはり彼以外影や気配も見つけることなど出来なかったのだけれど。ゆっくりと近付いていけば気配で気付いたのか振り向いた姿。だがその瞳にはどこか困惑と疑問がありありと浮かんでいた。珍しいことに首を傾げる。


「ガイアス、探したわよ。一体全体どうして城に誰一人人がいなくなっているの?」
「………」
「…?ガイアス?」

自分の問いかけに口を開き、閉ざした姿に益々首を傾げる。言葉が出てこない珍しい夫の姿、そして人のいない城に疑問はますばかりだ。浅く溜息を吐いた所で、漸く視線を此方に向けた夫。けれど、どうしてか違和感を覚えてしまうのは何故だろう。
この人の居ない城の空気に自分が当てられたのだと、気のせいだと思い視線を合わせる。そうすればゆっくりと口が開かれる。


「……貴様は一体何奴だ?」
「……へ……?」

予想だにしなかった言葉に目を見開く。きっと今私は酷い顔をしているんだろう、けれど、それほどに衝撃を与えられた。目の前に立つ夫の瞳は真っ直ぐに視線を此方に向けている。見慣れたはずの赤が、違う紅に見えた。それが違和感だと、気付いた。
必死に頭を回すがちっとも冷静さを一気に欠けた頭ではまともな考えは何一つ出てこない。それを見かねたのか、溜息を吐き出した夫似の目の前に立つ人物。


「名は」
「…へ?あ、レイチェル、よ」
「レイチェル、か。お前は“俺”にとってどの様な存在だ?」
「一応、夫婦という関係よ」

手を顎に当てて考えている仕草さえ、普段の夫と何も変わらない。けれど目の前で思考を回している人は確かに私のことを知らないんだと理解した。此は所謂パラレルワールド、と言うものなのだろうか。一瞬一秒、小さな選択ですら様々に変わるうる世界。数多くの、様々な未来がある世界。
そう考えて、そして関係性を口にした瞬間に歪められた表情と瞳。それが酷く脳裏に焼き付いた。直ぐにその表情は消えはしたものの焼き付いたその表情は苦しげで悲しげで辛そうで。この“ガイアス”には、何があるのだろうか。
そう考えた時にまた交わった視線。


「どうやらお前の知っているガイアスは俺ではない。俺は王妃を娶るつもりはない」
「奇遇ね、私もそう考えていた所よ。恐らく何かがあって交わらない筈の世界と世界が混じり合って今この空間が出来ていると思うわ。身体の感覚的には触れているものも、感じているものも現実的だろうし」
「………」
「…な、何よ」

口にされた言葉に頷きを返し、纏めた考えを口にする。まさかこんな所で以前本に書かれていたハオの卵理論が世界的規模で役に立つなんて思わなかったが。考えを口にし終え、視線を再びガイアスに向けて漸くジッと見られているのに気付いた。
瞳からも表情からも何を考えているのかが分からないのはとことん似ている。思わず気分的に臆し、しかし強きに言葉を返せばフッと笑んだガイアスに目を丸める。そう、明らかに夫とは違う笑い方に驚いた。


「ユイにもそれぐらい考える位の力が欲しいものだな」
「ユイ……?それって……?」
「……恋人、のようなものだ」

そういってフイッと顔を逸らしたガイアス。けれど逸らす前に見えた表情は、苦しげに染まっていた。恋人と言ったのに、何故そんな苦しそうな顔をするのだろうか。ゆっくりと隣に並び立つ。視線が降り注ぐのを気付かないふりをする。棍を手にしたまま、視線を上げる。
かち合う視線。その瞳は明らかに拒絶なそれ。しかし其れに負けたくなかった。自分の夫もそうだ、そして今此処に立っている違う世界のガイアスもそうだ。何もかも苦しいことも悲しいことも辛いことも苛立つことも全てそう。負の感情を隠しすぎているのだ。今彼を知っている者達は居ないのだから、少しでも関係のない自分に吐き出して貰いたい。
どれほど紅の目を見つめていただろう。外された視線と同時に吐き出される溜め息。頭に手を置かれたと思えば歩き出したその背を慌てて追いかける。それからポツリと零れ流れ出す言葉。


「……聞いても面白くないし嫌悪すると思うが?」
「苦しそうにしておきながら良く言うわよ」
「……本当に違う世界の俺は気の強い女を娶ったものだな」

背中しか見えないけれど溜息交じりに吐き出された言葉は確かに笑みながら言ったように聞こえた。辺りを見回りながら歩くスピードは変わらない。彼が一歩前を歩く、その一歩後ろを私が歩く。
辺りに誰か人が居ないか確認しながら、広く長い廊下を歩く。


「……俺は王妃を娶るつもりは無い、そう言った」
「えぇ、先の言葉ね。どうしてなのか、聞いても良いかしら?」
「…俺は先に述べたユイ、そしてウィンガル。二人を……、愛している」

耳に静かに入り込んでくる言葉に、背しか見えない姿を驚きのあまり凝視する。自分の耳が間違いでなければ、ウィンガル、と。自分の夫の右腕を務めている黒の男が出てきたのだが。
気配で私の様子を理解したのか、喉で笑っている姿を見てハッとする。そう、確かに彼は笑っている。嘲笑っているのだ。それは諦めにも似た、けれど何処か違う笑い。自分にも嘲笑を向けているのだ。
静かに視線を背に向ける。


「滑稽だ、と思うだろうな。女を愛した上で、男をも愛すなど」
「……」
「それでも俺達はその道を選んだ。誰にも何も言えない苦痛で満ちた道をな」

彼の声が静かに廊下に零れる。恐らくまた表情は歪みに満ちている。けれど、私はそれをどうすればいいのか分からない。否、私は話を聞いてあげるしか方法は無いのだ。それが違う世界に居る私が出来る最低限の支えなのだ。
一度瞳を伏せ、ゆっくりと持ち上げる。目の前にある広くて大きな背中は私の夫と変わらず、民を導く。けれど、大きすぎるが故に愛した者達とは苦痛に道を行くしかないのだ。どうしようもない煮え切らない、気持ちに襲われる。


「…それでも俺達は納得し、理解して傍にいる。どんな状況下だとしても愛し合っている」
「……」
「だから、……お前が苦しまなくとも、いいんだが」

予想外の言葉に顔を上げれば、僅かに苦笑を零して此方に顔を向けている彼。気がつけば、歩みも止まっていた。それでも、と。ユイ、と呼ばれる子の事を考えれば表情が暗くなる。話を聞く限り、恐らく似たような歳の子だ。軍人でもある。
確かに彼が言うように、三人には何か、仲間や普通の夫婦のような絆ではない別の何かが合って繋がっているかもしれない。けれど、ユイは苦しんでいるのでは無いだろうか。周りに言いたくても、言えない関係だというのが、酷く彼女を傷付けているのでは。

止まらない思考に顔まで俯きそうになれば、顎を持ち上げられた。其処には夫と同じの心の強い、夫とは違う紅が真っ直ぐに合った。


「気にするな、と言っているだろう」
「だけど、」
「……言うことを聞かないならば、」


遊ぶだけだが?

そんな意味の分からない言葉に首を傾げた瞬間だった。額に何か柔らかいものが押しつけられたのに頭が真っ白に染まった隙に抱き上げられていた。紅い瞳を見下ろす形にされてから、我に返り先の行動を思い出し顔が熱を帯びる。直ぐ近くの紅は楽しげに瞳と口元が歪む。
手にしていた棍を勢いよく降れば、左手で易々と掴まれた。それに強く睨めば楽しげに喉で笑った後地面に下ろされた。直ぐに傍を離れて棍を構える。
それから暫くして視線が交じり、第一声。


「初だな」
「うるさい!!」

本当に世界が違うだけでこんなにも同一人物にもかかわらず性格が変わるのかと、心底我が夫がこんなんじゃ無くて良かったと心から感じていれば背を向けて歩んでいく。その後ろを未だ警戒しながら歩く。
二歩後ろを歩いていれば、耳に飛び込んでくる穏やかな声。


「……聞いてくれて、助かった」

それに顔を勢いよく上げるが、目の前を歩く男は振り向くことも視線を向けることもなかった。けれど、確かに聞いた穏やかな謝礼に思わず頬が緩んだ。


「どういたしまして」

それから時折彼の苛めを受けながら(もう嫌だこの男)人を探し回るものの、一向に見当たらない。溜息を吐き出した時、進む先から三つの声が聞こえて思わず走り出す。彼が警戒してからの呼び止める声が聞こえた。けれど近付けば近付く程、女の人の声と参謀の声と、夫の声なんだと確信する。
それから角を曲がった瞬間に運悪く人にぶつかった。尻餅をついて、痛みを堪えていれば聞き慣れたはずの懐かしい声で名を呼ばれた。
それに視線を上げれば、いつもの赤と参謀と、先に話を聞いた恐らくユイと言う女性。口を開こうとして近付いてくる足音に夫の名を呼び後ろに隠れる。別に隠れなくても良いのだが、確認というか、安心感を得たかったのだ。不思議そうに名を呼びながら頭を撫でてくれる夫に安堵の溜息が零れ落ちる。

未だ夫の後ろに隠れながら視線を三人へ向ければ、彼の言動に頭を悩ませつつも安堵の表情が広がっていた。それをぼんやりと見つめていれば突然歪む、世界。
倒れそうになるのを夫が支えてくれる。意識が引っ張られる感覚に身体が気怠く中に聞こえた声。彼に似て、芯の感じる声。

声がする方に視線を向け、小さく笑んだ。
貴方は貴方なりの幸せを掴めますように。

そう祈り意識は暗闇へと引きずり込まれた。










ゆっくりと目蓋を上げれば、見慣れた寝室の天井。数度瞬きをして窓を見るが、外はまだ暗い時間だった。短く溜息を吐き出せば腕を引かれて、気が付けば抱きしめられていた。
普段なら大慌てするその温もりも、今は心地よく甘受する。
それからふと思ったことを口にする。


「ガイアス、貴方も少しは素直になったらどう?」
「……いきなり何だ」
「少し、一緒に行動をしていた貴方と同じ姿をした人の心の内を聞いたの。だから、素直な言葉が聞きたいと思って」

じっと自分と赤い瞳を見つめる。表情は読めなくてもどことなく、戸惑っているのが分かる。それから暫くして小さな息と共に吐き出された一言。


「レイチェル」
「なに?」
「お前が愛おしくてしょうがない」

言われた言葉に目を見開く。ガイアスは愛おしげに見つめる瞳を細めるだけだ。それに恥ずかしさからか身体全体が熱くなる。
確かに素直な言葉が聞きたいとは、聞きたいとは言ったけど……───!!
どうしようもないやりきれない気持ちをどうすることも出来ず、ガイアスの胸板に顔を押しつける。上から聞こえる低めの楽しげな笑い声に軽くだけ、胸を叩いた。



異体験の初体験。

2012,3,24



癒羅様よりまたもやいただきました相互小説裏話です。
あの素敵話の裏でこんな事が起こっていたとは…サディストな陛下がいい味を出していてとても楽しく拝見させていただきました!
本当にありがとうございます!