「文次郎」

 そう名を呼ぶ己の声は震えている気がした。ピチャン、と水の跳ねる音が発つ。

「名前、か」

 耳に良く馴染む低音の声に名を呼ばれただけで、ぞわりと身体に快感が走る。文次郎、ともう一度名を呼ぶと少年は暗闇の中から姿を現した。
 少年は真夜中だというのに池の中にいた。半身を出しているので、名前が貸した服と濡れ羽色の長い髪が肌に張り付き、ポタポタと水滴を垂らしている。
 少年は名前を見上げた。本来ならさほど無い身長差なのだが、池の中と池辺、立ち居値の違いにより二人が視線を合わせる為には、少年が見上げなくてはならない。
 文次郎。もう一度少年の名を呼ぶ。少年――文次郎は名前を一瞥し、ふるふると首を横に振った。

「鍛練の一環だ。お前は気にせず休め」
「ここは平成だ。鍛練なんてする必要はない」
「俺はこの時代の人間ではない。それに、元の世界に帰った時身体が鈍っていると困る」
「ならせめて、昼間にしてくれ。風邪でもひいたらどうする」
「風邪などひかんから安心しろ」

 どちらも引かない押しの応酬に、名前は唇を噛み締めた。本当のことを言うならば、少年とこのようなやり取りをするのは初めてではない。寧ろここ最近はずっと繰り返ししている。
 文次郎は数週間前、祖父母の庭にある大きな池から現れた。ピカリと光る水面、止んだ後そこにいたのはぐったりとした様子で気を失っている文次郎。たまたまそれを見ていた名前が慌てて救出に向かい、文次郎が室町時代から来たということを知った。所謂、タイムスリップである。
 未来に来た文次郎は多くを語ろうとしなかった。未来に関わることを拒否し、ひたすら鍛練に励む毎日を送っていた。池で寝るのもその一つであるらしい。
 名前は最初、何故文次郎が未来に関わるのを拒否するのか分からなかった。過去のことも聞きたいと思っていた。

『なあ、名前。俺は何時、帰れるのだろうか』

 その謎が解かれたのは、文次郎が初めて本音を話した時。池の中に身を潜め空を見上げながら、文次郎はそうポツリと零した。
 それで、名前は理解した。文次郎が恐れているということを。
 突然未来に来て、帰り方も分からず、過去に戻れるか分からない今の現状を受け入れることが出来ないでいるということに。

「名前、俺のことは放っておいてくれ」

 文次郎は名前を拒絶した。何時ものならこの時点で名前が引き下がるのだが、どうしてか今日は出来そうになかった。
 文次郎の前にへと歩き、なあと問い掛ける。

「俺がお前のこと好きだと言ったら、どうする?」

 突然のそれに、文次郎は目を丸くした。構わず名前は「好きだ」と繰り返す。

「文次郎、俺はお前が好きだ」

 その言葉に嘘はない。名前にそういった趣味はなかったが、文次郎だけは特別だった。
 池の中から救出した時、胸が激しく高鳴った。目を覚まし左右形の違う目を向けられた時、一種の喜びを感じた。鍛練をする姿に、興奮を抱いた。
 初めて弱音を吐かれた日、好きなのだと自覚した。

「好きなんだ、文次郎」

 性別も、過去も関係ない。文次郎というその存在に、名前は恋焦がれている。
 だが文次郎は俯き、ゆっくりと首を横に振った。ああやっぱり、と名前は自虐的な笑みを浮かべる。

「やっぱ、気持ち悪いよな」
「違う、そうじゃない。俺は、この時代の人間ではない。だから、お前と添い遂げることは出来ない」
「帰るなよ、ずっとここにいろよ」
「駄目だ。俺は、帰らなければならない」
「ここに、いてくれよ」

 名前は地面に両膝をつき、文次郎の身体を抱きしめた。鍛練しているとはいえ、食文化やその他諸々の発展の違いが原因なのか、文次郎の身体はすっぽりまでとはいかないが名前の腕の中に収まる。
 一瞬身体を硬直させた文次郎は、だが力を抜き名前のしたいようにさせる。

「好きだ、好きだ文次郎」
「名前」
「なあ、何でお前は過去の人間なんだよ。なんで、なんで、なんで――」

 決して背中に回してくれない腕に、名前の視界はジワリと滲んだ。文次郎も空を見上げ、目を細める。

「――こんなにも、お前は近くにいるのに」

 ピクリと文次郎の腕が一瞬持ち上がり、だが直ぐに力を無くし垂れ下がった。

20121111
忍者であることを隠している文次郎。男主に惹かれているけど、三禁+住む時代が違うから応えない
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