積雪は溶けゆく(√A)
重い瞼を持ち上げると、暗く、酷く荒らされたあんていくの店内が目の前に在った。
店中に染み付いたやわらかな珈琲の芳香と、自身から未だに零れる血液の匂いが鼻孔を擽る。不思議と痛みは感じなかった。ただただ全身が気だるく、頭も霞がかかったようだった。
ふと、一層闇の濃い側から、聞き慣れた音が聞こえてくるのに気が付いた。残り香のようなそれとは別に、焙煎したばかりの芳しい豆の香りが強くなる。
何故か警戒も気配を探ることもせずに、カネキはそこをじっと見つめた。
僅かな水音と、かちゃん、と陶器が軽くぶつかる音を最後に、一瞬の静寂が訪れた。

「意外に難しいんだなぁ、コーヒー煎れるのって」

まるで雑談の途中のような声音で、彼は楽しげに言う。足音を立てながらカウンターの奥から徐々に現れる姿に、心臓が跳ねた。まさか、どうして。

「よ、金木」

なんで、どうしてここに居るんだ。

「ヒデ……」

呆然と目の前に立つ親友の名を口にする。こんな時間に何故。なんでCCGの隊服を着ている。いや、それよりも、今僕の右目はどうなっている?
思い立って、咄嗟に赫眼を覆い隠した。強く押しあてた手が震えるのを止められない。
顔を背けて怯える僕の姿に、ヒデは小さく苦笑した。

「知ってた!」

明るく掛けられた声に、恐る恐る顔を上げる。ヒデは穏やかな表情のまま、金木、と僕の名前を呼ぶ。

――珈琲の香りの奥で、とろりとした甘い芳香が増した。
ああ、そっか。血を流しているのは僕だけじゃない。ストンと腑に落ちたように、ごく自然にそう思った。ヒデは喰種ではないんだ、早く、手当てをしないと。

「金木」
「うん」

ゆっくりと、足元に血溜まりが広がっていく。

「帰ろう?」
「……うん。帰ろう」

血の気の薄くなった顔で、ヒデは、いつものように明るく笑った。


――いつの間にか、あんていくの内装は消えて、白い花が咲き乱れる場所に居た。腕の中の重みはまだ温かい。花弁よりも白いシーツを被せたヒデの身体を、しっかりと抱き締めて歩き始めた。

「ねえ、ヒデ」

ずっと聞いて欲しいと思っていた事があるんだ。リゼさんの事、あんていくの事。守りたかった人達のこと。独り言のように、ぽつぽつと語った。
ヒデが笑いながらもやしっ子と称したこの身体も、守りたいその一心で鍛え上げてきた。でも、一番守りたかった人は、今自分の腕の中で徐々に冷たくなっていく。

守りたかった。大切だった。

「帰ろう」

一緒に帰ろう。僕たちの居るべき場所は、此処じゃない。






重い瞼をゆっくりと持ち上げると、白い天井が見えた。クインケ鋼でコーティングされたベッドに繋がる鎖が、手足を拘束している。
白い壁。白いシーツに自身の白髪が散らばる。白いワンピースのような服。色素の抜けたような青白い肌が溶け合って見えた。
このままじゃ、溶けて、雪崩て、潰されてしまうだろう。

「――帰りたいよ、ヒデ――」

乾ききった喉で声にした言葉は、真っ白な部屋に消えた。


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