捕まえた。 10.彼女の謎 グラウンドの隅で苗字に声をかけられて以来、彼女の姿を授業(それこそ体育とか)以外で見かける事が無くなった。 僕を避けてる、なんてバカらしい自意識過剰な考えはないけれどそれでもここまで、しかも視界にすら入らないとは何かあるんじゃないかと疑いたくもなるというものだった。 他の風紀委員からの目撃情報はあるため、一般的に草食動物である女子に怖がられやすい風紀を特別避けているわけではないようだけど。 …それはそれで何かムカつく。 まあ苗字はそもそも…ただの女子中学生、草食動物ではないのだと、わかりきってるけど。これはけして過大評価ではなく、確信。 …そうでなくちゃ、説明のつかない事象がそれなりにあった。 あの異常な運動神経、怪我に全く怯まない精神力、僕を見据えた血色に暗く光る肉食動物の眸。 そして――、 僕の攻撃を完全に避けきった、苗字の素早すぎた、且つ的確すぎた全ての動き。 あれらはただの偶然あるいは、反射神経が良いから、では済まされないはず。 恐らく、闘いに――慣れている。 もしかしたら、過去に敵を咬み殺した事もあるのではないだろうか。 …それも、一度や二度では済まされない回数で。 あの日、体育の授業で遠目からでも僕の興味を惹いた苗字。 予想通り屋上に現れた彼女は両膝から血をだらだらと滴らせながら(保健室に行かなかったのだろうか?)、僕と軽く交戦したにも拘わらず全く痛そうな素振りを見せなかった。 動きも膝(と、よく見ると両方の掌も怪我をしてるのがわかった)さえ見なければ怪我人と気付かせない程洗練されたモノで。 しかし気になったのは、両目の色もそうだが、やけに青白い顔と荒い息遣いだった。 紅すぎる鮮血のような瞳はカラコンで説明がつくとして――現実じゃありえない色を選ぶなんてバカだよね、せめて明るい茶色くらいに留めておけば僕も気付かなかったかもしれないのに…だから校則違反と見なされるんだよ――たかが転んだだけでそんなに青ざめるだろうか。 それに加えあの息遣い。運動後の疲労というよりは、あれではまるで発作を起こした重症患者じゃないか。救急車を呼ぶべきかと一瞬思ってしまった。校内で死なれても困る。 けれども話しかけると、多少落ち着いたのか顔色は悪いままだが普通に返事をしてきたので、僕もまあいいかと手加減はしなかった。 …咬み殺した後に救急車を呼べば済む話だし。 しかしながら僕の攻撃は全てかわされ――一撃も加えられないまま、間抜けにも僕は吹っ飛ばされたのだった。 あれは屈辱だったが、同時に苗字が肉食動物ではないかと疑うに足る材料が揃った、決定的瞬間でもあった。 …それでも、反撃はせずあくまで僕を遠ざけるだけの彼女に甘さを見た気がした。 しかしだからこそ、彼女が本気を出したらどうなるのかと更に興味も沸いてきたのだった。 ただ、飛ばされた後(受け身は当たり前だが取った)気になったのが、彼女に迫った時わかったのだけど、血のニオイが――、 妙に…甘ったるい、香りだった事。 今まで咬み殺してきた人間のどれにも当てはまらない、しいて言うのなら一度嗅いだら忘れないような、独特で強烈なモノ。 それでいてけして嫌な香りではなくむしろ、変な気を――殺しではなく、僕には今のところ全くもって興味のない方向性の――起こしそうになるような、初めて感じたソレ。 思わず、受け身を取った姿勢のまま片手で自身の顔を覆いそうだった。 ヒトの血とは、こんな――頭をぐらつかせるような、惑わすような――ニオイを、持っていただろうか。 *** それからすぐの事。 苗字の事を草壁に調べさせてみたが、3ヶ月程前に行方不明になった事を除いては、特に問題のない経歴だった。普通の家族構成、習い事も特に格闘技等をやっていたわけでもない。 持病も無いようだが、ではあの発作のような状態は何だったのか。 趣味は何だったか…そう、確かオタクと呼ばれる人間らしいが、これは関係ないだろう。…多分。 ただ、やはり目を見張ったのはその身体能力の高さだった。…頭の方は下から数えた方が断然早いという落ちぶれ具合だったが。 体力測定の結果も見てみたが、どれも他の女子に比べ、いや陸上部の男子でも出せるかどうかという記録の数々が並んでいた。しかも専門家に言わせれば数値にばらつきがあるとかで、おそらくこれは手加減によるものではないかとの事だった。…ふうん、まだまだ余裕があるっていうのかい。 考えられる要因は空白の3ヶ月の間に何かがあったという事だが、たったそれだけの月日で僕を退ける程の実力を――認めたくはないが、苗字は手に入れたというのか。 本当に、面白い人間が入学してきたものだ。 どうにかして苗字名前という女の秘密を暴きたい、本気の彼女と戦ってみたい。 この短い間で、僕はそのためには何をすれば上手くいくのかを考えるようになっていた。 *** そして(苗字の手掛かりを何も得られないまま)数週間が経った、今日。 特にいつもと変わらず風紀の仕事を片付けていると。 何の前触れもなく、ソレは来た。 《――すみませーん、職員室から書類を持ってきた者ですがー》 執務室のドアからノック音が響き、遅れて廊下から聞こえてきた女子生徒らしき声。 足音どころか…気配すら、全く気が付かなかった。 僕は大事な書類に皺が寄るのも構わず立ち上がり、そのままの勢いでドアを開け放った。 そこには、最近探しても見つけるどころか視界に入れる事すらできなかった苗字が、山積みされた書類を手に驚いた様子で立っていた。 女子には重すぎるはずの書類の山を片手で簡単に持ち上げているせいで、どこの出前かと思うような格好を取る苗字は、目の前に存在してるはずなのにその場にいないように感じる――つまり、存在感が皆無だった。影が薄いどころの話ではない。 それを指摘した途端に、誤魔化し笑いを浮かべる彼女の印象が急に強くなった。 …その気配の調節具合は、明らかなる異常。 そう、一般人として生きてきたなら一生必要としないだろうし得られもしないような――それこそ肉食動物が獲物を仕留める直前さながらの――気配の、そして足音の消し方。 少し睨んでみたが、へらへら笑うだけで口を割りそうにはない。…殺気も送ったのに、やっぱりと言うか、目が怯えない(痛そうな表情はしてたけど)。 屋上でもそうだった、流石、僕に立ち向かってきただけの事はある。 とりあえず、向こうから来てくれたのは好都合。 今日一日、彼女を観察するチャンスだ。 そうして、尤もらしい理由を付け強制的に、苗字をこの執務室に縛り付けておく事に成功した。 まあ香水云々は別にしても、運び役が必要だったのは嘘ではない。 彼女が体育以外残念極まりない成績なのは資料でわかっていたので、部屋で勉強する許可も出す。 しかし手ぶらでは勉強できないから教室へ戻りたいと言うので(確か彼女は1-Aだ)、面白そうだから制限時間を設けてみた。 その間に部屋の端に沿って置かれた書類に埋もれている資料置き場(とは言っても草壁が整理しているから粗方片付いてはいる)の真ん中辺りを空けておいてやった。下手に触れられても面倒だからね。 そんな事をしてる間に、やはりと言うか余裕すぎる結果で苗字は帰ってきた。 …片付けるところを見られなくて良かったなんて考えた自分に若干腹が立った。 あっという間に戻ってきた彼女は…任務失敗は死刑とでもいうような顔をしていたが、それだけの表情をする程には急いでいただろうに、息は上がっていなかった。 一体どんな手を使ったんだか。 …君はきっと僕を楽しませてくれる。 女子に対してこんな風に感じる日が来るなんてね――いつか本気の君を見せてもらうよ。 *** 苗字がこの部屋で勉強を始めて随分時間が経った。 一応注意はしたものの廊下の事もあって何となく予想はしていたが、彼女は静かすぎる程だった。 時折教科書をめくる瞬間、ノートに何かを書き込む間くらいしか聞こえてこない音達。それも、かなり耳をすませないとわからない微々たる物。 聞こうとしなければ意識から自然と消え去っていく。僕の仕事の邪魔にもならなかった。 たまたま目撃したのだけれど、途中で消しゴムを落としそうになったのか、掴むため動かした片手は目にも止まらぬ速さだった。 …そういえば屋上で飛ばされた時も動きが見えなかったんだっけ。 でもそれ以外は、こうして見ていても普通の女子中学生にしか見えない。 余程熱中しているのだろう。ノートの上を走る手は止まる事はない。 しかしここで、何となく彼女が何をそんなに必死に書いているのか気になってきた。 先程から教科書には目も向けず、ノートにだけ夢中になっていたからだ。 彼女に気付かれないように、仕事机から離れ背後から近付く。 大人しい草食動物が好みそうな、およそ苗字には結び付かない彼女曰く趣味とやらの匂いがする。それとシャンプーかリンスか、彼女の髪から仄かに香るそれと混ざった匂いが、彼女の香りなのかとふと思った。 …当然なんだろうけど、“あの”ニオイは感じない。 最初はカラコンを付けていた事もありチャラチャラしたオシャレだかなんだか知らないが、そういう理解しがたいモノに現を抜かす下らない女なのかと思った苗字。 しかし予想以上に逞しくこうして勉強も一生懸命やる彼女に、少なくとも今はマイナスの感情を抱く事はなかった。 |