まだ恋を知らない | ナノ


跡部視点


俺はベンチに座ったまま、遠ざかる背中をただ見ていた。

手を伸ばす事が出来なかった。

もし触れたのなら…

壊れてしまいそうで。

崩れ落ちてしまいそうで。

あの雨の日よりも更に脆く儚く見えたみょうじの姿。

俯いて目を閉じた俺は、目蓋の裏に浮かぶ残像を想った。

あんなにも泣いていた。

あんなにも震えていた。

一度だけ腕の中に抱き締めた感触を思い出して、膝の上で組んだ手をきつく握った。

「っ、……どうしてだ…っ」

あの瞳には縋るような色が見えたのに、みょうじは俺の手を取ろうとはしない。


● ● ●


時として目は口よりも雄弁だ。

それは今、俺の視線の先にいるみょうじも例外ではなかった。

休み時間の騒がしい教室では何を話しているのかは分からない。

だが、忍足と話しているみょうじは、表情こそいつもと変わりないが、凪いだ水面のような穏やかな瞳をしていた。

それは、俺には向けられたことが無いものだ。

苦いものが胸に込み上げてくる。

「跡部、そないなトコで何しとん?」

不意に掛けられた声に、ハッと我に返る。

「何でもねぇよ。」

廊下の真ん中に突っ立っていた俺を不審に思ったのだろう、さっきまで教室にいた忍足がドアから出てきた。

その後ろに視線を巡らせば、みょうじは席に座って窓の外を眺めていた。

「みょうじ、か。」

自分の背後にちらりと視線をやりながら、忍足は何か微妙な表情をした。

「別に。てめぇに貸してやってた英語の辞書を取りに来ただけだ。さっさと返せ。」

「はいはい。辞書なんか必要無い言うてたのに、わざわざご苦労さん。」

「煩ぇよ。」

揶揄するような言葉を残して教室に戻る忍足の背中を睨んでから、俺は再びみょうじを見たが、みょうじが俺を見ることは無かった。



僕の心を求めて

君が望んでくれるのなら、いくらでも捧げるのに。


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