立花 仙蔵が目を覚ますと、長屋には同室の潮江 文次郎の姿がなかった。確か昨日は(比較的)早い時間に共に就寝した記憶があるのだが、衝立の向こうの布団は綺麗に片付けられている。自分だけ早く起きて顔を洗いに行ってしまったのか、と理不尽な怒りを覚えながら仙蔵も顔を洗いに行こうと襖を開く。

 文次郎が、いた。

 長屋から見える中庭に、文次郎がいるのだ。彼はその手に袋鑓を掲げ、昇る太陽に一礼しているように見える。最近はやたらと目の隈が増えたり威圧感が出て来たりしている彼だが、あぁ見えて信心深い男なのだ。

「・・・食事前のお祈りに次いで、今度は早起きのお祈りか?」
「あぁ、仙蔵。これが終わったら起こしに行こうと思ってたんだ。」

 おはよう、と挨拶を続ける文次郎に仙蔵は毒気が抜けてしまう。少しの間を置いて、仙蔵もおはよう、と挨拶を返した。
 天才と謳われる仙蔵だが、実際の私生活には天才の姿は影も見えない。一人でいる時ならまだしも、同室がいる時にはどうしても甘えがちになってしまうのだ。

「何が起こしに、だ。すっかり着替えてしまっているではないか。」
「悪い悪い。今日という日だけは、気合を入れたくてな。」

 気合なら、いつでも入れているじゃないか。というツッコミは野暮な気がして仙蔵は口にするのを止めた。
 祈りには、その心が透けて見えるのだという。祈る者が真剣であればある程、その姿は整って見えるのだ。振り向いた文次郎には相変わらずの濃ゆい隈があったが、祈っている途中の様子はそんな事も気にならない程に、荘厳だった。
 五年生の新学期が始まる、その日の朝の出来事である。





五代目会計委員長(代理)の予算会議の段





 最上級生の六年生が、委員会にいない。これは、委員会活動を行う上でかなりのデメリットだ。委員会には、い組ろ組は組の垣根がない。だからこそ、学年の垣根がより明確になって存在している。六年生に比べて経験の浅い五年生や四年生が委員会の代表になるというのは、かなりのプレッシャーなのだ。

 五年は組の保健委員会委員長代理・善法寺 伊作もそのプレッシャーに苛まれる一人である。

「あー、疲れた。委員長代理ってこんなに疲れるものなんだねぇ。」
「伊作の所も、六年生がいないんだっけか?」
「というか、用具と生物くらいだよ?六年生のいる委員会って。」
「そうだっけか?」
「そうだよ。火薬委員会なんて、四年生の久々知が代表になっちゃってるんだから。」

 愚痴る伊作と話を合わせているのは、彼と長屋が同室の五年は組・食満 留三郎である。彼の所属する用具委員会には六年生が存在する為、代理としての伊作の苦労は分かりかねる所があるのだ。

「仙蔵の凄さが改めて分かるよ。四年生の頃から委員長代理の代理だなんて。」
「保健と作法じゃ、やる事が違うだろ。礼儀作法はやる事が決まってるが、保健委員会はそうはいかないだろうし。何より不運だし。」
「ちょ、最後!そうかもしれないけど、不運なんて言わないでよ!」
「いやいや、そろそろ認めろって。保健委員会は不運だって。」

 二人がそんな会話をしていると、不意に廊下をバタバタと忙しなく走る下級生たちの足音が耳に入った。忍者を目指しているのならば、あの目立つ足音は控えた方がいいのでは、と思うのだが。急ぐ彼らは此方に歯牙もかけていない様子だ。

「何か、学園が騒がしいね?何かあったっけ?」
「お前知らないのか?学園に客人が来てるんだよ。」
「客人?でも、学園長先生って人脈広いから珍しい事じゃ・・・」
「その客人ってのが、卒業生らしいんだ。」

 そつぎょうせい。ソツギョウセイ。卒業生。
 漸くその単語を理解した時、伊作は自分でも驚くような呆れるような奇声にも似た叫びを上げてしまっていた。




 卒業生。忍術学園の生徒からすれば、それは『先輩の先輩』と同意義である。自分たちよりも早く学園で忍術を学び、その技術を以てして現場で活躍する。しかも、その卒業生は現役の城勤めプロ忍らしい。
 これだけのビックスクープである。火薬委員会の活動を行う焔硝蔵でも、この話題で持ち切りだった。

「現役プロ忍の元忍たま・・・学園の卒業生がやって来たって本当ですか?!」
「あぁ、ご用事で暫く滞在するらしい。」
「どんな方なのでしょう。久々知先輩はご存知ですか?」
「いや、五年前に卒業された方だから・・・。俺たち四年生とは面識がないな。知っているとすれば、六年生だろうな。」

 今の六年生が一年生だった頃に、六年生だった先輩だ。と告げるのは四年い組の久々知 兵助である。一年い組の池田 三郎次は改めて、話題の卒業生の優秀さを悟る。
 兵助は四年生の中でも更に優秀と言われる忍たまだ。そんな先輩が入学するよりも先に卒業し、第一線を活躍する現役プロ忍。胸は高鳴るばかりだった。

「でも、面識がなくても元々は同じ忍たまだったのですから。色んなお話を聞けますよね。」
「そうだな。あわよくば・・・、予算会議の押さえどころを教えて欲しいものだ。」

 溜息混じりにそう告げる兵助は、何処か沈んでいた。無理もない。予算会議も近いというのに、火薬委員会の生徒は自分と彼の二人だけなのだから。

「あの潮江先輩から予算を得られる気がしない・・・。」
「が、頑張りましょう!僕も手伝いますから!」
「手伝える予算会議だと良いんだけどな・・・。」

 『地獄の会計委員会』。それを束ねる潮江 文次郎はその名に肖ってか、『鬼の会計委員長』と呼ばれている。ほんの一つしか違わぬ年齢だというのに、兵助にはあの威圧感に立ち向かえるだけの勇気を持ち合わせていなかった。




 同時刻。五年い組の長屋でも、同じように卒業生の話題を仙蔵が文次郎に持ちかけていた。だが、文次郎は仙蔵の誘いに乗る事はなく、首を横に振るばかり。

「文次郎。卒業生が学園に来ているそうだが、会いに行かないか?」
「・・・あぁ、済まん。今は遠慮しておく。」
「何だ貴様。現役プロ忍の話を聞ける事など、滅多にないのだぞ?」
「いや、もう直ぐ予算会議だからな。他の事に集中できないんだ。それに、こんな状態で会ったら失礼だろう。」
「ふん。殊勝な事だな。」

 呆れるような溜息を吐いて、仙蔵は長屋を出て行く。話に出ていた卒業生の元へ向ったのだろう。
 彼を見送った文次郎は、これまでにない程にやつれていた。そろそろ顔の一部になりそうな隈は普段の二割増し、眉間の皺は取れずに威圧感だけがひしひしと膨れ上がっている。気弱な下級生がその姿を見れば、一目散に駆け出してしまうだろう。

 原因は、予算会議が近付いているにも関わらず、帳簿の整頓が終了していない事にある。
 どれだけ計算を重ねても、元々の金額と帳簿が一致しないのだ。その事が、委員長代理というプレッシャーと共に文次郎を焦らせていた。

「(どうして一致しないんだ・・・。去年まではこんな事、無かった筈なのに・・・。俺が未熟だからとでも言うのか・・・、くそっ・・・!)」

 手元には、少々古めかしくなった十キロ算盤がある。会計室には、他の会計委員用にと更に十キロ算盤があるのだが、これは特別なものだった。初代から始まり、歴代の会計委員会が使い続けた逸品なのだ。

 過去に一度だけ。算盤を十キロも重くする必要があるのかと、初代の会計委員長に訊ねた事がある。その時、彼はこう答えた。「この重みこそが、我々が担う金銭の重みなのだ。」と。枠だけで十キロもの算盤を作る事は出来ない。当然、中の五珠も一珠も梁も、桁(珠を貫く軸の事)も、それ相応の重さがあった。一つの珠を動かすだけでも、相応の重みが指先にかかる。それこそが、会計委員会の担う予算の重要性を物語っているのだと、幼心に思ったものだ。

 その十キロ算盤を使っても一致しない帳簿。自分には会計委員長の代理である事も許されないのかと、被害妄想にも似た自嘲がフツフツと生まれてくる。
 己を苛む感情を払拭しようと、文次郎は長屋を出る。流れ出る汗を止めたくて仕方がなかったのだ。

prev next
 gift main mix sub CP TOP
人気急上昇中のBL小説
BL小説 BLove
- ナノ -