5
ガッ――!!

「!?」

右肩を襲った衝撃を受け止めきれず地面に転がった。

――ああ、なんて馬鹿だったんだろう。逃げ切ったものと完全に油断していた。まだ、気を抜いてはいけなかったのに。

地面に投げ出された両足の先に、ごわりとした硬い毛皮が触れた。
終わりだ。
脚も、腕も、鉤爪に裂かれた肩も、指一本さえ動かせない。
力が、入らない。

――やっと、ここまで来たのに。

せっかくの獲物を逃すものかというように、前脚で胸の辺りを押さえつけられる。獣が顔を覗き込んだ。
血生臭い息が顔面に直接吹きかけられる。近くで見るその化け物は一層おぞましく、ここが異世界だということを改めて感じさせられる。

ぬらりとした赤い目玉が鈍く光るのが、霞がかった視界にやけに鮮明に見えた。


(なんで、こんな所で死ななくちゃいけないんだろ、俺)

―――そんなに悪いこと、してなかったはずなのになぁ。

ぽろりと零れた涙が、乾いた地面に吸い込まれる。

(この世界にも、天国とかあればいいな……)


――獣の牙が喉に触れた。

次に来るはずの痛みから逃げるように、透はゆっくりと眼を瞑った。





「――そこを動くんじゃないぞ!!」



空気を震わせ、鳴り響く銃声。
耳をつんざくような断末魔を上げて獣の巨体が倒れる。途端、辺りに腐臭が満ちた。


いま、何が起きた――?


「坊や、大丈夫か!?」

呆気に取られてその死体を見ていると、慌てて駆け寄ってきた老人が助け起こしてくれた。
肩に掛かった猟銃と、火薬の匂い。

――俺は、この人に助けられたらしい。


ほとんど白く染まった金色の髪と、深い緑灰色の瞳。
若い頃はさぞかしモテただろうな、と思わせるような笑い皺のある穏やかな顔立ちの老人だった。

しかしその顔も、今は焦りを色濃く浮かべている。

「魔物の爪にやられたか……」
(……魔物?)

引き裂かれた右肩の傷。あれだけ痛かったはずなのに、すっかり忘れてしまっていた。
俯いて確かめると傷口が紫色に爛れて腫れ上がっているのが見える。……痛みが無いのは、毒で麻痺していただけだったようだ。

――魔物、か。

あの獣の姿を思い出すと、そんな物騒な響きの名詞にも妙に納得してしまった。

「よく頑張ったなぁ、坊や。少し痛むかもしれないが、じっとしていてくれ」
「…、」

(――あれ?)

はい、と返事をしたつもりだったのだが、……恐怖の名残で声が出にくくなっているのだろうか。
言葉としては言えなかったが、同時に首を縦に振ったため肯定の意志は伝わったらしい。
老人は一つ頷くと、懐を探って使い込まれた革の小袋を取り出した。
紐を解いて中から白い小石のようなものを摘み出す。子どもが宝箱に仕舞うような、角の丸い小さくて綺麗な石だ。
その石が傷口にあてがわれる。……やはり、痛みは感じなかった。
それを確認した老人が口の中で何か長い言葉を呟く。


変化はすぐに起こった。


(うっわー……ファンタジーだ……)

ふわっと石から放たれた柔らかな乳白色の輝きが紫色の傷口を包み込む。
どこか暖かい光はだんだんと勢いを弱めて、最後には石ごと砕け散ってしまった。

「思ったより深かったようだな……。坊や、立てるかな?」

差し出された手に有り難く縋って立ち上がる。少しクラクラとしたが、直にそれも収まった。

「熱が出るだろうから、今夜は私の家に泊まりなさい。あの魔物は強い毒を持っているからな」


ありがとうございます。


そう、しっかりと発したはずの声。それはただの呼吸音にしかならなかった。
いくら声を出そうと息を送っても、声帯を震わせることができない。
真っ青になって喉に手をやり、口をぱくぱくと開閉している様は老人から見ても異常だったらしい。

「どれ、見せてごらん」

焦って首元を掴む手をそっと外させて、目線を合わせるように屈む。
喉に触れた老人の顔が明らかに強張った。

「どうしてこんな子どもに……」
「……?」

不安になって老人を見つめる。
しばらく固まったように動かなかった老人は、その視線に気付くと慌てて顔に笑みを形作った。

「――坊や、疲れただろう。日が暮れる前に行こうか」

……こくりと、頷いてもう一度老人の温かい手を握った。


(俺に――子どもに、聞かせる話じゃないのかもしれない)

老人が無駄に隠し事をしたり、嘘をついたりする人間ではないということは会ったばかりの透にも分かる。

夕暮れが近づく道を、2人はゆっくりと歩き出した。
歩きやすいようにと老人が歩調を合わせてくれる。

「……これもリアナ様のお導きかもしれんな」
「?」
「光の女神様さ。坊やはきっと、神に導かれたんだよ」
「…………」


――導くなら、もっと安全な道へ導くとかしてくれればよかったのに。

初めて聞いた神様に咄嗟にそう思ってしまった俺を誰が責められようか。

だんだんと近づいてくる村の外壁を見つめながら、これからの生活を思う。
色々苦労もあるだろうが、あの森での出来事に比べれば……と考えるとなんとかなりそうな気がする。


(何があっても、前向きにいこう)


老人と繋いだ手をしっかりと握り直して、二人は村へと急いだ。




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