バレンタインデー | ナノ


部活を引退してから、ほとんど来ることのなかったテニスコートを眺める。

誰もいないテニスコートが寂しく見えるのは、自分が感傷に浸っているせいだ。

「帰っちゃう前に行かないと。」

逃げそうになる足をなんとか動かして、彼がいるだろう部室へと向かう。



深呼吸を一つしてからドアノブに手をかけると、やっぱりまだ鍵はかかっていなかった。

「お疲れさまっ!」

明るい声を出して中に入ると、制服姿の日吉が机に向かっていた。

「…みょうじさん。」

書いていた部誌から顔を上げた日吉は私を見ると、少し驚いたように目を瞬かせた。

だけど、すぐにいつもの感情の見えにくい無表情に戻る。

「久しぶりだね、日吉。」

顔を合わせるのは本当に久しぶりで、それだけで少し泣きそうになる。

「そうですね。それで、何か用ですか?」

「うん。……もう引退しちゃったけど、最後だから持って来たんだ。」

手にしているギフトバッグを少し持ち上げる。

「そう、ですか。…ありがとうございます。」

チョコレートの箱が入ったギフトバッグを差し出すと、日吉はすんなりと受け取ってくれた。

他の女の子みたいに断られなかったのは、私が毎年バレンタインにはレギュラーと準レギュラーの皆にチョコレートを渡していたからだ。

だから、今回だけは特別な意味があることに日吉は気付かないだろう。

それでいいんだ。

あと少しで私が卒業したら、会うことなんてなくなってしまうのだから。

「じゃあ、私は帰るね。」

「待ってください…っ!」

部室を出て行こうとする私を、珍しく大きな声を出した日吉が呼び止めた。

ロッカールームへと消えていった日吉はすぐに戻って来た。

「お待たせしました。これ、どうぞ。」

押し付けられるように渡されたのは、バレンタイン用のラッピングがされたチョコレートと思われる箱だった。

「日吉、これ…」

驚いて手元から日吉に視線を戻すと、フイッと目を逸らされた。

「あなたが、チョコレート好きだって言ってたのを思い出して……今年で最後ですから。今までのお礼…にしては些細なものですけど…」

「ありがとう…!」

深い意味なんてないことは分かっているけれど、思いがけないプレゼントに感激してしまった。

「ほんと、に……うれ、し…っ」

「なっ、…何、泣いているんですか。」

思わず零れてしまった涙を手で拭っていると、日吉の戸惑ったような声が聞こえた。

「たかがチョコレートじゃないですか。いちいち泣かないで下さいよ。」

迷惑なんてかけたくないのに、なかなか泣き止めなくて、目許を制服の袖で何度も拭う。

「たかが、じゃ…ないよ。……日吉、が…くれたっ、から……特別、だよ…っ」

「……そうですね。あなたにしか渡していませんから。」

「え…?」

頬を濡らす涙をそのままに日吉を見ると、また顔を背けられてしまった。

「わ、私もっ……今年は日吉にしか…あげてない、から…」

僅かに染まって見える日吉の横顔を見つめながら、切れ切れの言葉で伝えた。

「……そうですか。」

「…うん。……え、…ひよ、し?」

急に真剣な眼差しを向けられたかと思うと、いきなり抱き寄せられた。

「好きです、みょうじさん。」

耳元でした声に、また涙が溢れた。

「…っ……私も、…日吉、が……好き…」

震えてしまう声で伝えれば、少し痛いくらいに抱き締められた。


(2011.02.01)

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