過去から来た潮江文次郎に名前が告白をした日から数日が過ぎた。
 その間二人の間に何か変化があった訳でも無く、名前は何もなかったかのように普通に接し、文次郎もまた不自然に名前を避けることはしなかった。

「文次郎、部屋に上がれ」
「名前、俺のことは放っておいてくれ」

 今日も名前は池で寝ようとする文次郎を心配し、文次郎はそれを拒絶する。それもまた、二人にとっては日常の一部と化していた。

「そんなに池が好きなのかよ」
「いや、池よりも海が好きだ」
「そっちの方が危なっ!」
「何が危ないんだ?」
「波にさらわれたらどうするんだよ。そこで鮫とかに遭遇したら……」
「ああ、鮫か。あいつ可愛いよな」
「あれを可愛いって言う奴初めて見た」

 何と無く聞いたことから意外にも発展した会話に、名前は池辺に座り込む。文次郎は上がることはなかったが、池辺に肘をつき寄り掛かる体勢を取った。

「池の中って気持ちいいのか?」
「そういう訳ではない。だが水の中は安心する」
「……お前まさか人魚?」
「な訳無いだろうが」
「人魚だったら文次郎も、泡になって消えんのかな」
「泡?」

 コテリと首を傾げた文次郎に、まだ室町時代にアンデルセンの童話は無かったことに気付く。
 さてどう説明しようか、と名前は悩んだ。昔読んだっきりで話の内容を大雑把にしか覚えていないからである。

「んーっとな、外人が書いた物語が沢山あってな」
「外人……南蛮人のことか」
「んーん、そんなとこでいいや。で、その中の一つ。人魚姫の話」
「人魚、姫……」
「人間の王子様に恋をした人魚姫が、魔女に頼んで人間に変えてもらって地上に出る。無事王子様と会えて一緒に暮らすことは出来たけど、王子様が別の女と結婚することになって……。えーっと確か人魚姫は王子様を殺さないと人魚に戻れなくて、でも殺せなくて泡になって消える話……だった気がする」

 たどたどしくしか説明出来ないことに、名前は過去の己を恨んだ。もっと読んで覚えておくべきだったと後悔する。
 文次郎は、どこか考え込むようにして黙り込んだ。名前はその様子を横目で見ながら、同じように口を閉ざす。

「つまり人魚姫は、自身よりも王子の未来を優先したって訳か」

 しばらくして自分の中で整理がついたのか、文次郎が成る程と頻りに頷いた。名前が何だそれと首を傾げる。

「命じゃなくて未来なのか?」
「どちらも同じようなものだ。命があるから未来があり、未来があるから命がある」
「むっずっかしー」
「前半は俺には理解出来んが、泡になった人魚姫の気持ちは分かる。恐らく俺も、そうするだろう」
「……はっ?」
「俺の場合想い人ではなく、同輩や後輩、家族になるがな」

 元の時代を思い出し、フッと口角を上げる文次郎に、名前は頻りに瞬きをした。呆然と眺め、意外だとポツリと零す。

「てっきり文次郎は、『自分の命を捨てるなんて馬鹿馬鹿しい』とか言うもんだと……」
「何だそれは」
「いやだって文次郎……」
「俺はな、名前」

 穏やかな双眸を向け、文次郎は微笑んだ。優しい声色で残酷なことを紡ぐ。

「俺の命一つで守るべき奴らの未来を守れるなら、喜んで差し出すさ」

 どうしてこの想い人は、こんなことを言えるのだろう。そう考え、ふと室町時代がどんな時代か思い出す。
 まだ室町時代は、争いが絶えず起きていたはずである。もしかすると彼は、その争いに身を投じる立場にいるのではないか。だから毎日のように鍛練を重ねているのか。
 そこまで考え、名前はゾッとした。想い人が何時死んでも可笑しくない立場にいることが、酷く恐ろしいもののように感じる。

「なあ名前、この時代は平和だと俺も思う。この家から出たことはないが、それでも分かる」

 文次郎は名前から視線を外し、空を見上げた。それが何かに想いを馳せている時の癖だと気付いたのは、つい最近のこと。

「俺も海で泡となり消えたいものだ。人魚姫も幸せだったろう、想い人の未来を守れ、海に還れたのだから」

 ああ、人魚姫だ。文次郎もまた、人魚姫と同じなのだ。
 ピチャンと水の音がたち水面が波立った。気付けば文次郎の正面におり、その距離は驚く程近い。

「なあ、文次郎。もしお前が人魚姫なら――」

 近距離にある文次郎の左右形の違う目は、真っ直ぐに己を捕らえている。その瞳の中に映る己に、名前は笑いたくなる。

「――俺は、魔女と王子様、どっちなんだろうな」

 瞳の中の己は、酷く泣き出しそうな顔をしていた。

20121114
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