![]() 跡部視点 忍足の隣で幸せそうに笑う姿を見て、胸の奥が疼いた。 本当なら、自分に向けられていただろう笑顔は、もう俺の手に入りはしない。 それでも欲しくなるのは、取り戻せないと分かっているからだろうか。 けれど、奪う事など出来はしない。 そんな事をしても、失うだけだ。 無意識に握り締めていた手の平を開けば、くっきりと爪の痕が付いていた。 「痛ぇな…」 もう、この手には何も掴めない。 ● ● ● 廊下の曲がり角から出てきて、俺に気付かずに背を向けて行こうとするなまえの手を、俺は衝動的に掴んでいた。 触れたその小さな手は温かいのに、俺の指先は冷えていく。 「あの…」 戸惑うばかりのなまえに、俺が言うべき言葉など、ある筈もなかった。 しかし、 「すまなかった。」 俺の口から出たのは謝罪の言葉だった。 だが、それは何に対する謝罪なのか、自分でも分からない。 「大丈夫だよ。」 それなのに、自分でも分からない言葉の含意をなまえは汲んでくれたようだった。 「あのね、本当に好きだったよ。幼い恋心だったけれど。それでも…大好きだったよ、景吾くん。」 かつてのように呼んで、俺に向き直ったなまえは、とても綺麗に微笑んだ。 まだ、俺の為に笑ってくれるのか。 「ありがとうな……なまえ。」 「ううん。私こそ、ありがとう。」 「……何故だ? お前は辛かっただけだろ?」 俺は大切な人を思い出すことが出来ず、挙句には酷い言葉を投げつけて傷付けた。 あの涙が、まだ脳裏に焼き付いている。 「そんなことないよ。出会わなければ良かったなんて、好きにならなければ良かったなんて、思ったことはないから。」 なまえは穏やかな瞳で微笑み、自分の胸元に手を当てた。 「全部、大切な思い出になって私の中に残っているの。だから…ありがとう。」 「……思い出、か。」 掴んでいたなまえの手をそっと離すと、指先に感じていた温もりはあっという間に消えていった。 「景吾くん……幸せにしてあげられなくて、ごめんね。」 悲しげに目を伏せるなまえの優しさが、今の俺には痛かった。 「それは俺の台詞だ。」 「ううん、私は幸せだったよ。会えない間もずっと、景吾くんを想う気持ちで心がいっぱいだったから。」 「……そうか。…これからは、忍足の奴に幸せにしてもらえよ。」 俺には、もう無理だから。 「うん。…景吾くんも幸せになってね。」 「…ああ。」 「あのね、景吾くんは私にとって一生特別な人だよ。いつも、いつまでも、幸せを願っているから。」 俺のことを特別だと言って微笑んだなまえを、俺は今度こそ絶対に忘れないだろう。 「俺も…お前の幸せを願っている。……なまえ、俺は…次は間違えない。次は絶対に大事にする。」 いつか、大切な人が出来たなら、その時は。 「じゃあな、なまえ。」 もう呼ぶことは無いだろう名前を最後に口にした。 「うん、さようなら…景吾くん。」 優しいばかりの思い出に背を向け、振り返ることなく、俺は歩き出した。 幸せを願っています そして、俺は俺の幸せを見つけよう。 ← |