恋人/ヒロイン視点
せっかくの休日なのに、私は景吾の部屋で勉強用とは思えない豪華な細工の施された机に向かっていた。
ドイツ語の授業についていけなくて、景吾に教えて欲しいと頼み込んだからだ。
本当なら今頃は二人で出かけて楽しい時間を過ごしていたはずなのに。
だけど、景吾は少しも嫌な顔をしないで私に勉強を教えてくれている。
きっと私が選択科目である第二外国語でドイツ語を選んだ理由を察しているからだろう。
景吾の部屋にある外国語で書かれた本は特にドイツ語のものが多くて、私は景吾の好きな本を原文で読みたかったのだ。
そういう訳で、頑張って集中していたのだけれど…
「け、景吾……もう限界。頭、痛くなってきた…」
とっくにだけど許容量を超して、私は机の上にパタリと突っ伏した。
「ったく、まだこれからだってのに……まあ、休憩も必要か。」
「あと、疲れた時は甘いものがいるよねっ!」
パッと顔を上げて机の横に立っている景吾に期待の眼差しを向けると、苦笑いと一緒に頭を撫でられた。
「分かった、何か用意させる。」
「ごちそうさまでした!」
空になったティーカップをソーサーの上に戻して、ふかふかのソファーに背中を預ける。
顔なじみのメイドさんが持ってきてくれたケーキと紅茶はいつもながらおいしくて、すごく満足だ。
これで勉強がなければ最高なのだけれど、そうは言っていられない。
そもそも自分の為だし、景吾に時間を割いてもらっているのだから頑張らないと。
「なまえ、いい方法を思い付いたぜ。」
「え…?」
景吾は頭に疑問符を浮かべている私を抱き寄せて、自分の足の間に座らせた。
「行儀悪いよ。」
ソファーに片膝を立てている景吾の長い足をぺちっと軽く叩く。
「別にいいだろ。それより…」
後ろから片腕を回されて、景吾に抱き締められる。
「文法規則も大事だが、耳で覚えるってのも勉強法としては有効だ。」
そう言った景吾のもう片方の手には、ドイツ語のテキストがあった。
「…確かに。」
聞き流して覚えるから簡単だというような内容のCMをやっている外国語の教材があったなと思い出す。
「それに…俺の声、好きだろ?」
吐息を感じるくらいの距離で、艶を含んだ少し低めの声で囁かれ、ピシッと固まってしまう。
「あ、あの…っ この体勢になる必要はないよね?」
景吾の足の間から逃れようとするけれど、腰に回されている片腕はびくともしない。
「大人しくしろ。わざわざ教えてやってんだ、少しは俺にも楽しみがねぇとな。」
「……分かりました。」
こっちからお願いしている手前、我侭(?)は言えない。
それに…私だって景吾とくっついていられるのは嬉しい。
でも、ちゃんと勉強になるのだろうか。
私の内心の葛藤をよそに、景吾はククッと喉で笑ってからテキストの文章を読み始めた。
不思議なもので、授業で聞くのとはぜんぜん違い、景吾の声で紡がれると音楽のようにさえ聞こえる。
景吾はテキストのページを捲る以外は、私の髪を撫でたり梳いたりしている。
服越しに伝わってくる温もりと、いつもより落ち着いた景吾の声が心地好くて、眠気を誘われてしまう。
もちろん寝ている場合じゃないから集中しようとするのだけれど、私の目蓋は重くなっていく。
必死で睡魔を追い払おうとしていたら、急に景吾の声が止んだ。
「悪い子だな。」
「…っきゃあ?!」
いきなり耳に唇を押し当てられ、眠気は遥か彼方へと吹き飛んだ。
「寝そうになってただろ。」
「だ、だからって…」
景吾の唇が触れた耳を手で押さえると、すごく熱くなっているのが分かった。
「なまえ…」
押さえていないほうの耳に唇を寄せた景吾は、ひときわ甘い声で何かを囁いた。
「…今、なんて言ったの?」
ドイツ語なのは分かったけれど、テキストに載っている文ではなかったように思う。
もしかしたら、景吾が最近よく読んでいるゲーテの詩集の一節とかだろうか。
それとも…?
「気になるんだったら、頑張って勉強するんだな。」
景吾は教えてくれる気がないようで、またテキストの続きを読み始めた。
だけど、景吾がなんて言ったのかが気になってしまって、集中は出来なかった。
きみに幸せを
(2013.05.18)
←