あれは事件だったと、恐らくは誇張抜きで言えるんだろう。凡庸な小さな街で数十年振りに起きた事件は、事の顛末までもがそのセンセーショナルさに相応しい速度で人々に浸透した。だから誘拐事件の被害者となった円堂は正に渦中の人物と言えたし、そんな彼女が一年ぶりの登校を果たしたとなれば、給食目前という遅れ過ぎな時間帯と相まっていとも容易くクラスに沈黙をもたらした。
教室中の音が全て円堂の開けた扉から逃げ出したのだと錯覚する程の静けさに浸された頭の奥からしみだすような耳鳴りが煩い。笑いきれていない担任がおそるおそるジェスチャー混じりに席に着くよう指示すると、円堂は三度ほど机や同級生に体をぶつけながら着席を果たした。あっけからんとした無表情が事件の被害者とただのクラスメイトの狭間を頼りなく揺れて周囲に戸惑いを生み出し、その何とも言いがたい空気を感じとったクラスメイトは話しかけることを躊躇っている。所謂、腫れ物扱いだった。
時間と共に居心地の悪さが増していく中、給食を終えて昼休みを迎えた当の円堂はおもむろにサッカーボールを抱えこんだ。同時に浮かんだ笑顔がそれまでのひやりとした無機的な雰囲気を払拭し、少しばかりの気まずさを残すのみとなった途端瞬く間に人の輪が生まれ10人弱が一斉に円堂へ話しかける。衝突を起こして最早言葉ともとれない声を、円堂は全て聞き流して快活に笑った。
「(…あれ?)」
その笑顔を見ながら、ざわざわとした違和感に首を傾げる。果たして円堂はあんな風に笑う奴だっただろうか。雑多な言葉を聞き流せる奴だっただろうか。サッカーやろうぜと、あんなに明るく男勝りな口調で話しただろうか。いやそもそも、円堂はそんなにサッカーが好きだっただろうか。確かにいつも一緒に居た吉良ヒロトとはサッカーばかりしていたけれど、そう言えば吉良ヒロトはどうしているのだろう。
ひやりとした疑念を覚え、満ちたはずの胃の底がごぼごぼと嫌な音を立てたことに大袈裟なくらい肩が揺れる。慌てて前後左右に首を巡らすと、たじろいでいるのは俺だけじゃなくて、半径2メートルくらいまでが戸惑いの表情を浮かべていた。ぶつかりあっていた言葉が嘘のように失せる。

辺りの空気を綺麗さっぱり無視してなおサッカーしようぜと笑う円堂に、周囲は戸惑い混じりに口を閉ざす。痛々しい沈黙を破って一番最初に話しかけたのは去年からおんなじクラスの女子、おのさんだった。少しばかり意外。確か、おのさんは少なからず円堂を疎んでいたと思うのだけど。というか大概の女子はあまり円堂を好いていなかった。女子に好かれない女子というやつなのだろう、円堂は常に女子の輪から外れて吉良ヒロトと共に居た。今から思えば悪循環のように吉良ヒロトとの粘着力が疎外を助長していた気がしないでもない。
「あ、あのね、ヒロトくんどこにいるか、知ってる?」
「(…あ、そういうこと)」
色恋沙汰に疎い俺でさえ気づく程に分かりやすく、おのさんは吉良ヒロトのことが好きだった。本人の様子から見るに、過去形にするのは些か気が早かったらしい。おのさんは吉良ヒロトが好きだから吉良ヒロトとべったりな円堂が嫌いだったし、吉良ヒロトが居なくなれば気にせずにはいられず、たとえ嫌いな円堂に尋ねるという本人からすれば大変屈辱的であろう行為に至ろうとどうにか吉良ヒロトの行方を把握したいらしい。
しかし円堂は目の前に進み出たおのさんの話など聞かず、サッカーボールを掲げてサッカーする?と笑顔で首を傾げた。当然、話を聞いてもらえなかったおのさんは怒りを露にし、わたし怒ってますという顔で円堂の服の裾をひっぱって些か乱雑に返事の催促をする。
「わたしの話聞いてる?」


ねえ、まーちゃん!


そういえば、おのさんは吉良ヒロトと同じように円堂を呼んでいた。吉良ヒロトのご近所さんで、保育所からの仲らしい。そして俺と円堂も似たような感じ。小学校後半ともなればそんな関係はほぼ風化しているのだけど。そんな呑気でどうでもいい考えが頭によぎった。
しかして現実では、円堂がサッカーボールをかなぐり捨てておのさんとの距離を詰めたところだった。元々そんなに間隔があった訳ではない二人の顔が急激に近づいて、もう少しで鼻の頭がぶつかり合いそうな間柄になっている。円堂が大事に抱き抱えていたサッカーボールが床に落ちて跳ねる音が空々しく、ざわざわと忙しないお昼休みのざわめきから浮き立つように円堂とおのさんを真ん中に据えた俺たちの回りだけが居たたまれない静けさに満ちていた。
「    」
「まーちゃ、なに、」
「ヒロト?本物、ヒロト?嘘じゃない?ヒロトどこ行ってたの、わたし沢山探したのにヒロトヒロトったらヒロトヒロトヒロトヒロトねえねえヒロト返事してヒロト返事ヒロトヒロトヒロトねえったら!」
「は、え?ヒロトくん?え…?」
がくがくとおのさんの肩を揺さぶり問い詰める円堂はいたって真剣で、それはそれは必死で、口端からぷくぷくとはみ出た白い泡と猫みたいに引き締まった瞳孔が殊更に痛々しさを増長していた。苦悶の表情が泣き出しそうな雰囲気と混ざり合って触れたら切れる鋭いナイフのような危うさを匂わせる。背筋に冷たさを押し付ける空気の中、肩を捕まれたままのおのさんの顔はわけがわからないと言いたげにぽかんと呆けていた。おのさんだけじゃない、たけいさんもわきたさんもなかのさんも、そして俺も。
次第に円堂の言葉が単調になり、壊れたカセットテープのように奇怪な単語の羅列と化して行く。からころとのどかなチャイムの音を背中に、暗転、暗転、暗転。



「珍しいな風丸が居眠りなんて」
「ああ…懐かしい夢を見たんだ」
「へえ、そうなんだ」
特に気にとめることもないまま、円堂はサッカーやろうぜと笑顔を浮かべた。それに応じて席を立つ。
円堂が「イナズマイレブン凄いんだぜ!」と言って雷門に入学した今となっては、周囲に事件以前の円堂を知る人物はほとんど居ない。まーちゃんと呼ぶ人間も居ない。円堂にもたらされた歪みは周囲の記憶の風化に伴って日々の中に埋没した。何も知らないことで安寧を得られるのならば、それで良いのだ。サッカーバカの円堂守の不幸なんて誰も知らなくて良い。どうかどうか、願わくはこのまま幸せに。

それが可能な望みかどうかは、また別の話として。







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