恋人/ヒロイン視点
冬の寒さが少しずつ緩み、春の暖かさを肌で感じるようになってきた。
穏やかな陽射しと暖かな空気の中、葉のない枝の蕾が膨らみ始めている。
儚くも美しい薄紅色の花が咲き誇るのは、そう遠くないだろう。
真っ白な皿の上には、ソースが添えられたりフルーツが乗せられたりしていないシンプルなレアチーズケーキが鎮座している。
銀色のフォークで一口の大きさに切り取って口に運ぶ。
フィリングはとてもなめらかな舌触りで上品な甘さになっている。
「お前、甘い物はやたら幸せそうに食べるよな。」
よっぽど頬が緩んでいたのだろうか。
隣で景吾くんが小さく笑う気配がした。
「だって、おいしいんだもん。幸せな気分になるよ。」
にこにこしながら景吾くんを見れば、景吾くんはひどく穏やかな表情を私に向けていた。
「そうかよ。」
景吾くんは小さく笑いながら、私に触れるだけの口付けをした。
「っ……な、なに?」
突然の不意打ちに、私は持っていたフォークを落としそうになってしまった。
「いや、何も。」
景吾くんはなんだか満足そうに柔らかく微笑むと、優雅な仕草で繊細な模様の描かれたティーカップを傾けた。
私は景吾くんのとは別に用意されていたコーヒーのカップを手に取った。
(あ…)
コーヒーに口をつけた私は、思いのほか飲みやすいことに驚いた。
たぶん、苦味も酸味も苦手な私でも飲めるようにブレンドされているのだろう。
すごく嬉しい気持ちになって、私はさらに頬を緩ませた。
コーヒーカップをテーブルに置いて、ソファーの隣に座っている景吾くんの肩に自分の頭をもたれさせる。
景吾くんが私の肩を抱き寄せる。
「なまえ、今日は何かしたいこととかはないのか?」
「急にどうしたの?」
私は隣の景吾くんを見上げて、小さく首を傾げた。
「ホワイトデーのお返しがケーキとコーヒーだけってことはないだろ。」
「そうかな? これで十分だけど。この温室もすごく綺麗だし。」
改めて見渡せば、周りには色とりどりの薔薇が咲き乱れ、その一部は上品な芳香を漂わせていた。
この季節に薔薇に囲まれて、二人きりでティータイムを楽しんでいるのは、とても贅沢な時間だ。
「今日はいくらでも甘やかしてやるって言ってんだ。」
耳に落ちてくる景吾くんの声がひどく甘くて、頬が熱を持ってくる。
「いつも私には甘いのに……急に言われても、思い付かないよ。」
「つまらねぇな。お前の我侭ならいくらでも聞いてやるってのに。」
本当につまらなそうな表情をする景吾くんに、私は困ってしまう。
「時間があれば一緒に居てくれるし、ほかに望みなんてないよ。」
「本当に何もないのか?」
「うーん…」
なにか言ったほうが良いのかなと思い、ちょっと考えてみる。
(……そうだ。)
ひとつ、小さなお願いことを思い付いた。
「あのね、景吾くん……手、繋ぎたい。」
いつも一緒に歩く時には(景吾くんの希望で)腕を組むから、手を繋いだことはなくて、少し憧れていたのだ。
「今ここで、か?」
「うん。…だめかな?」
「そんな訳ないだろ。」
景吾くんの骨ばった手が私の手を優しく握る。
「違うよ。」
私は自分の指を景吾くんの指に絡ませて、手を繋ぎ直した。
「フッ……こう、だろ?」
景吾くんが私の手を少し強めに握り返してきて、手の平がぴったりとくっつく。
隣にいる景吾くんを見上げると、とても優しい蒼色の瞳が私を見ていた。
(2012.03.03)
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