キッチンに漂う咽せ返りそうなほど甘ったるい香り。
毎年この時期になると、この家のキッチンはそんな甘い香りに支配される。
「***、なぁんか今年はやけに張り切ってる気がする……」
「そ、そんなことないと思うけど…」
「じゃあこのチョコの山は?去年も一昨年もこんなに作んなかったのに」
そう言ってミリーが指差したのは、カウンターに所狭しと置かれたチョコレート菓子の山、山、さらに山。
ミリーに指摘されて初めて、自分が異常な量の菓子を作っていたことに気付く。
「………」
「ね?すんごい量でしょ?」
「改めて見るとちょっと…作り過ぎた……かな」
「うん。ヒソカ拷問する気なのかと思ったもん」
「ごう…」
拷問だなんて心外だ。
このチョコレート菓子の山は、日頃の感謝と愛情を込めて作ったバレンタインのプレゼント……だったはず。
でも、甘い物を特別好んではいないヒソカにこの量を食べさせるのは、流石に拷問…と捉えられても仕方ないのかも知れない。
「…でもねミリー、今年はヒソカだけじゃないの」
「……もしかして例の黒髪美人…名前なんだっけ、えっと…イルミさん?」
「そう!今年はイルミさんにも贈ろうと思ってるの。遠くに住んでるから郵送になっちゃうんだけどね」
「ふぅ〜ん……いいなぁーイルミさん。あたしも***の作ったお菓子食べたい食べたい食べたいー!!!」
子どものように手足をばたつかせて駄々をこねるミリー。
いい年の大人が何をして…とも思うけど、童顔の彼女が駄々をこねる姿には違和感が微塵も無くて。
結局、仕方ないなぁなんて流されてしまう。
「これだけ量もあるし……ちょっと食べちゃおうか」
「っうん!!食べる!!!」
むくれた顔から一転、嬉しそうに笑う。
彼女のぱぁっとした明るい笑顔を見て、わたしまで笑顔になってしまった。
「……で結局、その大量の菓子は自分達で全部食べたてしまった…ってことかい?」
「………ハイ、そういうこと、です…」
「◆」
…不甲斐ない。
本当に不甲斐ない。
あの後、ミリーと作ったお菓子食べながら紅茶飲んでいたのだけど…
ミリーが幸せそうに笑いながら食べてくれるから、つい色々と与えたくなってしまって。
そんなこんなであの大量のお菓子のストックはあっという間に底を突いてしまった。
辛うじてイルミさんの分は残っていたけれど、ヒソカの分は…言わずもがな。
「反省は?」
「…ひへ、まふ」
それどころか猛省してる。
全ての非は自分にあるのも分かっている。
だから頬を引っ張られても今回は抵抗しない。
痛いけど、
ものすっごく痛いけど…!
「ボクはちゃーんと用意したんだけどなぁ」
「え…?」
「プレゼント。今年もあるんだ」
ヒソカが悪戯っぽく微笑む。
確か去年は、両腕じゃ抱えきれないほど大きな薔薇の花束を貰った。
ベタだなぁなんて思って、そのときは思わず笑ってしまったけど…
ヒソカの気持ちがこもったプレゼントが、何より嬉しかったのを覚えている。
「でも…」
プレゼント…なんて言ったけど、どこにもそれらしき物は見当たらない。
ヒソカが持ち帰ったキャリーバックにもそんなものは入っていなかったはず。
少なくとも、洗濯物を取り出した時には見なかったと思う。
「去年喜んでたし、今年も花束でもイイかと思ったんだ。ケド……」
そう言いながらヒソカは棚の方を見た。
なにを見ているのかと視線を辿れば、そこには色とりどりの花が生けられた花瓶。
今朝方届いたこの花は、イルミさんからのバレンタインのプレゼントだ。
「…被りそうだったからねぇ。違うモノにして正解だ」
ヒソカは意味深に目を細めたかと思うと、ふいにわたしの手を握った。
「な、なに…どうしたの?」
「いいから、付いておいで」
プレゼントをあげるから、なんて言って連れて行かれたのは、ベランダに続く窓の前だった。
「…なんにもないけど…」
「ココにはね。ほら、開けてごらん」
そう言って窓を指さされた。
ベランダに出ろ、ということなのだろうか。
ヒソカの真意が読み取れないから少し不安だけど、意を決して窓に手を掛ける。
周囲にいたずら用の罠が仕掛けられていないことを目視で確認してから、深呼吸を2回。
そっと窓を開けてみると、そこには、
「わ……っ!」
視界に現れたのは、庭いっぱいに咲き誇る無数の薔薇。
赤、白、オレンジ、ピンク
色とりどりの薔薇が庭一面に植えられていた。
「すごい…!こんなのいつの間に植えたの?」
「んー…ナイショ◆」
そう言ってヒソカは人差し指を唇に当ててみせる。
意地悪なんだから、なんて悪態をついてみたけど、言葉とは裏腹にわたしの顔は緩みっぱなしだ。
植えられた薔薇に近付いて、花を触りながらじっくりと観察する。
どの薔薇も鮮やかな色をしていて、すごく綺麗だ。
こんなに立派な薔薇の手入れができるなんて、今から楽しみでしょうがない。
小さな花しかなくて少し寂しかった庭が、一気に華やかになったし、なによりこの薔薇は育てがいがありそうだ。
ほんとに、わたしには勿体ないくらいの素敵なプレゼント。
「…ありがとう、ヒソカ。すっごく嬉しい」
気の利いたお礼の言葉なんて思いつかないけれど、この胸に溢れる感謝と嬉しさが少しでも伝わるように、精一杯の気持ちを込めてお礼を言った。
「どういたしまして。お気に召したかな?」
「うん!ヒソカからのプレゼントだもん、気に入らないわけないわ」
わたしがそう言うと、ヒソカは満足そうな笑みを浮かべる。
たくさんの薔薇に囲まれながらふたりで笑い合うなんて、随分とロマンチックなシチュエーションだ。
まぁ、ヒソカとわたしじゃあ、そんなシチュエーションもなんの効果ももたらしてはくれないのだけど。
「…***」
「ん?なぁに?」
「キミからもプレゼントが欲しいな」
「え……っと、…今?」
「そう、今」
……正直、突然そんなことを言われても困ってしまうのだけど。
もちろん、これだけ素敵なものを貰っておいてお返しをしない、なんて不躾なことをするつもりは毛頭ないけど…今すぐとなると話は別だ。
お菓子の代用品もなにもまだ用意できていないし、他にあげられるようなものもない。
んー…どうしたものか……
「悩んでる?」
「そりゃあ悩むわよ…だって、ヒソカにあげられるようなもの、なんにもないんだもの」
「あるだろ?今すぐプレゼントできるモノ」
「…?」
なにを…と言う前に、ヒソカがわたしの手を掴んで自分の唇に押し当てた。
瞬間、ヒソカの言わんとしていることをなんとなく理解した。
「たまには***からキス、してくれるかい?」
この風景に合った、ちょっと色っぽいような目と声。
ヒソカはずるい。
そんな風に下手に出て言われたら、わたしが拒否できないこと知ってるくせに。
「…ほっぺでいい「却下」
…あぁ、やっぱり、妥協案や拒否権は存在しないみたい。
この年にもなって、幼なじみに自分からキスをする…なんて正直恥ずかしい、というか照れくさいけれど……仕方ない。
照れ隠しに咳払いをひとつして、手を伸ばしヒソカの頬に触れる。
「…ハッピーバレンタイン、ヒソカ」
唇が触れる前、目を閉じる寸前に見たヒソカは、すごく優しい笑みを浮かべていた。
2013.2.14
Happy Varentine !