駅から出たところで、少し前を歩いている見知った背中を見つけて駆け寄った。
「若! 久しぶりだね。」
「…なまえさん。随分と遅いんですね。」
若は横に並んだ私の姿を確認すると、切れ長な目を僅かに見開いた。
「うん、今日はね。レポートの調べ物してたら、遅くなっちゃって。」
講義で出された課題が難しくて、大学の図書館でいろいろ調べていたら、あっという間に外は暗くなり始めていたのだ。
「大変そうですね。」
「まあ、それなりにね。でも、好きで選んだから、苦痛ではないかな。新しいことを知るのは視野が広がって面白いし。」
「そうですか。」
「うん。それはそうと、若も遅いんだね。」
「ええ、まあ。大会が近いので、最近はいつもこの時間です。」
「え、毎日そんなに練習してるの?! 朝練もあるんでしょ?」
「別に驚くことじゃないと思いますが。」
若は当然だという態度だけど、きっと今だって古武術の稽古もしている筈なのに。
大変じゃないのだろうか。
「驚くよ。全然知らなかったもん。大学に行ってから若とあんまり会わないし。」
「それはそうでしょう。登下校の時間帯が違いますし、学校の場所も少し離れているんですから。」
「そうだけど。寂しいじゃな、…わっ!」
急に足がもつれて、何も無い場所で転んでしまった。
「いたた…っ」
「相変わらず器用ですね。平坦な道で転ぶなんて。」
自分の間抜けっぷりを容赦なく指摘され、言葉に詰まる。
「いつまでそうしているんですか。…早く掴まって下さい。」
顔を上げれば、目に前には呆れた顔で片手を差し出す若の姿があった。
「うん、ありがとう。」
差し出された手に自分の手を重ね、引っ張られながら立ち上がる。
「…背、伸びたね。」
立ち上がっても、若を見上げなければならなくて、中等部に上がる前はまだ小さかったのになぁ、と思い返す。
「成長期ですから。…成長しない人もいるみたいですけど。」
僅かに口角を上げた若に見下ろされ、私は少し膨れた。
「一言余計だよ。あーあ、昔は可愛かったのになー」
やっぱり今みたいに可愛げは無かったけど、子供らしい所が少しはあったのに。
「可愛くなくて結構です。大体、いちいち年上ぶらないで欲しいですね。それほど大人でもないでしょうに。」
「でも、私のほうが年上だからね、若くん。」
「っ……それが…何だって言うんですか。」
「? 何もしない、けど。どうしたの?」
ふざけて言っただけなのに癇に障ったのか、急に低くなった若の声に戸惑う。
「いつまでも子供扱いしないで下さい。」
若は怒ったような、だけど、どこか切なげな表情をしていて、なんだか胸が締め付けられる気がした。
「ごめんね。子供扱いした訳じゃないんだけど…」
昔そうしていたように頭を撫でようとすると、若は伸ばした私の右手を掴み、鋭く睨んできた。
「しているじゃないですか。」
更に低い声を出した若が少し怖くて、強く手を掴まれたまま思わず後ずさると、若の表情が歪んだ。
「人の気持ちに気付きもしないで……俺が、ずっとどんな気持ちで…っ」
私を見つめるその瞳に隠されていた感情を、初めて知った。
強い感情を秘めた眼差しを向ける若を、私はただ見つめ返すことしか出来ない。
二人の間に沈黙が降りる。
張り詰めた空気に息が詰まりそうだ。
不意に、若は私の手を掴んでいない方の手でそっと私の頬に触れた。
掴まれた手が、触れられた頬が――熱い。
「俺は子供じゃない。」
頬に添えられた手の指先に僅かに力が入ったのを感じた。
「わ、若? ちょっと、待って…っ」
酷く真剣な若の顔がゆっくりと近付いてくる。
私は凍り付いたように動くことが出来なくて、反射的に目を瞑った。
柔らかい温もりが触れたのは、私の閉じた目蓋だった。
そのまま固まっていたけれど、それ以上は何も起こらなかった。
「いつまで目を閉じているつもりですか。……何を期待しているんです?」
「しっ、してないから!」
耳元に吐息を感じ、固く閉じていた目を開けて、掴まれていない左手で若の胸を押し返した。
顔がすごく熱くて、若をまともに見られない。
「帰りますよ、なまえさん。」
くるりと私に背中を向けた若は掴んだままの私の手を引いて歩き出した。
「あっ……ちょっと…」
半歩先を歩く広い背中を見つめながら、自分の手と繋がれた骨ばった手を意識してしまう。
なんだか若が急に知らない男の子になってしまったようで落ち着かない。
私は手を引かれて若の後ろを歩きながら、胸のざわつきを宥めるのに必死だった。
切ない愛を受け取って
(2011.03.26)
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