邂逅・地獄の会計委員会の段





 六年生の浜 仁ノ助が所用で、同級生兼生物委員会委員長の櫻坂 誠八郎を探して飼育小屋に辿り着くと、どこからか啜り泣くような声が耳に入って来た。
 耳を澄ませてみれば、それは飼育小屋の中からではなく、小屋の裏に当たる物陰から聞こえて来る。上級生になってからというもの、飼育小屋には大して縁の無かった仁ノ助だったが、放っておけば大事になる可能性もなくはなかったので、目的だった誠八郎を探す事よりも、その啜り泣く声の主を探す事を優先させた。

「・・・ぅぅ、・・・ひっく・・・っ」

 そこには、一匹の狼に縋り付いて涙を流す、一年生の姿があった。

 仁ノ助は、生徒に良い顔をされる事が少ない。元々、愛想の良い顔ではないと自覚していたが、己が『地獄の会計員会』を立ち上げてからというもの、すっかり煙たがれているのが現状だ。特に、去年の一年生・・・今年の二年生からは、鬼か悪魔を見るかのように見られていた。
 今年入学した一年生の個人とは面識がなかったが、浅葱色の井桁はこの学園では慣例の一年生を示す制服だ。

 傍にいる狼は、生物委員会で飼育しているのだろうか。大きい体格にしては大人しく、一年生が縋り付くのを許している。狼は仁ノ助の存在に気付いて、ピクリと耳を動かして顔を此方に向けたのだが、一年生は泣く事に集中しているのか、泣く事を止めようとはしなかった。

 そのまま放置して、生物委員長を探す目的を果たす事も出来たが・・・。仁ノ助は何故か、涙を流す一年生の元から離れる気になれなかった。

「・・・そこの一年生。何を泣いている。」

 声をかけると、小さい肩がビクリと震えた。どうやら、本当に此方の存在には気付いていなかったらしい。
 一年生が、おそるおそると振り向いた。泣いては目を擦る動作を繰り返していたのだろう。目元は赤く腫れ上がっていた。

「ぅえっ、っと・・・その、すみませ・・・」
「謝罪はいらん。質問に答えろ。何故、泣いていた。」

 曖昧な物は苦手だった。どうして一年生が謝るのかは分からなかったが、今、仁ノ助が求めているのは謝罪ではない。
 けれど、恥ずかしいのか、それとも涙を堪えているのか、一年生はしどろもどろした様子で答えようとしなかった。突破口を開く必要がある、と仁ノ助は彼に気付かれないように溜息を吐いた。
 一年生が、啜り泣く原因となる出来事・・・。仁ノ助が一年生の時には、泣く事がなかったので有り触れた問いかけしか出来なかった。

 「喧嘩をしたのか・・・?」と問いかけると、意外にも「はい」とするりと答えられた。根は素直なのだろう。続けて「怪我が痛むのか・・・?」と問いかけると、今度は「いいえ」と首を振られる。痛みで泣いたのではないらしい。「それでは、なぜ泣いていた・・・?」。双六の「最初に戻る」の如く、再三 同じ言葉を問いかけてみる。
 すると、一年生は「自分が、情けなくて・・・」と小さな声で呟いた。途端に、ジワリ、と左右で形の異なる大きな眼から、湧水のように涙が一つ二つと溢れて来る。その時の事を思い出しているのだろう。泣いていたという事は、この一年生はその喧嘩に負けているのだ。

「俺・・・忍者になりたいのに・・・・・・っ、授業でも失敗が多くて・・・、喧嘩にも、手も足も出ないまま負けて・・・っ、何もできなかった自分が情けなくて・・・っ」
「・・・怒りはないのか。」
「え・・・」
「喧嘩に負けたのならば、その相手に怒りをぶつけるべきだろう。」
「いいえ。俺が弱いのは本当のことですから・・・。」

 「弱っちい」の言葉に反応して躍起になって、喧嘩にまでなってしまった自分の短慮さにまた涙が出るのだと。一年生は涙声ながらに告げた。
 ・・・あぁ、そうか。この子供は、痛みでは決して泣かないのだ。
 その代わりに、弱い自分の姿を嘆いて泣いている。己の無力さを知っている。

「・・・お前は、忍者を目指しているのか。」
「笑い話ですよね・・・、こんな泣き虫が、忍者だなんて・・・・・・」
「・・・・・・“忍”という字は習ったか。」
「・・・習いました。“刃”に“心”ですよね。」

 不用意に訊ねた仁ノ助に、一瞬呆けた様子を見せた一年生だったが、彼は直ぐに答えてみせた。学力がない、という訳ではないようだ。――けれど、その解答は仁ノ助が伝えようとしたものではない。

「違う。“刀”と“ヽ”、そして“心”で“忍”だ。」
「あの・・・、それはどういう・・・」

 理解できない一年生に、仁ノ助は一つ一つ教えていく。
 “刀”とは、文字通りに刀剣の事。“ヽ”とは、指示文字という「その漢字が示す場所を表すもの」。“刀”の中心にある物だから、中央に“ヽ”を記して“刃”と書く。刃は、刀の中でも重要な部分だ。刃毀れを起こしていては、刀は使えない。

「その“刃”を携えた“心”を“忍”と表す。転じて、――どんな辛い状況にも堪える事。“忍”には、そのような意味もある。」
「こらえる・・・。」

 繰り返すように呟く一年生に、仁ノ助は頷いた。そして、更に続ける。
 忍者の世界は、過酷な事が多い。道を誤れば、どれだけ優秀な忍者であろうとも、容易く外道に成り果てる。技術としては、忍者のそれは詐欺師や人殺しと変わりないからだ。

「――だが、その外道と忍者を隔てているもの。俺はそれを正心だと思っている。」
「せい、しん・・・?」
「正しい心、と書く。どれ程に周囲の環境が辛くとも、心に携えた正心が粘り強い鋼となる。どれだけ叩かれようとも砕けぬ鋼でなければ、刀の刃は完成しない。それに比べれば、才能や技術など瑣末なものだ。」

 いつの間にか仁ノ助はしゃがみこんで、一年生の肩にそっと両手を乗せていた。

「己の中に正心を持て。喧嘩の相手を憎まず、己の無力を嘆く事の出来るお前には、既に忍の原石が眠っている。刀身を磨き上げる事が出来れば、お前は優秀な忍者となれる。」

 無口と評される我ながら、よくここまで饒舌になれたものだと思う。けれど、同時に、どうしてこの一年生が放っておけないのかも、理解した。
 この後輩は自分に似ている。

「・・・有難う御座います。先輩って、お優しいんですね。」
「・・・・・・優しい、と言われたのは初めてだ。」
「そうなのですか?」
「皆が皆、俺を鬼と呼ぶ。」
「鬼、ですか・・・。」

 嘘ではない。鬼の異名は同級生だけなら三年の後半から使われていたし。『地獄の会計委員会』を立ち上げた頃、当時五年生だった仁ノ助は下級生たちから「鬼だ」「悪魔だ」と泣き叫ばれた事さえあった。
 特に、当時の一年生(今の二年生)たちには、自分の上にいる学年や教師に喧嘩を売る態度や、「お飾り員会」の後を引く怠け癖のついた会計委員を処罰する光景が鬼の所業のようにしか見えなかったのだろう。

「『地獄の会計委員会』の名を聞いた事はないか。」
「あります。櫻坂委員長から、委員会の予算をいつも削減されると仰ってました。」
「概ね、その通りだ。嘗ては「お飾り委員会」として無能視されていた会計委員会を、俺の代から『地獄の会計委員会』とし、各委員会の予算を全て削減した。そして、今も我々は予算を必要最低限のみのものとしている。」
「それで、鬼と呼ばれているのですか。・・・でも、どうしてそんな事を・・・」
「・・・それまでの各委員会が、予算を贅沢に使い過ぎていたのだ。それこそ、年間の授業経費よりも大幅に上回って、だ。」

 委員会活動とは、本来学園生活や授業を円滑に勧める為の活動である。その経費が、肝心の忍のたまごを育てる授業よりも多いとは、本末転倒だ。

「当時の委員会の中で、最も予算を使っていたのは用具委員会の委員長だった。学園の予算を、個人の金かのように使い込み、多くの武器を買い漁っていた。――金銭の動きは、誤魔化す事も隠す事も難しい。その動きだけで、戦の準備をしていると判断する忍者もいると聞く。」
「武器を大量に買い込むと、戦の準備をしていると思われる……ということですか?」
「そうだ。そして各委員会への予算が高すぎると、それだけの金が学園にあると思われることになる」
「成る程。確かにお金がたくさんあると思われると、狙われやすくなりますよね」
「そういうことだ。何故低予算でなければならないか、もう分かったな?」
「はい! 今までの贅沢を戒める為、そして敵の目を欺く為ですね!」

 いつの間にか、一年生の目から溢れんばかりの涙は止まっていた。そればかりか、赤く腫れた目元のまま、此方に嬉しそうな、楽しそうな、そんな笑みさえ浮かべている。

「やっぱり、先輩はお優しいです。」
「?」
「そうして心を鬼にしてまで、学園の事を守ろうとしていらっしゃるのでしょう?先ほど仰っていた忍者に必要な「正心」を、ちゃんと先輩は持っていられるのですね!」

 絶句した。それは驚愕というよりも、衝撃に近いのかもしれない。
 下級生の誰もが否定した、己の在り方。『地獄の会計委員会』に至っては、同級生でさえ良い顔をしない。それを、他人事ではないだろうに、学年に入ったばかりの一年生が理解しているのだ。
 この後輩は、自分に似ていると思った。けれど、違う。――自分と、彼は・・・同じなのだ。

 それから少しの他愛ない話をして、夕食の時間を理由に学園に戻る事を促すと、一年生は再度「有り難うございました」と一礼して、それまで欠伸混じりに大人しくしていた狼を引き連れ、飼育小屋の方へと戻って行った。

 その後で、仁ノ助は一年生の名前を聞いていなかった事を思い出す。が、何となく察しはついていた。
 狼を引き連れた、泣き虫の一年生。・・・そう、長屋の同室でもある彼が、何度もその名を呼んでいたではないか。

「櫻坂誠八郎」

 徐に名を呼んだ。すると、一年生が消えた方向とは逆側の物陰から、己と同じく新緑の制服を纏う生徒が現れる。一年生と話し込んでいる途中から気配がしていたのだが、乱入する気がないと悟ると、あえて呼び出す事もしなかった。

「何だ」
「今の一年生の名は、潮江文次郎であっているか」
「あっ、ああ。俺の可愛い後輩だ、手出すなよ」
「……泣き虫だと聞いていたが」
「噂通り、文次郎はかなりの泣き虫だ。ここにいるってことは見たんだろ?」

 見た、というのは啜り泣いている事を言っているのだろう。ここであの一年生・・・潮江 文次郎が泣いているのは、いつもの事らしい。
 改めて明確になった名前を、己の中で繰り返す。潮江 文次郎。幼いながらに、自分と同じ考えを持てる者。

「あれを泣き虫と評した奴は、何も分かっていないな」
「……はあ?」
「あれの涙は強くなる為のものだ。涙を流した分だけ、あいつは強くなる」
「……お前何言ってんだ?」

 誠八郎は、仁ノ助が言う事を理解していないようだった。
 彼の素質も見抜けぬ者が、彼の傍にいたという時間が恨めしい。もっと早く、出会えていれば・・・。そんな、無意味とも言える思考が仁ノ助の脳裏を過ぎる。

「潮江文次郎、もう少し早く会えていれば、我が委員会に入れていたものを」

 仁ノ助が正心を重要視し始めたのは三年の頃だった。それまでは、只の「真面目で無口な下級生」だったに違いない。上級生になれば成程、何も知らずに生きて来た一年生や二年生の自分が恨めしくなったものだ。

 けれど、文次郎は一年生にして、正心の大切さを知った。
 ・・・まだ、間に合う。
 今からならば、文次郎は自分の目指す忍者になれるという、確信めいた何かが仁ノ助の中に生まれていた。

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