6
分厚い外壁に囲まれたその村は、日が暮れようとしているにもかかわらず和やかな活気に溢れていた。
早く品物を売ってしまおうと声を張り上げる商人、果物を手に取り吟味している女性、値下げ交渉をする若者、寄り添って歩く夫婦――。
通りはそんな人達で溢れかえっている。

しかし老人はそちらにはちらとも目をくれず、薄暗い路地のような道へと進んでいく。……てっきり、大通りを行くものだとばかり思っていたのだが。

老人は慣れた様子で閑散とした狭く曲がりくねった通りを歩いていく。
結局誰一人見かけることないまま、木造の大きな家の裏手にたどり着いた。
裏口の扉に付けられた金具を三度打ち鳴らす。

「はぁい」

家の中から軽やかな、それでいて落ち着きのある女性の声が応えた。
扉ががちゃりと音を立てて開かれる。

現れたのはどこか優雅な雰囲気の初老の女性だった。老人よりも少し若いくらいか。元から色素が薄かったのだろうか、真っ白な髪を高い位置でゆるく纏めている。

そんな彼女と目が合って、丸くなった鳶色の瞳が瞬いた。そのままじっと見つめられてしまい、少々気まずくなる。

「……寒かったでしょう、お入りなさいな」

にっこりと微笑んで扉を広く開けてくれた老婦人に、思わず頭上にある老人の顔を伺ってしまった。

「入ろうか、坊や」

その柔らかい表情を見て、老婦人に向き直る。
どうやら彼女と老人は気の置けない仲のようだ。

ゆっくりと一礼をしてから、暖かな明かりの灯る家に足を踏み入れた。





「あら……まあまあまあ!!」
「っ!?」

いきなり少女のように目を輝かせた老婦人に両手で頬を挟み込まれた。

(はっ!? ちょ、ちょっと…!!)
「坊やはいくつなのかしら? 明るい所で見るとますます可愛いらしいわぁ、髪も瞳も本当に漆黒なのね!」

その勢いに圧倒されるが思い切り抵抗する訳にもいかず、その場でわたわたと手を振って抗議してみる。

「……そのくらいにしてやれ、アリシア」
「……あ。あら、いやだわ……ごめんなさい。つい興奮してしまって」

――老婦人はアリシアという名前らしい。
大丈夫ですというように微笑みながら首を振れば、今度は頭を撫でられた。

「そういえば、自己紹介がまだだったな。私の名前はウルグ・ハリオッド。こっちは妻のアリシアだ」
「よろしくね、坊や」

なるほど、二人は夫婦だったのか。

笑顔を絶やさないアリシアさんを見て、どうすれば声に出さずに自分の名前を伝えられるだろうかと考えを巡らせる。
それに気付いたのか首を傾げているアリシアさんの隣で、ウルグさんが声が出ないことを伝えてくれる。

少しの逡巡の後、出来るだけゆっくり唇を動かしてみた。

(と、お、る……)
「ノーム?」

違う。首を横に振った。
読唇術なんて使える人は限られているから、当たり前の結果ではあるけれど。

「坊や、文字は書けるかな?」

また、首を横に振る。此方の文字がどんなものかは分からないけれど、商店街でチラリと見えた文字は日本語とも英語とも違っていた。YESかNOでしか意志を伝えられないことがもどかしくて仕方がない。


俯いてしまった俺を見て、少し考えるような素振りをしたアリシアさんが、何か思いついたように手を打ってこう言った。

「カイルはどうかしら?」

カイル?

「この世界を創った、リアナ様の愛息子のお名前なのよ。世界中の海を守っている、優しくてとても綺麗な神様」


……そんなにすごい神様の名前を貰ってもいいのだろうか。
考えが顔に出ていたのか、アリシアさんにそんなに珍しい名前じゃないのよ、と微笑まれる。

「ねえ、あなたもいいと思わない?」
「そうだな……、坊やにはよく似合う名前だと思うよ。もちろん坊やが気に入れば、だがな」

どうかな?と訊ねられて、何度も何度も首を縦に振る。
どこの誰かも分からない、それも声が出せないなんて面倒な子供を助けてくれて、その人たちが立派な名前までくれようとしているんだ。
気に入らないはずがない。

そんな俺の様子を見て、ウルグさんが頬を緩めた。

「――疲れただろう。着替えを用意するから、今日はもう休みなさい。……カイル、苦しくなったら私達を起こしていいからな。隣の部屋だから遠慮しなくていい」

あの、不思議な石のおかげで右肩の傷はもう痛まないが、確かに酷く疲れていた。
疲労を自覚すると急に身体中が重怠く感じられて、素直に休ませてもらうことにする。

「それなら寝室に案内しましょうね。カイル、こっちよ」


――そう言って先を行くアリシアさんを追う俺の背に、複雑そうな視線を向けられていたことなど知るよしもなかった。




「――……っ、は……」

その夜、ウルグの言葉通りに熱が出た。

ゾクゾクと背筋を走る寒気にどうしようもない気持ちになって、力の入らない手を握り締める。ベッドに入る前に拭った身体も汗でべたついてしまっている。身体に纏わりつくシャツが気持ち悪かった。
もう一度身体を拭いたい衝動に駆られるが、それを上回るだるさに断念し、大きく息を吐き出す。

(熱出すなんて何年ぶりだろ……)

最後に寝込んだのは小学生の時だった気がする。
でもその時だってここまで辛くはなかった。……風邪を引いた訳じゃないから、当然のことかもしれないけど。

ふと、窓が視界の隅に入った。涙の膜でぼやける空に、月も星も見当たらない……まるで誰かが黒いマジックで塗り潰したような。


……怖い。


まるで心まで幼い子どもに戻ってしまったように、掛布を頭まで引き上げて膝を抱え丸くなった。
あの闇に乗じて、獣たちが襲ってくるのではないか。そんな不安が胸を横切って堪らなくなる。

……森に居る時はこんなことを考える余裕などなかった。
でもこうして安全と思える場所で一人になった途端、怖くて震えが止まらない。


体温が移って、掛布の中の狭い空間が暖まる。
また熱が上がったようだ。
渇いた喉を潤したくなって、そろりとベッドサイドの水差しに手を伸ばした。

(……あれ、)

手に取った透明硝子の中に水はほとんど残っていなかった。
少し迷ってから、水差しをもとの位置に戻す。
怠い身体を半ば強引に起こして、ひやりとした床に足を下ろした。窓の方を見ないようにしながらドアへ向かって歩く。

今は何時頃だろう。
隣で寝ているかもしれない夫婦を起こさないように出来るだけ静かにドアを開けた。




(台所は確か、……右の角を曲がって、突き当たりのドア……)

ぼんやりとする頭でアリシアの案内を思い出しつつ、足音を立てないように気を付けながら進んでいく。
幸い廊下にはあの不思議な石が照明としていくつも使われていたので、かえって寝室よりも落ち着くことができた。

「――……だが……、……り…や…。――――」


「―――?」

リビングから、わずかな光と話し声が漏れてくるのが聞こえた。

(ウルグさんとアリシアさん、まだ寝てなかったんだ……)

なんとなくその会話を邪魔してはいけない気がして、そっと部屋の前を通り過ぎようとした。

「――……で、カイルを助けたのだよ……」

(……俺の話し?)

彼らが付けてくれた自分の名を聞いて、つい足を止めてしまう。

「あんなに見事な漆黒、王家にだって現れたことありませんよ」
「ああ……それは私もよく知っている」
「――もしも、もしもあの噂が本当だとしたら……あの子は、」
「それ以上は言ってはいけないよ、アリシア。それはあってはならない事だからな」
「そう、ね……ごめんなさい。あなた、カイルの声のことですけれど……」
「ああ……呪いを受けているようだ。上級の扱うような強力な呪いだった」
「上級の? でも、カイルはちゃんと……」
「――ちゃんと、生きているな。最初から喉を潰す気だったのか、殺すつもりだったのかは知らないが……、そいつにとってカイルは何かしらの邪魔になる存在だったのだろう」


(……のろい―――呪い? 上級? そいつ……って、誰だ?)


「――兎に角、しばらくはここでカイルを保護しよう。いずれにしても、王に報告しなければならん」
「……闇の魔力ね」
「、気付いたか」
「あの子に触れたときに感じました。カイルはまだ5歳くらいでしょう? 知力も高いようですし、私でも気が付くほどの強い魔力を持っているなんて」

ほぅ……と、感嘆とも憐憫ともつかぬため息を洩らして、アリシアが続けた。

「光と闇を併せ持つなんて。このことだけでも生きているのが不思議なのに……」
「……闇の方はまだ微弱だ。こっちは魔法具で抑えればいい」
「光だけなら、忌避されることはありませんものね」
「口の堅い馴染みの店がある。明日行ってくるよ」
「それがいいわ……。ねえ、あなた」

どことなく暗い雰囲気を払拭するように、アリシアが明るい口調で言う。

「明日カイルが目覚めたら、文字を教えたいと思っているの。書斎にあるいらない紙を見ておいてもらってもいいかしら?」
「ああ、分かった。朝食までに纏めて渡そう――」





水差しの底に僅かに残った水を飲んで、ベッドに転がった。

漆黒。呪い。魔力。闇。生きているのが、不思議――?

考えれば考えるほど頭が混乱してくる。
多分、こういうことなのだろう。この世界には魔法があって、魔力が人にあって、ああ、それじゃあ光る石はさしずめ魔法石というところか。
そして黒は王様たちが持っている色?
――声が出なくなったのは、誰かが、呪いをかけたから。

(わけわかんね――……)

わざわざ殺そうとした?
確かに、あの時殺されると覚悟したけど、そこまでされるようなことをした覚えは断じてない。


――頭が痛い。


掛布の中に潜り込んで目を閉じる。
熱の為だけでない涙が一粒、真っ白なシーツに染み込んでいった。




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