後輩/ヒロイン視点
下校中に突然の夕立に遭ってしまい、私はずぶ濡れになりながら家への帰り道を走っていた。
頭に乗せている学生鞄の中身を心配しつつ必死に足を動かすけれど、水分を吸ったローファーが重い。
「なまえっ!」
突然に名前を呼ばれたと思ったら、ぐいっと腕を掴まれた。
驚く私の腕を引っ張りながら前を走る人を見上げると、銀色のしっぽが背中で跳ねていた。
「あの、仁王先輩…」
一度も振り返らずに走る先輩が足を止めたのは、自宅であろう家の前だった。
制服のポケットから取り出した鍵で玄関のドアを開けた先輩におずおずと声をかけると、やっと私のほうを振り返ってくれた。
「今の時間は誰もおらんけぇ、気にせんで上がりんしゃい。」
「…は、はい。」
色素の抜けた髪から雨雫を滴らせる先輩の姿は破壊力があり過ぎて直視できず、ぱっと視線を逸らす。
小さく息を吐いた先輩が濡れた前髪を乱暴に掻き上げるのが視界の端に映った。
「安心しんしゃい。俺はお子様には興味なか。」
私が警戒していると思ったらしい先輩の言葉に、ずきりと胸が痛んだ。
(興味ない、か。)
大人びている先輩にとって、年下の私なんて対象外なのは分かっていたことだ。
だけど、はっきり言われると落ち込んでしまい、私は誰もいないリビングで小さく溜息をついた。
遠慮したものの押し切られて、私が先にシャワーを貸してもらい、今は先輩がシャワーを浴びているのだ。
再び溜息をついてから、手に持っているマグカップの中のホットココアに目を落とす。
私は、諦めなければならないのだろうか。
「……嫌だな。」
中身の減っていないマグカップをテーブルの上に戻すと、先輩が飲んでいたらしいコーヒーが目に留まり、私はそれに口をつけてみた。
「苦い。」
口の中に広がる味に顔をしかめ、マグカップを元の位置に置くと、ぽろっと涙がこぼれた。
「どうしたんじゃ、なまえ?」
先輩が戻ってきたことに私は気付いていなかったけれど、後ろから声をかけられると同時に俯いた頭に大きな手が置かれた。
いつもなら嬉しいと思う手の感触も、今は胸を苦しくさせるだけだ。
「なんでも、ないです。」
ぎゅっと唇を引き結び、手の甲で涙を拭う。
「お前さんは何でもないのに泣くんか?」
ソファーの背もたれ越しに後ろから抱き締められ、突然のことに身体が強張る。
「っ、……やめて、ください…優しくなんて、しないで…っ」
「俺はなまえに優しくしたいんじゃけど。」
先輩の息が首筋にかかり、びくりと身体が震える。
「可愛いのう、なまえは。」
くつりと喉の奥で笑った先輩は私の頬に柔らかく口付けた。
先輩は私をどうしたいのだろうか。
自分より何枚も上手である先輩が考えていることなんて、私に分かるはずもない。
完全に私の許容量を超えていて、ひどく頭が混乱する。
だけど、先輩は…きっと全部分かっているんだ。
「かっ、からかわないでください!」
「…なまえ?」
いきなり大きな声を出した私に先輩が驚いているけれど、言葉が止められない。
「仁王先輩は……ひどい人です。私の気持ち、知ってて…」
そうなんだ。
この人が気付いていないはずがない。
それで牽制するようなことを言っておきながら、こんな…
「知ってるからじゃよ。」
「っ、…分からない。……先輩のこと、全然っ、分からないよ…っ」
先輩の腕から逃れようと身を捩るけど、私を抱き締める力が強くて、それは叶わない。
「俺は何とも思ってない相手に触れたりせんよ。…気付いてなかったんか? 俺が名前で呼ぶ女はお前さんだけじゃ。」
「……私、だけ…?」
それはつまり、私は先輩にとって特別だということなのだろうか。
「ほんと、に…?」
抵抗を止めても、痛いくらいに私を抱き締める腕の強さは変わらない。
「いくら俺でも、こんな時に嘘なんて吐かないぜよ。」
先輩の真剣な声が耳に届いて、先程までとは違う理由で涙があふれる。
「におっ…、せんぱ……わ、私…っ」
「もう泣きなさんな。」
涙で濡れている頬を両手で包まれて、上を向かされる。
上下逆さまの先輩の顔が近付いてきて、思わず目を瞑ると、額に唇が落とされた。
それから…
「俺はお前さんが好きじゃよ。なまえだけが。」
今まで聞いたことのない優しい声が降ってきて、目の縁からこぼれた涙を唇で拭われた。
偽りのない心
(2017.04.15 初掲)□□□□
(2023.11.15 タイトル変更)
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