「潮江先輩は、誰を尊敬しているのですか?」

 パチパチと算盤の弾を弾き帳簿合わせをしている時、ふと眠たそうにしていた団蔵が顔を上げ文次郎にそう問い掛けてきた。
 無駄話はするなと間髪入れずに返した後、何だと質問の意図を聞き返す辺り文次郎の後輩への甘さが伺える。
 団蔵は「利吉さんが尊敬する人は山田先生だとおっしゃっていたので」と答えになっていない答えを返した。文次郎が首を傾げると伝わっていないと気付いたのか、「だから潮江先輩は誰を尊敬しているのか気になって」と言葉を付け加えた。
 んんん、と文次郎は弾いていた手を止めた。一年は組の実技担当教師山田伝蔵の一人息子である山田利吉は、忍たま達の憧れの的である。恐らく団蔵はその人の話に影響を受け、所属する委員会の先輩達にも繋げたのだろう。

「俺の尊敬する人、か」
「いらっしゃいますか?」
「ああ、勿論だ。この学園に入って以来ずっと尊敬している方々がいる」
「誰ですか? 先生ですか?」

 いるという答えに、団蔵はワクワクといった表情を浮かべた。こっそり聞き耳を立てていたのか、残る後輩達も算盤を弾きながらも耳を欹てている。
 文次郎は己が使っていた算盤に目を落とした。年季が入っていると一目見て分かるそれを見ながら、尊敬する者の名前を挙げる。

「一番尊敬しているのは、浜仁ノ助先輩だ」
「浜先輩?」
「俺が一年の時、会計委員会の委員長をなさっていた方だ」
「へえ……。潮江先輩は、その浜先輩を尊敬しているのですか?」

 団蔵の言葉に、文次郎はそうだなと小さな笑みを浮かべた。何か幸せなことを思い出しているかのような優しいそれに、横目で見ていた三木ヱ門の手が止まる。

「浜仁ノ助委員長は三禁を守り正心を重んじ、常に鍛練を積み重ね精進なさっていた」
「……うわぁ」
「とても厳しいお方だったな。妥協を許さず、貪欲なまでに強さを欲し、そして――」

 文次郎と己の名を呼ぶ声が、よく出来たと頭を撫でる大きな手が、脳裏を過ぎる。

「――とても、お優しい方だった」

 厳しさに隠された、膨大な海のように包み込む優しさ。誰も気付かなかったそれを、文次郎は、否、会計委員会だけが知っていた。

「何があろうとも、あの人は俺達の前に立ち守ってくださった。絶対に俺達の前では弱音を吐かず、前を見据え続けていた」

 その広く大きな背中に守られる度、文次郎は憧れを抱いた。その背中のように、何時か己も誰かを守れる存在になりたいと強く望んだ。

「あの人こそが忍びのあるべき姿だと、幼心に思っていたよ」

 まあ今も思っているがな、とそれで話を締め括り、いつの間にか手を止めていた後輩達に続きをやるよう文次郎は促した。
 然し、誰ひとりとして算盤を弾こうとはしない。互いに視線を交わし、うんうんと何やら頷いている。
 その不思議な行動に疑問を抱きつつも「手を動かんかっ!」と声を張り上げると、「はいっ!」と慌てて漸く算盤を弾き出した。
 再び算盤の弾く音が部屋の中に響き渡るようになり、文次郎はよしと帳簿に目を落とした。算盤を弾こうとし、ふと手を止める。

『はい、なっちゃん』
『組頭委員長と小姓先輩とさっちゃん先輩』
『皆の想いがつまった、これ』
『なっちゃんの、番だよ』
『なっちゃんが、引き継いで』
『任せたよ、なっちゃん』

 二つ上の、二人で委員長を務めた――実際は文次郎が代理をしていたようなものだったが――双子の先輩。その先輩達が卒業して学園を出ていく際に引き継いだ、委員長の算盤――歴代の委員長の想いが詰まった、会計委員会の宝物。

(徳先輩、林先輩、こーた先輩おーた先輩)

 いつ頃だっただろうか。双子の先輩に愛称で呼べと強請られ、そのまま何故か先輩全員を愛称で呼べる権利を得てしまったのは。

(仁、先輩)

 慣れないそれに苦戦しながらも呼ぶと、乱暴に頭を撫でてくれた温かい手の持ち主。何ですかと振り向いてくれた穏やかな笑顔の持ち主。おうと照れ臭そうにした綺麗な目の持ち主。なっちゃんと返してくれた優しい声の持ち主。

(俺は、引き継いでいるでしょうか。俺の背中を、こいつらは見ていてくれているでしょうか)

 全員を、文次郎は尊敬していた。全員の背中を、文次郎は必死に追い掛けてきた。

(貴方達のように、守れているでしょうか)

 その問い掛けに答えてくれる者がいるわけもなく。文次郎は一度目を閉じ心を落ち着かせてから、パチンと算盤の弾を弾き出した。

20130209
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