どれくらいの時間が経っただろうか。
いつの間にか辺りは静寂を取り戻していて、自分の荒い呼吸のみがやけに浮いていた。
身体から力が上手く抜けず、きつく瞑った目蓋をこじ開ける。
明るくなった視界に飛び込んできた景色に異常はなく、葉の掠れる音と遠くから聞こえる鳥の囀りがあまりにも穏やかで、強張った身体が少しだけ緩んだ。
心臓の鼓動がまだ早い。
思わず零してしまった涙の跡を乱暴に拭い、深呼吸をひとつ。
現実逃避だろうか。喉もと過ぎればなんとやらで、先ほどの恐ろしい数分間が遠い昔のことのように感じた。
胸を撫で下ろして何気なく視線を足元に落とす。
――その瞬間、頭が真っ白になった。
ぺたんと座り込んだままの脚。白の衣装から覗くふんわりとした肉付きのそれに寄り添うように鈍く光る、銀色のボディー。
「…ひ、ぁ……」
喉がヒクリと引きつる。
再び襲い来る恐怖に悲鳴すら上げられず固まる透を尻目に、無情にも通話ボタンが押された。
『――クスクスクス』
吐息に混ぜた嘲笑。
子どもの声色のそれに純粋さは一切なく、冷たさだけが伝わってくる。
不意に、背後に『何か』が立つ気配がして息を詰めた。
目を見開き、地面をただただ見つめ続ける透の耳元で背後の気配がそっと囁く。
『やっと、見つけた』
「ぃ、や……、…ッ !?」
喉元に引っかかった悲鳴を吐き出そうとして、突然走った激痛に遮られる。
喉の奥、まるで赤くなるまで熱せられた鉄棒を押し込められるような激しい痛み。うずくまって、両手で喉を押さえても痛みは一向に引かず、ぼろぼろと大粒の涙を零した。
痛い。頭の芯がぼんやりと輪郭を失って、それしか考えられなくなる。自分が今ちゃんと呼吸出来ているのか、そんなことさえ分からなかった。
溢れる涙に歪む視界がゆっくりと傾き明度を落とす。
倒れた衝撃さえ感じない。
喉の痛みは熱さに変わり、発熱しているのか、横たえた身体に地面の冷たさが心地よかった。
朦朧とする意識を手放す瞬間聞こえたのは、電話の狂った笑い声と耳元で囁かれる言葉。
『迎えに行くから』
鼓膜を直接震わせる音。
その余韻を感じながら、透は目蓋を閉じた。
「――――」
見上げた空が、仄かに赤い。明らみ始めてもなお降ってきそうな星空だ。
ぼぅっとする頭と力の入らない身体をなんとか起こして、辺りを見回す。僅かな星明かりも木々に遮られて地上には殆ど届いていなかった。
……どのくらい気を失っていたのだろう。
夜の暗さに目が慣れず、状況が把握出来ない。目を凝らしてみると空に近い枝葉が辛うじて見えた。
自分の居るこの場所まで光が届くのはもう数時間程先だろう。
あの恐ろしい現象を引き起こした携帯がまだ近くにあるのだと思うと、必要以上にその場を動くことが出来なかった。
(でも、野犬とか居そうなんだよな……この森)
時々聞こえる獣の声。
いくら夜明けが近くても、これ以上無防備のまま夜の森に居るのは危険すぎる。
(……のど、渇いた。川か何か、見つけないと)
あの灼けるような痛みはもうないが、代わりに喉の渇きが酷かった。
水が欲しい。
(ここ、露が降りる場所なら、いいんだけど……)
起こしたばかりの身体をもう一度横たえる。
ただでさえ疲労している今、無駄な体力を使うわけにはいかなかった。
朝露が降りるまで無事で居られるか、それとも朝を迎える前に獣に襲われ息絶えるか……。
ここが分かれ目かなーなんて考えてみる。
これが夢じゃないとしたら。
(異世界トリップとか……笑えねー……)
ほんと、笑えない。
(――……、ん)
頬に冷たい感触。
はっとして透は目を開いた。
いつの間にか眠ってしまったようだ。しかしそのおかげか、今度は意識もしっかりしている。
(……っ、朝露!)
頬を流れた雫に触れて、バッと上を仰ぎ見た。
朝日が少し眩しい。頭上に生い茂る葉に、無数の大粒の水滴が輝いていた。
頬に当たった雫もここから落ちたのだろう。
恵みの水だ。
急に起き上がったせいでクラクラする頭に眉をしかめながら、こぼさぬよう慎重に葉を支えて喉を潤す。
夢中になってそれを繰り返していると、身体の奥の方から力が湧いてくるのを感じた。
―――俺、まだ生きてる。
死ぬほど痛い思いもしたし、身体は元と比べものにならないくらい小さく非力になってしまったけど、それでもまだ生きてる。
(死んでたまるか……)
(絶対生きてこの森を出てやる……!)