short


※悲恋

後輩/ヒロイン視点


窓から明るい春の日差しが射し込む音楽室で、私は一人、ピアノの傍らに立っていた。

ここは、私にとって特別な場所だ。

彼が現れてから、ずっと。

昼休みにピアノの練習をしていた私は、突然の彼との出会いにとても驚いたのを覚えている。

彼は雲の上のような存在だったから。

だけど、たまたま音楽室の前を通りかかった彼は、私のピアノを聴いて立ち止まったのだという。

私が弾くピアノの音を気に入ったと、彼は気まぐれにここへ来るようになった。

ここで何度も共に過ごしたけれど、彼は多くを語らず、また私も多くは聞かなかった。

でも、彼と同じ空間を共有できる時間は、私にとってかけがえのないものだった。

淡いけれど、私には想いがあったから。

だけど、あの幸せな時間が訪れることはもうない。

彼は今日でこの学園を去り、自らの夢を叶える為に遠い異国の地へと旅立つのだ。

少し重く感じる蓋を開けて、光沢のある白と黒の鍵盤をそっと撫でる。

「こんな日までここにいたのか、お前は。」

もう聞くことはないと思っていた声に驚いた私の手が、耳障りな不協和音を鳴らした。

早鐘を打つ胸を押さえながらドアのほうを見る。

「……すごい格好ですね、跡部先輩。」

ドアを開けて立っていた先輩の金色に近い薄茶の髪は乱れていて、くたびれた感じのブレザーにはボタンが一つもない。

「あいつら、加減ってもんを知らねぇからな。」

そう言って、鬱陶しそうに前髪を掻き上げ、先輩は眉間に皺を寄せた。

「それでここに避難ですか?」

ゆっくりと私のほうに近付いてくる先輩を見つめる。

これが本当に最後だから、その姿をこの目に焼き付けておきたい。

「お前、俺に言うことがあるだろ。」

目の前に立った先輩はとても真剣な表情をしているけれど、その蒼い瞳には微かに悲しみの色が見える。

それで分かってしまった。

彼が何の為にここへ来たのか。

私は彼にとって少しは意味のある存在だったらしい。

それなら、彼には一番綺麗な私の姿を覚えていて欲しいと思う。

溢れそうになる涙を堪えて、私は精一杯の笑顔を作った。

「私…跡部先輩が好きです。本当に、大好きです、跡部先輩。」

ちゃんと笑えたと思ったけれど、涙は零れてしまった。

「…ありがとうよ。」

先輩の静かな声はひどく優しい。

「その気持ちには応えてやれないが…」

なぜか先輩は自分のネクタイを緩める。

「割と気に入っていたぜ、お前の事は。」

解かれた赤いネクタイが私の首にかけられた。

私の濡れた頬に伸びそうになった手を引き、先輩は背中を向ける。

その背中には、誰も寄せ付けない孤高の強さがある。

「じゃあな、なまえ。」

音もなくドアが閉められて、静寂が戻ってくる。

残された私は首から外したネクタイを両手で握り締めて、崩れ落ちるようにその場に座り込んだ。

今更になって思い知る。

本当は自分がどれだけ彼を好きだったのか。

だけど、もう終わりだ。

彼が終わらせた。

終わらせてくれた。

それが優しさだと分かっている。

ちゃんと向き合ってくれた彼の誠実さも分かる。

でも、それでも、溢れるものを止めることは出来ない。

温かい涙が次々に零れ落ちる。

この流れる涙が私の想いならば、いつになったら止まるのだろうか。

涙を止める方法が分からなくて、私はただ静かに泣き続けた。



遠くに去った恋

(2013.03.11)

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