「文次郎様」

 鈴を転がすような、とは言い過ぎだが、文次郎の耳には丁度良い高音の声である。
 本に走らせていた視線を上げると、一冊の本を大事そうに抱えた婚約者の名字名前と目があった。嬉しそうにはにかみ「ご一緒しても宜しいですか?」と尋ねてくる。

「ああ、いいぞ」
「有り難うございます」

 許可を出せば、静々と隣に座った。本ではなく文次郎を見上げ幸せそうに笑う。

「なんだ?」
「いえ、こうして文次郎様と過ごすのは久しぶりですので……」
「……ああ、そうだったな」

 言われ、気付く。
 確かにここ最近は父親の仕事の手伝いに追われ、名前と過ごす時間が極端に減っていた。漸く手に入れた休日に喜んでいたのは己だけではないらしい。

(ここは、何か話した方がいいのか……?)

 ここは読書ではなく婚約者との時間を楽しむべきだろう。そう考え、文次郎は開いていた本に栞を挟み本を閉じる。
 クルリと名前は目を丸くし、次いで文次郎の意図に気付き頬を紅潮させ喜んだ。

「文次郎様、室町のお話を聞かせてくださいな」
「またか?」
「前世の文次郎様のことも知りたいのです」

 お願いします、とキラキラと目を輝かせて強請ってくる名前に文次郎は苦笑を浮かべた。
 脳裏に浮かぶ遠い遠い昔の記憶。今の世に生まれ落ちる前の、己であり己でない一人の男の人生。

(そういえば、思い出すのも久しぶりだな……)

 前世の己は、室町時代を生きる忍者だった。三禁を重んじ最期まで独り身を突き通し忍びとしてその生涯を閉じた。
 名前はその時の話を聞くのが好きである。何の因果か記憶を持ったまま現世に生まれた文次郎にとってそれは、自身を認められた気がして嬉しいものだった。

「なんの話がいいか?」
「忍術学園の話が聞きたいです」
「忍術学園、か……」
「駄目でしたか?」
「いや、駄目じゃないさ」

 ただ、と『忍術学園』という箱庭で共に忍術を学んだ朋友達を思い浮かべる。

「あいつらは今どうしているのだろう、と思ってな」

 転生した文次郎の傍に、同じく転生した者はいなかった。社会的地位の高い家の一人息子として生まれたからかもしれないが、その代わりに名前という婚約者と出会えたので、特に不満に思ったことはない。
 だが、それでも寂しく思う時はあるのだ。例え記憶がなくとも、歳が離れていようとも、無事転生出来たことを確かめたい。

「もしあいつらと会えたら、お前にも紹介しないとな」
「まあ、楽しみにしていますわ」
「ああ、俺もその日を楽しみに待つとしよう」

 前世の朋友達よ、お前達は今どうしているだろうか。
 お前達は想像もしていないだろう。室町時代三禁を重んじ暑苦しく怒鳴ってばかりいた俺が、この現世では婚約者がいて周りに穏やかな人だと評価されているということなどと。

「よし、今日は予算会議の話でもしよう」

 ふわりと穏やかに笑う文次郎に、お願いしますと名前も笑い返す。
 かつて忍術学園一忍者をしていた男は、その時に捨てた穏やかな日々を、転生し平成の世で手に入れていた。

20121116
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